失われた身体文化を取り戻す:文化身体論のススメ
序論:身体と文化の深い繋がり
現代社会において、私たちは、健康や美容のために様々な身体トレーニングやエクササイズを実践しています。しかし、これらの多くは西洋的な視点に基づいたものであり、日本人が古来より培ってきた身体文化とは異なる場合があります。
例えば、伝統芸能や武道に見られる身体の動きは、単なる運動機能を超えた、深い文化的意味を持っています。しかし、現代の私たちは、こうした身体文化との繋がりを失いつつあるのではないでしょうか。
身体文化論の限界:西洋化された身体と意識の断絶
身体文化論は、人間の身体と文化との関係性を考察する学問分野です。身体は単なる生物学的な存在ではなく、文化や社会によって様々な意味や価値が付与され、構築されるものとして捉えます。
具体的には、以下のようなテーマが研究対象となります。
- 身体観の変遷: 歴史や文化、社会の変化に伴い、身体に対する考え方や価値観がどのように変化してきたのかを考察します。
- 身体表現と文化: ダンス、スポーツ、ファッションなど、身体を用いた表現活動が文化とどのように関わっているのかを分析します。
- 身体とアイデンティティ: ジェンダー、人種、年齢、障害など、身体的特徴がアイデンティティの形成にどのように影響するのかを考察します。
- 身体とメディア: マスメディアやソーシャルメディアが身体イメージや身体観にどのような影響を与えているのかを分析します。
- 身体とテクノロジー: 人工知能、ロボット工学、バイオテクノロジーなどの発展が身体や身体観にどのような変化をもたらすのかを考察します。
身体文化論は、社会学、文化人類学、哲学、歴史学、心理学、メディア論など、多様な学問分野と関連を持ちながら発展しています。
その身体文化論において、近代以前の日本人の身体技法や身体観に着目し、現代の私たちとの違いを明らかにする研究分野があります。
例えば、身体観においては、日本人は身体の各部位を曖昧に捉え、全体を繋げて動くことを重視していました。これは、西洋のように各部位を細かく分析し、個別に動かす考え方とは対照的です。また、「足半」や「下駄」といった伝統的な履物も、日本独自の身体技法と密接に関係していました。これらの履物は、足裏全体を使った「なんば歩き」のような歩行法を生み出し、現代の靴とは異なる身体の使い方を促しました。
しかし、身体文化論は、過去の身体文化を詳しく分析する一方で、現代人の身体に深く根付いた西洋化の影響を十分に考慮できていませんでした。私たちは、知らず知らずのうちに西洋的な価値観や習慣に影響され、身体を部分的に捉え、効率性や機能性を重視する傾向があります。
その結果、過去の身体技法を「形」だけ真似ても、その動きに込められた「間」や「型」といった深い意味や身体感覚を理解することはできませんでした。
文化身体論:身体と文化を統合する新たなアプローチ
そこで、新たな視点として「文化身体論」が登場します。文化身体論は、身体文化論の限界を超え、身体と文化の相互作用をより深く理解し、現代の私たちが失われた身体感覚を取り戻すための方法を探求します。
仮想的界としての能楽:身体文化の伝承に触れる
文化身体論では、能楽を「仮想的界」として設定します。能楽は600年以上の歴史を持つ伝統芸能であり、その身体技法は「型」によって厳格に受け継がれています。能楽師の所作や身体の使い方を学ぶことで、西洋化された身体意識から脱却し、日本古来の身体感覚に近づくことができるのです。
能楽の「型」は、単なる形式的な動きではありません。そこには、身体全体の調和や、動きと静止の「間」、そして演目における歴史や文化的な背景が深く織り込まれています。能楽を学ぶことで、私たちは、身体を部分ではなく全体として捉え、自然な流れの中で動くことの大切さを再認識することができます。
また、能楽は身体技法だけでなく、精神的な要素も重視しています。集中力や呼吸法、身体と心の繋がりなどを意識することで、より深いレベルでの身体表現が可能になります。
道具との対話:機能的保存された身体文化を体感する
日本の伝統的な道具には、身体文化が「機能的」に保存されています。足半や下駄、着物は、その形状や素材によって、特定の身体の使い方を促します。これらの道具を使う際、ただ使うのではなく、道具と対話し、敬意を持って接することで、その中に眠る身体文化が見えてきます。
例えば、下駄を履く際には、現代の靴のように踵で着地するのではなく、足裏全体を使って地面を捉える必要があります。これは、下駄の構造と、それを履いて生活していた人々の身体感覚が深く結びついているからです。道具との対話を通して、私たちは、身体と道具、そして文化が一体となって作り上げてきた身体技法を体感することができます。
からだメタ認知:言葉で意識化し、身体知を深める
身体の動きや感覚を言葉で表現する「からだメタ認知」も、文化身体論において重要な役割を果たします。例えば、下駄を履いた時の足裏の感覚や、身体の重心の変化などを言葉にすることで、無意識だった動きを意識化し、身体と道具の間に生まれる相互作用を深く理解することができます。
