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GETTAプランニング > コンセプト

Chapter 01

鳩尾から湧くもの

人間の身体には、大脳が管理する前に動き出す領域がある。横隔膜の直下、腹腔神経叢(solar plexus)。解剖学では自律神経の集合体とされるこの場所を、私たちは鳩尾と呼ぶ。

園庭にいる五歳の子どもを見てほしい。走りたいから走っている。笑いたいから笑っている。「なぜ走るのか」と問われても答えられない。問う前に身体が動いている。あの衝動は前頭前皮質で計画されたものではない。鳩尾から湧いたものだ。

この衝動には二つの層がある。表層の衝動──触りたい、勝ちたい、走りたいという個としての衝動。そして深層の衝動──みんなの中にいたい、この場所にいたいという場所への衝動。園庭の子どもたちは、この二つの層が未分化のまま一体になっている。走ることと、仲間と一緒にいることが、同じ一つの衝動から湧いている。

私たちの事業は、この衝動を出発点とする。大脳で設計された事業計画からではなく、鳩尾から湧いたものから始まっている。


Chapter 02

衝動と探求の転倒

現代社会は「探求」を最高のものとして位置づけている。教育現場では「探究的な学習」が柱に据えられ、企業では「課題の発見と解決」が求められ、スポーツでは「なぜその練習をするか考えよう」と指導される。

しかしここに根本的な転倒がある。

衝動が先で、探求が後。
現場が先で、哲学が後。
身体が先で、大脳が後。

このはずなのに、現代社会は探求をスタートにしている。

「問いを立てましょう」と教師が子どもに言うとき、子どもの鳩尾は動いていない。子どもの鳩尾は「もう一回やりたい」「触りたい」「走りたい」と言っている。それを「なぜやりたいの?」「何がわかった?」「どうまとめる?」と変換する。衝動が探求に翻訳される瞬間だ。

探求は大人の言葉だ。大人が子どもを観察し、空間を設計するための道具だ。子どもから自然発生で「探求したい」という言葉が出てくることは少ない。探求は大人たちが考えた理想でしかない。それは思考であり、大脳的でもある。

衝動はもっと内から来る。脳というよりも身体であり、鳩尾から湧き出る。子どもが没頭し、学習が一気に深まり、広がるのは、探求ではなく衝動の方である。

世の中が探求を最高のものとするのは、記述装置が探求の側にあるからだ。論文も書籍も実践記録も、すべて大脳の側で書かれている。衝動は言葉にならないから記録されない。記録されないから存在しないことにされる。しかし存在しないのではない。記録できないのだ。


Chapter 03

入口の転倒

スポーツ指導の現場には、目に見える常識がある。筋肉を鍛える。フォームを正す。反復して覚える。すべて「筋肉から入る」方法だ。

しかし20年超の現場で、私が見続けてきたのは逆だった。空手選手の肋骨の痛みが消えたのは、筋肉を治療したからではなく、多裂筋の固有感覚から入り直したからだった。脳梗塞の片麻痺の方が杖歩行から杖なし歩行に変わったのは、リハビリの量を増やしたからではなく、足裏からの入力経路を変えたからだった。

筋肉から入ったのではなく、固有感覚から入った。目に見えるものから入ったのではなく、目に見えないものから入った。これを入口の転倒と呼ぶ。

一本歯下駄GETTAは、入口の転倒を強制する装置だ。一本歯の上に立つとき、「どう立つか」を考えてから立つことはできない。立った瞬間に足裏の20万個のメカノレセプターが発火し、多裂筋が自動起動し、腸腰筋に伸張反射が走る。大脳が設計する前に、身体が応答を始める。イメージの模倣を経由せず、身体の直接応答を引き出す。衝動がスタートだ。


Chapter 04

鍛えるな、醸せ。

味噌を作るとき、人間は大豆を混ぜるだけだ。変化を起こすのは菌。醸造家は発酵を「させる」のではない。発酵が「起きる」条件を整える。そして自分自身が発酵の回路の中にいる。

GETTAに乗るとき、人間は立つだけだ。変化を起こすのは深層筋の固有感覚反射。トレーナーは身体を「鍛える」のではない。身体の中で変化が「起きる」入口を整える。

「鍛える」は能動態だ。主語はトレーナーであり、対象は選手の身体だ。「醸す」は中動態だ。主語と対象が分かれない。醸している自分自身が醸されている。

生産は蓄積。発酵は転移。
能動態は管理。中動態は参与。
鍛えるは文明。醸すは文化。

230名超のインストラクターは、蓄積された専門家ではない。転移する文化資本の回路を開く醸し手である。

Chapter 05 ── Evolution

転移する文化資本

ブルデューは文化資本を三つの形態で記述した。身体化された文化資本、客体化された文化資本、制度化された文化資本。三つすべてが「蓄積」の概念で記述されている。蓄えるもの。所有するもの。持っている者と持っていない者を分けるもの。

