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鍛えるのではなく、醸せ。
合同会社GETTAプランニングの事業のすべては、一つの衝動から始まっている。その衝動がどこから湧くのか。なぜ翻訳しないのか。なぜ道具にし、場所にし、人にするのか。ここにその全貌を記す。
人間の身体には、大脳が管理する前に動き出す領域がある。横隔膜の直下、腹腔神経叢(solar plexus)。解剖学では自律神経の集合体とされるこの場所を、私たちは鳩尾と呼ぶ。
園庭にいる五歳の子どもを見てほしい。走りたいから走っている。笑いたいから笑っている。「なぜ走るのか」と問われても答えられない。問う前に身体が動いている。あの衝動は前頭前皮質で計画されたものではない。鳩尾から湧いたものだ。
この衝動には二つの層がある。表層の衝動──触りたい、勝ちたい、走りたいという個としての衝動。そして深層の衝動──みんなの中にいたい、この場所にいたいという場所への衝動。園庭の子どもたちは、この二つの層が未分化のまま一体になっている。走ることと、仲間と一緒にいることが、同じ一つの衝動から湧いている。
私たちの事業は、この衝動を出発点とする。大脳で設計された事業計画からではなく、鳩尾から湧いたものから始まっている。
現代社会は「探求」を最高のものとして位置づけている。教育現場では「探究的な学習」が柱に据えられ、企業では「課題の発見と解決」が求められ、スポーツでは「なぜその練習をするか考えよう」と指導される。
しかしここに根本的な転倒がある。
このはずなのに、現代社会は探求をスタートにしている。
「問いを立てましょう」と教師が子どもに言うとき、子どもの鳩尾は動いていない。子どもの鳩尾は「もう一回やりたい」「触りたい」「走りたい」と言っている。それを「なぜやりたいの?」「何がわかった?」「どうまとめる?」と変換する。衝動が探求に翻訳される瞬間だ。
探求は大人の言葉だ。大人が子どもを観察し、空間を設計するための道具だ。子どもから自然発生で「探求したい」という言葉が出てくることは少ない。探求は大人たちが考えた理想でしかない。それは思考であり、大脳的でもある。
衝動はもっと内から来る。脳というよりも身体であり、鳩尾から湧き出る。子どもが没頭し、学習が一気に深まり、広がるのは、探求ではなく衝動の方である。
世の中が探求を最高のものとするのは、記述装置が探求の側にあるからだ。論文も書籍も実践記録も、すべて大脳の側で書かれている。衝動は言葉にならないから記録されない。記録されないから存在しないことにされる。しかし存在しないのではない。記録できないのだ。
スポーツ指導の現場には、目に見える常識がある。筋肉を鍛える。フォームを正す。反復して覚える。すべて「筋肉から入る」方法だ。
しかし20年超の現場で、私が見続けてきたのは逆だった。空手選手の肋骨の痛みが消えたのは、筋肉を治療したからではなく、多裂筋の固有感覚から入り直したからだった。脳梗塞の片麻痺の方が杖歩行から杖なし歩行に変わったのは、リハビリの量を増やしたからではなく、足裏からの入力経路を変えたからだった。
筋肉から入ったのではなく、固有感覚から入った。目に見えるものから入ったのではなく、目に見えないものから入った。これを入口の転倒と呼ぶ。
一本歯下駄GETTAは、入口の転倒を強制する装置だ。一本歯の上に立つとき、「どう立つか」を考えてから立つことはできない。立った瞬間に足裏の20万個のメカノレセプターが発火し、多裂筋が自動起動し、腸腰筋に伸張反射が走る。大脳が設計する前に、身体が応答を始める。イメージの模倣を経由せず、身体の直接応答を引き出す。衝動がスタートだ。
味噌を作るとき、人間は大豆を混ぜるだけだ。変化を起こすのは菌。醸造家は発酵を「させる」のではない。発酵が「起きる」条件を整える。そして自分自身が発酵の回路の中にいる。
GETTAに乗るとき、人間は立つだけだ。変化を起こすのは深層筋の固有感覚反射。トレーナーは身体を「鍛える」のではない。身体の中で変化が「起きる」入口を整える。
「鍛える」は能動態だ。主語はトレーナーであり、対象は選手の身体だ。「醸す」は中動態だ。主語と対象が分かれない。醸している自分自身が醸されている。
230名超のインストラクターは、蓄積された専門家ではない。転移する文化資本の回路を開く醸し手である。
ブルデューは文化資本を三つの形態で記述した。身体化された文化資本、客体化された文化資本、制度化された文化資本。三つすべてが「蓄積」の概念で記述されている。蓄えるもの。所有するもの。持っている者と持っていない者を分けるもの。
しかし園庭の子どもたちが持っていたものは、蓄積ではなかった。
鳩尾から湧いた衝動が、走りを通じて、笑いを通じて、隣の子どもの鳩尾に届く。誰のものでもない。全員のものでもない。「みんなでつくる空間」に属している。所有ではなく参与。蓄積ではなく転移。
転移する文化資本とは──
鳩尾から湧いた衝動が、媒体を通じて他者の身体に立ち現れ、
純粋持続の中で質的に変容し続ける、所有不可能な文化の力。
蓄積されない。しかし持続する。量にならない。しかし質が変わる。個人に帰属しない。しかし身体に浸透する。測定できない。しかし母親の鳩尾はそれを知っている。
ブルデューは時間を空間化したから蓄積しか見えなかった。転移する文化資本は、蓄積以前に存在する文化の原型だ。