言葉にすることで、私たちは、自分の身体がどのように動いているのか、どのような感覚を感じているのかを客観的に把握することができます。これは、身体と意識の繋がりを深め、より繊細な身体制御を可能にするための第一歩です。
また、からだメタ認知は、身体感覚を言語化することで、他者との共有を可能にします。これは、身体技法の伝承や、新たな身体表現の開発においても重要な役割を果たします。
わざ言語:身体知を伝える暗黙知
「わざ言語」とは、伝統芸能や武道の師匠が弟子に技を伝える際に使う、独特の表現方法です。例えば、「腰を入れる」という言葉は、単に腰を曲げるという意味ではなく、重心を下げたうえで上げる、体幹を安定させるといった複数の身体動作を包括的に表しています。
わざ言語は、抽象的な身体感覚を具体的な言葉で表現することで、弟子が師匠の動きを理解し、再現することを助けます。また、わざ言語は、単なる技術的な指導だけでなく、精神的な教えや、その技に込められた歴史や文化的な背景を伝える役割も担っています。
例えば、「残心」という言葉は、技を終えた後も気を緩めず、次の動作に備える心の状態を表します。これは、武道における礼節や精神性を伝えるための重要な概念です。
わざ言語は、言葉と身体知が深く結びついた、日本の伝統文化ならではのコミュニケーションツールです。私たちは、わざ言語を通して、先人たちの知恵や経験を学び、自身の身体表現を豊かにすることができます。
文化身体論が拓く未来:新たな身体表現の可能性
文化身体論は、過去の身体文化をただ再現するだけではありません。それは、伝統的な身体技法や身体観のエッセンスを現代に取り入れ、新たな身体の可能性を拓くためのアプローチです。
「間」や「型」といった、言葉では説明しきれない身体感覚を理解し、身体と文化の新たな関係を築くことで、現代社会における身体の在り方を見つめ直すことができます。それは、スポーツや芸術、日常生活など、あらゆる場面での身体表現を豊かにし、私たち自身の可能性を広げることに繋がるでしょう。
例えば、スポーツ選手であれば、伝統的な身体技法を取り入れることで、パフォーマンス向上や怪我の予防に繋がるかもしれません。また、芸術家であれば、身体と文化の深い繋がりを表現することで、より深みのある作品を生み出すことができるでしょう。
まとめ:文化身体論で身体と文化の調和を取り戻す
現代社会は、効率性や生産性を重視するあまり、私たちの身体を機械のように扱う傾向があります。しかし、文化身体論は、身体と文化の調和を取り戻し、人間らしい豊かな身体表現を取り戻すためのヒントを与えてくれます。
能楽や伝統的な道具を通して、身体と文化の相互作用を深く理解し、からだメタ認知やわざ言語によって身体感覚を意識化することで、私たちは、西洋化された身体意識から解放され、新たな身体の可能性を見出すことができるでしょう。
文化身体論についての論文を読みたい方は下記を参照ください。
・追⼿⾨学院⼤学 ⽂学研究科 社会学専攻 修⼠論⽂
・日本スポーツ産業学会 第9回冬季学術集会リサーチカンファレンス 研究発表論文
⽂化⾝体論の構築に向けての⼀考察〜伝承的⾝体の再現性に着⽬して〜
宮崎 要輔
日本スポーツ産業学会 第9回冬季学術集会リサーチカンファレンス
提出要約
文化身体論の構築に向けての一考察-伝承的身体の再現性に着目して-
追手門学院大学大学院 文学研究科 社会学専攻 宮崎 要輔
1. 緒言・研究目的 本研究は、身体文化、身体技法の分析からの拡張、身体化で留まっていた身体文化論から
脱却し、文化身体論という形で、道具の拡張、身体化の先にある「型」を文化資本として身 体化し、再現性、再帰省あるものとして構築したものである。
緒言においては、身体運動におけるトレーニングにおいて、同じ「形」の動きでも生じる 固有差が、「間」や「型」によって証明できる可能性である。これらを身体の動きとして組 み込むことが、伝統的な身体文化、身体技法を再現性あるものとする可能性について論じた。
先行研究では、哲学者であり、身体論者である市川浩(1990)の「身分け」と「身分けさ れる」といった道具や文化や歴史を身体化させていく自己組織化システム、教育哲学者の生 田久美子(1987)が伝統芸能の伝承の中で見出した「わざ言語」のように、哲学及びに認知 領域から身体文化論を明らかにしようとする視座と芸道の身体技法を研究する矢田部英正 (2011)や教育学者の齋藤孝(2000)のように、過去の写真等の資料を読み解くことで、失 われた身体文化、身体技法が如何なるものであったかという分析を行う視座があることを 明らかにした。
2.考察 第1章では、日本人の日常から失われた身体文化、身体技法にはどのようなものがあるの
