For Instructors ── Practice Theory

と間

解像度が上がる身体の条件。
「間」の獲得は、身体の解像度が上がることで起きる。
形から型へ──その過程を、指導者として理解する。

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Section 01 ── Katachi vs Kata

形と型──何が違うのか

同じトレーニングを同じ回数反復しても、選手によって到達する場所が違う。この違いを「才能」や「素質」で片づけてきた。しかし文化身体論は別の答えを持っている。「形」で反復しているか、「型」で反復しているか。その違いだ。

Katachi ── 形

外見上の模倣

動作を順序立てて工程を増やす

身体を部位に分割して捉える

予備動作を必要とする

「間」がない

Kata ── 型

叡智を内包させながら規範を身体化したもの

予備動作なく動作が同時に起こる

身体が一体化されたつながりを持つ

心・環境・歴史が包括されている

「間」が存在する

教育哲学者・生田久美子は『「わざ」から知る』(1987/2007)の中で、伝統芸道における「わざ」の伝承過程を分析し、「『形』の完璧な模倣を超えた、文化的な意味に裏打ちされた『型』の習得」を暗黙的な目標として記述した。「形より入りて、形より出る」──外面的な「形」の模倣から始め、やがて「形」を超えて「型」に到達する。この過程は、身体の解像度が上がることで起きる。

解像度が低い身体は「形」で動く。解像度が高い身体は「型」で動く。指導者の仕事は、選手の身体の解像度を上げること。解像度が上がれば、同じ動きの中に「間」が立ち現れる。

Section 02 ── What is Resolution

解像度とは何か

身体の解像度とは、身体の内部で起きていることをどれだけ微細に感知できるかの度合いだ。解像度が低い身体は「右足で蹴った」しかわからない。解像度が高い身体は「右足の母趾球の内側で、地面の反力を斜め後方に受け取り、その反力が脛骨を伝って膝の内側を通過した」がわかる。

同じ動きを見ているのに、身体の内部で起きている情報量が違う。情報量が違うから、次の動きの質が違う。反復するたびに微調整が入る。微調整が入るから、動きが深まる。深まるから「間」が生まれる。

解像度を上げる条件は三つある。暗黙知の近位項をオノマトペで捉えること。身体感覚の二重構造に到達すること。そして、道具を導き手として使うこと。この三つが揃ったとき、身体の解像度は上がり、「間」が立ち現れ始める。

Section 03 ── Onomatopoeia

からだメタ認知
──オノマトペで近位項を捉える

ポランニーの暗黙知には二層ある。遠位項(動きの全体性、タスク)は生田久美子が「わざ言語」と名づけた比喩表現で捉えられる。「腕を振る」ではなく「羽根を広げるように」。「蹴る」ではなく「地面を踏みしめて跳ね返す」。わざ言語は、動きの全体的な質を比喩の力で伝達する。しかし近位項──身体の内部で起きている微細な感覚──は、わざ言語でも捉えきれない。生田が切り拓いた地平のさらに奥にある層だ。諏訪正樹の「からだメタ認知」は、この近位項をオノマトペで捉える方法を提示した。

クン

はまる着地。
歯が地面と一致した感覚。右足。

クッ

浅い着地。
地面との接触が短い。左足。

ククン

更新された感覚。
二段階の深さが生まれた。

「クン」から「ククン」へのことばの更新は、身体システム内に新たな動作の実体が生じたことを意味する。ことばが変わったとき、身体が変わっている。指導者が見るべきは、選手のオノマトペの変化だ。ことばが更新されていれば、解像度は上がっている。

「グイッ」とスイングしようとする時と「サッ」とスイングしようとする時では、一連の動作も身体の力の入り方も身体の繋がりも変わる。ことばが身体を変える。身体がことばを更新する。

Section ── Prestige Imitation

威光模倣──わざ世界への潜入

生田久美子は『「わざ」から知る』の中で、伝統芸道における習得の核心に「威光模倣」という概念を置いた。威光模倣とは、模倣する者が、模倣しているものを自ら「善いもの」とみなして模倣することである。外から「これを真似なさい」と強制されるのではない。弟子が師匠の所作の中に「善いもの」を発見し、自らの意志でその世界に潜入していく。その判断は、社会的・文化的な状況の中で形成される。

ここに近代の学校教育との決定的な差がある。学校教育では、教師は「教えるべきことについてすでに知っている」存在として設計されている。カリキュラムが先に存在し、教師はそれを効率的に伝達する。しかし伝統芸道では、師匠が何を教えているかを弟子は事前に知らない。弟子は師匠の「わざ」を盗み、師匠の生活に接近し、師匠の世界に潜入する。生田はこれを「わざ世界への潜入」と呼んだ。内弟子制度・徒弟制度はこの潜入の究極の形態である。