近代は三つの変換を同時に遂行する。三つの別々の装置ではない。一つの装置の三つの面だ。
| 領域 | 原型(文化) | 変換後(文明) |
|---|---|---|
| 行動 | 美学 → 志 | → 妥協 |
| 知 | 衝動 | → 探求 |
| 社会 | 転移する文化資本 | → 蓄積する文化資本 |
志が妥協に変換される過程で、衝動が探求に変換され、文化資本が蓄積に変換される。三つは連動し、正のフィードバックで加速する。
「かけっこで一番になりたい」(志への変換)→「なぜあの子は速いんだろう」(探求への変換)→「あの子は足が速い」(蓄積への変換)。一つの運動場で、同じ瞬間に、三つの変換が同時に走っている。
個別の変換には合理性がある。しかし変換の総体が、鳩尾を沈黙させる。
三つの変換は、十九の領域に波及している。すべてが同じ方向を向いている。身体から湧くものを大脳に移し替える。
脱近代とは、近代を捨てることではない。
近代が変換したものの原型を取り戻すことだ。
近代の達成を認める。変換の構造を正確に記述する。変換以前の原型を指し示す。怒りがなく、否定がなく、回復だけがある。
文化とは、人間を人間にした力。鳩尾から湧く衝動が、転移し、共鳴する。所有できず、蓄積できない。
文明とは、人間の集団を拡大した力。制度化し、蓄積する。
近代とは、器(文明)が中身(文化)を呑み込んだ時代。
脱近代とは、器を壊さず中身を取り戻すこと。
脱近代は思想ではない。身体の出来事だ。
衝動の転移を記述しようとした先人がいる。四人とも衝動を別の語彙に翻訳した。私は翻訳しない。
太陽神経叢(solar plexus)をすべての動きの源泉として特定した。衝動がどこから湧くかを身体で知った最初の人。
限界:「魂」の語彙に回収した
ベーコン論で「大脳を迂回し神経系に直接作用する力」と衝動の転移構造を記述した。力が外から来るのではなく、内から湧き媒体を通じて他者の内にもう一度湧くことを見た。
限界:芸術論に限定した
エラン・ヴィタル(生命の飛躍)と純粋持続で、転移の時間的構造を提供した。蓄積ではなく持続。量ではなく質の変容。衝動はベルクソン、探求はダーウィン。
限界:鳩尾という座も装置も持たなかった
「立ち現れ一元論」で、転移の空間的構造を提供した。表象(ミラーニューロン的模倣)とは異なる、直接性としての立ち現れ。「そのつど、いま・ここで」。
限界:身体の実践に展開しなかった
四人の到達を統合する。ダンカンの座(鳩尾)、ドゥルーズの力(転移)、ベルクソンの時間(純粋持続)、大森の空間(立ち現れ)。その統合を、GETTAという装置と、野遊びスクールという場所と、インストラクターという人間に実装する。それが私たちの事業だ。
秀才は人間が作った理論・ルール・法律・システムを学ぶ。しかしこれらの体系は、生命の根源を体感していない人間が構築したものだ。体系に本質が抜け落ちている。
秀才は学ぶほど確信を深め、確信を深めるほど生命から遠ざかる。秀才が社会のトップに立ちシステムを設計するから、社会がずれる。
善意を疑わない。体系の欠落を指摘する。秀才の欠陥は個人の問題ではなく、構造の問題だ。記述装置が大脳の側にある限り、鳩尾から湧くものは記述から抜け落ちる。
ダ・ヴィンチは分析したから統合したのではない。同じ衝動で見続けたから収束した。
探求の方法論ではない。衝動の方法論だ。
プロボクサーの身体と五歳の子どもの身体に同じものが見える。Jリーガーの極限とメロン農家の追熟に同じ構造が見える。複数の領域が同じ結論に収束することは「重複」ではなく「本質の証拠」だ。
思想体系における位置。三命題は診断。天才七文は呼びかけ。転移する文化資本は構想。ダ・ヴィンチコーディングは実装。
一本歯下駄GETTAは、商品ではない。トレーニング器具でもない。
近代の三重変換を逆転させる装置だ。
第一に、大人の中で沈黙した鳩尾を再発火させる。立った瞬間に足裏から固有感覚が発火し、大脳を迂回して鳩尾に届く。
第二に、転移する文化資本の回路を大人の身体に再び開く。複数の人間がGETTAの上に立つとき、一人の衝動が他者に転移し始める。園庭の回路がもう一度開く。
第三に、園庭の衝動の共振を大人にもう一度取り戻す。イメージの模倣を経由せず、身体の直接応答を引き出すことで、表象の回路を退かせ、立ち現れの回路を前面に出す。
合同会社GETTAプランニングの三つの事業は、三つの別々の事業ではない。一つの衝動の三つの実装だ。
一本歯下駄GETTAは、衝動を道具にしたものだ。鳩尾を再発火させる装置を作り、累計30,000台を届けた。
野遊びスクールは、衝動を場所にしたものだ。和歌山市本町公園で毎週木曜、下駄で足裏を活性化し、裸足で多種目スポーツに取り組み、みんなで食べる。それぞれの鳩尾が動いている時間の掛け算。
インストラクター認定は、衝動を人にしたものだ。全国230名超の認定インストラクターは、蓄積された専門家ではなく、転移する文化資本の回路を開く醸し手。
道具で入口を変え、場所で衝動を共振させ、人で回路を全国に開く。入口が違うだけで、行き先は同じだ。鳩尾から湧くものを、翻訳しないまま、他者の鳩尾に届ける。
足さない。引く。
原型を指し示す。
ベルクソンが先、ダーウィンが後。
この順序を取り戻すことが、
脱近代のすべてである。
── 宮崎要輔