かを明らかにした。身体観においては、現在のように解剖学的に各部位を細部化して捉える ものと違い、身体の各部位に対して広く曖昧であった。そして、近代以前の日本人の姿勢や 体つきに多くみられる特徴として、なで肩の猫背で「みぞおち」部分はへこみ、顎は少し上 向きに突き出されており、現在の日本人の姿勢や体つきとは異なるが、身体文化論として、 そこに「善さ」が認められていた。身体文化論で広く論じられてきた道具に、足半や下駄が ある。こうした道具の分析から、歩行などの身体技法が現代のものとどう異なり、如何なる ものであったかが表象されている。そして、なんば歩きに代表されるように、現代の動きと 比べ、身体全体による動きが伝統的身体文化、身体技法であるのことが明らかとなっている。
しかし、身体文化論は、社会世界の構造が身体化したものであるハビトゥスに包括されて いる西洋化を捉えることができていない。そのため、西洋化によるハビトゥスの再生産の問 題は置き去りにされ、身体文化を実践する上での界(Champ)も不在なため、西洋化による ハビトゥスの再生産に歯止めをかけることができず、身体文化論は身体文化、身体技法の再 現性の低いものとなっている。ここに、限界が存在するのは明らかである。
第2章では、西洋化によるハビトゥスの再生産に歯止めをかけるものとして、仮想的界を 提示した。そして仮想的界には、伝承によって伝統的身体技法が保存されている能楽が仮想 的界として適任である根拠について、その歴史的背景や剣術との結びつきを明らかにした。 更に、仮想的界の補完として、足半や下駄のように、伝統的な身体文化、身体技法が機能的 保存された伝統的道具を論じた。文化人類学者の川田順造(2014)が論じたように、日本の伝統的道具は、人間依存の特徴を持つからこそ、過去の身体文化、身体技法の機能的保存が みられる。ただし、矢田部が論じたように、西洋化によるハビトゥスからの実践では、これ らを身体化することはできない。そこで、重要になるのが、道具側の働きかけからの思考化、 意識化、さらにいえば工学の立場から身体知の研究をしている諏訪正樹(2016)の論じた「か らだメタ認知」などの「ことば」と体感を結びつけた意識的な反省による実践である。こう した実践が、ハビトゥスにあるヒステレシス効果をおこし、道具の中にある機能的保存され た身体文化に沿ったハビトゥスへと変容させていくことを明らかにした。 第3章では、第2章において、論じた「伝承的保存のある仮想的界」、「機能的保存のあ る道具」、「道具と身体との関係を紐付ける『ことば』による身体知を高める行為」を前提 として、機能的保存のある道具をより、文化資本として高める理論構築について明らかにし た。「暗黙知」概念の近位項における実践としてオノマトペの採用は、文化人類学者の菅原 和孝(2004)が、身体配列の概念として提出した「身体化された思考」のように、身体感覚 と道具を言語記号と共に記録して身体化するものである。これら、実践の先にあるのが西村 秀樹(2019)の論じた身体感覚の二重構造である。西村の論じる身体感覚の二重構造とは、 心と身体を区別して、それぞれに役割を持たせるのではなく、身体感覚として心と身体を統 合した上で、「身体に留まる身体感覚」と「身体の外へと転移していく身体感覚」という二 重性が「無心」の中での同調と応答の同時性を成立させ、生成を繰り返す循環を成立させる のである。 この生成活動のある実践の先にあるのが「間」の発見、会得である。この「間」は、伝統芸能や道具の中に保存され、内在していた「間」である。身体感覚の二重構造の働きから、 心、身体、環境、歴史、比喩表現から起こる動作といった実践に関わる全ての事柄が包括さ れていき、それが「間」への気づき、そして、この「間」が、「無心」の領域である「型」 の入り口となっているのである。実践者は、「間」を自らの競技に応用して落とし込んでい くことで、自らの競技における「型」、その競技のトレーニングにおける「型」をみつけて いくことが可能になる。このように、文化身体論は、「間」と「型」を分析するのではなく、 「間」と「型」を文化資本として身体化させることが明らかとなった。
3. 結論 従来の身体文化論では、身体が先行したものであった。そして、道具の身体化は、あく
までそれは西洋化によるハビトゥスの中での身体化であった。それに対し、文化身体論 は、伝統芸能や道具の中にある伝統的身体文化、身体技法を文化資本として身体化させて いくものである。この文化資本の到達点こそが「間」と「型」であり、文化身体論の実践 とは、この文化資本の到達点を身体化させるものである。そしてこの「間」と「型」とい う文化資本の到達点は、野球界、陸上界と各々の界に持ち込むことができ、闘争やゲーム を有利に進めるものとして応用することができる。従来、文化資本は家族の経験、地域性 などの生まれ育った環境依存であった中、文化資本を後天的に獲得し、界での闘争やゲー ムに持ち込める理論が文化身体論である。だからこそ、伝承的身体の再現性に着目し、文 化身体論の構築に向けての視点を持つ更なる研究が必要であると結論づける。 【参考・引用文献】
生田久美子,1987,『「わざ」から知る』,東京大学出版会. 市川浩,1993,『身の構造』,講談社.