──この命題は方法論ではない。存在論である。──
在り方が戻れば、
成長は勝手に起きる
近代は成長を「させる」ものに変えた。
しかし成長の原型は「起きる」ものだった。
幼児が歩けるようになった日と同じ構造が、
大人にも回復し得る。鳩尾から湧くものを殺さなければ。
近代が変換したのは、「成長」そのものだった。
教育を設計し、スポーツを設計し、ビジネスを設計し、人生を設計している最も根深い変換。
二十の変換のすべての根底に、この変換がある。
近代が変換した「成長」
成長とは何か。近代はこの問いに、一つの回答を用意した。目標を設定し、努力し、達成し、次の目標を設定する。この反復が成長である、と。
PDCAサイクル。KPI。偏差値。年俸。査定。昇進。すべてが同じ回路の上にある。去年より今年、今年より来年、数値が右肩上がりになることが「成長した」の判定基準であり、止まった時間は「停滞」、下がった時間は「後退」としか測れない。
この成長モデルは、能動態の構造を持っている。主語は常に「私」であり、「私」が目標を立て、「私」が努力し、「私」が達成する。成長は「私」の所有物として蓄積される。
しかしこの構造の内部には、三つの命題が埋め込まれている。志と理想こそが妥協の源泉である。近代とは志を妥協に変換する装置である。志で社会を変えようとする者は、志によって社会に変えられる。
目標が高ければ高いほど、現実との落差が大きくなり、落差を埋めようとする過程で妥協が膨らむ。そしてある年齢に到達したとき、この構造が臨界点を迎える。能動態の成長モデルの燃料が尽きる。そのとき人は「もう成長は終わった」と感じる。しかし終わったのは成長ではない。能動態の成長モデルの燃料が尽きただけだ。
中動態の成長とは何か
幼児が歩けるようになる過程を思い出してほしい。
目標を立てない。「来月までに歩けるようになる」とは思わない。計画しない。PDCAを回さない。立とうとして転ぶ。転んでまた立つ。その繰り返しの中で、ある日、歩いている。
本人は「たまたま」としか言いようがない。これが成長の原型である。
園庭の子どもが走り続ける構造も同じだ。一人が走り出すと、みんなが走り出す。誰も命令していない。鳩尾から湧いた衝動が、鳩尾から鳩尾へ転移して、走ることが場に勝手に発生する。
「勝手に」の三層構造
近代は「勝手に」を信用しない。勝手に起きるものは管理できない。管理できないものは再現できない。再現できないものは商品にならない。だから近代は「勝手に」を排除し、「意図的に」に置き換えた。
しかし「勝手に」の中身を分解すると、そこには精密な構造がある。
「勝手に」を殺す三つの装置
近代がこの「勝手に」を殺してきた装置を構造化する。
脱近代とは、この三つの装置を外すこと。外したとき、「勝手に」が回復する。在り方が戻る。成長が勝手に起きる。
近代が「ネガティブ」と呼ぶものの正体
近代の成長モデルは、一つの人間像を前提としている。目標を持ち、自信を持ち、言語化でき、前向きである人間。この人間像に合致しない者は「ネガティブ」と診断される。
目標を語れない。自信がない。人見知り。言語化が苦手。近代の蓄積の評価基準では、これらはすべて欠点であり、成長の阻害要因であり、克服すべき弱さだ。
しかし中動態の成長論から見ると、これらの「欠点」は全く異なる意味を持つ。
目標を語れないのは、大脳の志が弱い代わりに、鳩尾の回路が閉じていないからかもしれない。蓄積の言語──目標、数字、タイトル──に自分を翻訳できないのは、翻訳する必要を鳩尾が感じていないからかもしれない。
自信がないのは、自分を所有していないからかもしれない。「自信」とは「自分を信じる」と書く。しかし信じるためには、信じる対象としての自分を一度対象化しなければならない。自分を対象化できない人間は、自信を持てない。しかし自分を対象化しないことは、衝動の中にそのままいることと同義だ。衝動の中にいる人間は、自信の代わりに、在り方を持っている。
近代は中動態の人間を構造的に誤診する。この誤診は「秀才の構造的欠陥」の成長論版だ。
在り方が戻るとは、
三つの回復が同時に起きることだ。
身体の自己組織化の回復。発酵的時間の回復。転移の回路の回復。
この三つが揃ったとき、成長は「させる」ものではなく「起きる」ものに戻る。
中動態の発火
中動態の在り方は「静か」だと思われている。しかし在り方の持続の中で、ある瞬間に発火が起きる。
発火のタイミングは本人にも選べない。だから「たまたま」。
発火とは、能動的に積み上げた成果ではなく、持続してきた在り方が身体の表面に溢れ出る瞬間。雄叫び。涙。言語にならない震え。それは志の達成の歓喜とは質的に異なる。在り方の中にいた時間の全てが、一瞬に凝縮して現れる。
在り方の中にいれば、いつか必ず発火する。ただし「いつか」は指定できない。「いつ結果が出るか」を管理しようとした瞬間、能動態に戻り、三つの装置が再び作動する。
不確定性を受け入れるとは、在り方の中にい続けることであり、それは信仰でも根性でもなく、身体が心地よいから続けている、ただそれだけのことだ。
鳩尾から湧く成長
「在り方が戻れば、成長は勝手に起きる」。
この命題は方法論ではない。存在論である。
近代の成長論は「どうすれば成長できるか」を問う。この命題は「成長とは何か」を問い直す。
成長とは、中動態の在り方が持続する中で、身体が勝手に変わり、ある瞬間に発火すること。
近代が変換する前の、人間の成長の原型。幼児が歩けるようになった日と同じ構造が、大人にも回復し得る。鳩尾から湧くものを殺さなければ。
近代は、成長を「させる」ものに変えた。教育が成長させる。トレーニングが成長させる。ビジネスが成長させる。「させる」の主語は常に大脳であり、大脳が設計した目標と計画と評価の中で、人間は「成長させられる」。
しかし成長の原型は「起きる」ものだった。
歩けなかった子どもが歩けるようになる。泳げなかった子どもが泳げるようになる。話せなかった子どもが話せるようになる。すべて「起きた」ことであり、「させた」ことではない。在り方の中にいたら、身体が勝手に変わった。
大人になるとは、この「勝手に」を失うことだと思われている。しかし失ったのではない。三つの装置によって殺されただけだ。殺されたものは、回復し得る。
在り方が戻ったとき、大人の中にも、園庭の子どもと同じ回路が再び開く。鳩尾から湧くものに身体が応じ、身体が勝手に変わり、ある日、発火する。その日がいつ来るかは、誰にも──本人にすら──わからない。わからないまま、在り方の中にい続ける。
それが、成長の原型である。
ダ・ヴィンチコーディング──衝動の方法論
この論考は、宮崎要輔が執筆中の書籍『ダ・ヴィンチコーディング』に収録予定です。「沈殿──問いの精度と関係性の沈殿」に続く第二のWeb公開章です。
宮崎要輔──合同会社GETTAプランニング代表。追手門学院大学大学院社会学研究科修士課程修了。一本歯下駄GETTA開発者。Jリーガー112名以上、プロ野球選手45名以上の身体に触れてきた20年以上のスポーツトレーナー。兵庫医科大学との共同研究。全国230名以上の認定インストラクター。累計販売30,000台超。