しかし園庭の子どもたちが持っていたものは、蓄積ではなかった。

鳩尾から湧いた衝動が、走りを通じて、笑いを通じて、隣の子どもの鳩尾に届く。誰のものでもない。全員のものでもない。「みんなでつくる空間」に属している。所有ではなく参与。蓄積ではなく転移。

転移する文化資本とは──
鳩尾から湧いた衝動が、媒体を通じて他者の身体に立ち現れ、
純粋持続の中で質的に変容し続ける、所有不可能な文化の力。

蓄積されない。しかし持続する。量にならない。しかし質が変わる。個人に帰属しない。しかし身体に浸透する。測定できない。しかし母親の鳩尾はそれを知っている。

ブルデューは時間を空間化したから蓄積しか見えなかった。転移する文化資本は、蓄積以前に存在する文化の原型だ。

Chapter 06

近代の三重変換装置

近代は三つの変換を同時に遂行する。三つの別々の装置ではない。一つの装置の三つの面だ。

領域 原型(文化) 変換後(文明)
行動 美学 → 志 → 妥協
衝動 → 探求
社会 転移する文化資本 → 蓄積する文化資本

志が妥協に変換される過程で、衝動が探求に変換され、文化資本が蓄積に変換される。三つは連動し、正のフィードバックで加速する。

「かけっこで一番になりたい」(志への変換)→「なぜあの子は速いんだろう」(探求への変換)→「あの子は足が速い」(蓄積への変換)。一つの運動場で、同じ瞬間に、三つの変換が同時に走っている。

個別の変換には合理性がある。しかし変換の総体が、鳩尾を沈黙させる。


Chapter 07

十九の変換──近代が変えたものの目録

三つの変換は、十九の領域に波及している。すべてが同じ方向を向いている。身体から湧くものを大脳に移し替える

行動美学 → 志 → 妥協
衝動 → 探求
社会転移する文化資本 → 蓄積
遊びみんなでつくる空間 → カイヨワの四類型
時間純粋持続 → 空間化された時間
知覚立ち現れ → 表象
身体鳩尾の発火 → 前頭前皮質の制御
教育子どもの衝動 → 探求学習
スポーツ深層の衝動 → 表層 → 志 → 記録
暗黙知立ち現れる暗黙知 → 表象される暗黙知
模倣衝動の転移 → ミラーニューロン的模倣
身体文化腱優位 → 筋肉優位
環境不安定な地面 → 椅子・靴・平地
言語中動態 → 能動態/受動態
天才動詞 → 名詞
自由制約の浸透 → 制約からの解放
指導者醸造家 → 専門家
ビジネス発酵 → 生産
社会変革美学的存在からの変容 → 志による変革 → 回収

Chapter 08 ── Evolution

脱近代

脱近代とは、近代を捨てることではない。

近代が変換したものの原型を取り戻すことだ。

近代の達成を認める。変換の構造を正確に記述する。変換以前の原型を指し示す。怒りがなく、否定がなく、回復だけがある。

文化とは、人間を人間にした力。鳩尾から湧く衝動が、転移し、共鳴する。所有できず、蓄積できない。

文明とは、人間の集団を拡大した力。制度化し、蓄積する。

近代とは、器(文明)が中身(文化)を呑み込んだ時代。

脱近代とは、器を壊さず中身を取り戻すこと。

脱近代は思想ではない。身体の出来事だ。

Chapter 09

四人の巨人と鳩尾

衝動の転移を記述しようとした先人がいる。四人とも衝動を別の語彙に翻訳した。私は翻訳しない。

イサドラ・ダンカン

太陽神経叢(solar plexus)をすべての動きの源泉として特定した。衝動がどこから湧くかを身体で知った最初の人。

限界:「魂」の語彙に回収した

ジル・ドゥルーズ

ベーコン論で「大脳を迂回し神経系に直接作用する力」と衝動の転移構造を記述した。力が外から来るのではなく、内から湧き媒体を通じて他者の内にもう一度湧くことを見た。

限界:芸術論に限定した

アンリ・ベルクソン

エラン・ヴィタル(生命の飛躍)と純粋持続で、転移の時間的構造を提供した。蓄積ではなく持続。量ではなく質の変容。衝動はベルクソン、探求はダーウィン。

限界:鳩尾という座も装置も持たなかった

大森荘蔵

「立ち現れ一元論」で、転移の空間的構造を提供した。表象(ミラーニューロン的模倣)とは異なる、直接性としての立ち現れ。「そのつど、いま・ここで」。

限界:身体の実践に展開しなかった

四人の到達を統合する。ダンカンの座(鳩尾)、ドゥルーズの力(転移)、ベルクソンの時間(純粋持続)、大森の空間(立ち現れ)。その統合を、GETTAという装置と、野遊びスクールという場所と、インストラクターという人間に実装する。それが私たちの事業だ。


Chapter 10

秀才の構造的欠陥

秀才は人間が作った理論・ルール・法律・システムを学ぶ。しかしこれらの体系は、生命の根源を体感していない人間が構築したものだ。体系に本質が抜け落ちている。

秀才は学ぶほど確信を深め、確信を深めるほど生命から遠ざかる。秀才が社会のトップに立ちシステムを設計するから、社会がずれる。

近代の社会システムとは、
生命の根源を知らない秀才が、
生命の根源を含まない体系に基づいて構築した、
精巧なずれである。

善意を疑わない。体系の欠落を指摘する。秀才の欠陥は個人の問題ではなく、構造の問題だ。記述装置が大脳の側にある限り、鳩尾から湧くものは記述から抜け落ちる。


Chapter 11

ダ・ヴィンチコーディング

ダ・ヴィンチは分析したから統合したのではない。同じ衝動で見続けたから収束した。

鳩尾から湧く一つの衝動の持続の中で複数の対象を見続け、
衝動のリズムが対象の中に同じものを立ち現れさせ、
その立ち現れを自分の身体と現場に実装する行為。
── ダ・ヴィンチコーディングの定義

探求の方法論ではない。衝動の方法論だ。

プロボクサーの身体と五歳の子どもの身体に同じものが見える。Jリーガーの極限とメロン農家の追熟に同じ構造が見える。複数の領域が同じ結論に収束することは「重複」ではなく「本質の証拠」だ。

思想体系における位置。三命題は診断。天才七文は呼びかけ。転移する文化資本は構想。ダ・ヴィンチコーディングは実装。


Chapter 12

GETTAの最深定義

一本歯下駄GETTAは、商品ではない。トレーニング器具でもない。

近代の三重変換を逆転させる装置だ。

第一に、大人の中で沈黙した鳩尾を再発火させる。立った瞬間に足裏から固有感覚が発火し、大脳を迂回して鳩尾に届く。

第二に、転移する文化資本の回路を大人の身体に再び開く。複数の人間がGETTAの上に立つとき、一人の衝動が他者に転移し始める。園庭の回路がもう一度開く。

第三に、園庭の衝動の共振を大人にもう一度取り戻す。イメージの模倣を経由せず、身体の直接応答を引き出すことで、表象の回路を退かせ、立ち現れの回路を前面に出す。

Chapter 13

三つの事業、一つの衝動

合同会社GETTAプランニングの三つの事業は、三つの別々の事業ではない。一つの衝動の三つの実装だ。

一本歯下駄GETTAは、衝動を道具にしたものだ。鳩尾を再発火させる装置を作り、累計30,000台を届けた。

野遊びスクールは、衝動を場所にしたものだ。和歌山市本町公園で毎週木曜、下駄で足裏を活性化し、裸足で多種目スポーツに取り組み、みんなで食べる。それぞれの鳩尾が動いている時間の掛け算。

インストラクター認定は、衝動を人にしたものだ。全国230名超の認定インストラクターは、蓄積された専門家ではなく、転移する文化資本の回路を開く醸し手。

道具で入口を変え、場所で衝動を共振させ、人で回路を全国に開く。入口が違うだけで、行き先は同じだ。鳩尾から湧くものを、翻訳しないまま、他者の鳩尾に届ける。

Master Concept

足さない。引く。
原型を指し示す。

ベルクソンが先、ダーウィンが後。

この順序を取り戻すことが、
脱近代のすべてである。

── 宮崎要輔

文字で読むのと、
身体で確かめるのは違います

ここに書いたことのすべては、一本歯の上に立てば身体で確かめられます。

足裏で確かめる

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