学習者がよいと思って模倣する。行っていること自体に段階が設定されているのではなく、学ぶ者がそれぞれ目的を見いだして行っている。わざを伝授する者が評価を下すが、その理由は示されない。

── 生田久美子『「わざ」から知る』(1987/2007)の論点より

威光模倣とGETTAインストラクター

GETTAインストラクターの現場で起きていることは、威光模倣の構造そのものだ。参加者はインストラクターの動きを「形」として写し取るのではない。インストラクターの身体から湧いているもの──鳩尾から溢れる衝動、一本歯の上での在り方そのもの──に「善いもの」を感じ取り、自らその世界に潜入していく。インストラクターが発する「クン、と踏むんです」というわざ言語は、動きの説明ではない。感覚の共有への招待であり、威光模倣を起動させる触媒である。

さらに生田は、この過程で「余剰な学び」が起きることを指摘した。当初の学習目標からはみ出る、予期しなかった学びが、むしろ最も重要な学びとなる。GETTAの上で起きることも同じだ。「バランスを取ろう」として立ったはずが、足裏から全身の連鎖が起動し、鳩尾が再発火する。目標の手前に、目標を超えた変容がある。これは探求の文法では記述できない。衝動の文法でしか記述できない──生田の言う「あらかじめ規定された教科の枠組みの中で学ぶのではなく、学習者が日常の中から自ら学ぶことを探っていく」構造と、転移する文化資本の回路が重なる場所だ。

生田久美子の達成と、その先。生田は「形」から「型」への過程、わざ言語の機能、威光模倣の構造、わざ世界への潜入を、教育哲学の言語で精緻に記述した。しかし生田の問いは「伝承はいかにして成立するか」であり、伝承が身体のどこで起きるかは問うていない。衝動の座──鳩尾──が記述されていない。宮崎の文化身体論は、生田が切り拓いた「わざ」研究の地平の上に、鳩尾という座と、転移する文化資本という社会的射程を加える。生田の「わざ世界への潜入」を、「鳩尾から鳩尾への転移」として再記述する。

Section 04 ── Four Stages

「間」と「型」の獲得過程
──四つの段階

1

暗黙知の近位項の認識

道具を通じて足裏に起きる微細な感覚を、オノマトペで意識化する。「足が下駄の歯から地面を捉えている感覚」「股関節が軸に乗っている感覚」──これまで無意識だったものに名前がつく。名前がつくと認知できる。認知できると調整が始まる。

2

身体感覚の二重構造

身体内部の感覚と、道具を拠点とした感覚の二重構造が獲得される。自分の身体に傾聴する感覚と、道具を拠点として環境に傾聴する感覚が同時に存在する。二重構造に到達した身体は、道具の「声」を聴けるようになる。

3

「間」の発見と会得

伝統的道具に内在する身体文化の「間」への気づき。動作と動作のあいだに、叡智が凝縮された場所が存在することを身体が感知する。ここから先は「意識的にやる」のではなく、「起きる」の領域に入る。中動態的事態として「間」が立ち現れる。

4

「型」への昇華──「無心」の領域

オノマトペやイメージ、比喩までも含んだ身体となることで、次の動きを頭で考える必要がなくなる。「無心」の領域に入る。環境に応対し、生成し続けられる状態。これが「型」への昇華であり、蓄積ではなく沈殿の帰結として到達する場所。

叡智を内包する規範を身体化するものが、
従来の「型」であるならば、

叡智を内包させながら規範を
身体化したものが、
文化身体論の「型」である。

Section 05 ── Instructor’s Resolution

指導者の解像度
──選手の身体に潜入する

選手の身体に入るとき、自分が持っている知識や経験やメソッドを、一度すべて捨てる。空っぽにする。知っていることを知っているまま持ち込めば、選手の身体ではなく自分の知識を見てしまう。だから捨てる。

しかし、どれほど空っぽにしても、身体の底には捨てきれずに残るものがある。名前がつかない。意図的に取り出せない。しかし場に立ったとき、選手の鳩尾から何かが湧いたとき、その沈殿が反応する。化学反応として、その選手のためだけのトレーニングが生まれる。

指導者の解像度とは、選手の身体の内部で起きていることを、自分の身体で感知できる度合いだ。知識で理解するのではない。選手の鳩尾と自分の鳩尾が共振する中で、選手の身体に何が起きているかを身体が感知する。これが世界潜入であり、指導の型である。

GETTAインストラクターは、蓄積された専門知識を持つ指導者ではない。転移する文化資本の回路を開く人間──醸造家である。醸造家は菌に命令しない。環境を整え、発酵が起きるのを待つ。指導者の仕事もまた、選手の身体に「型」が立ち現れる環境を整えることだ。

型は読んで理解するものではない。
足裏で確かめるもの。

解像度は教わるものではない。
道具との対話の中で上がるもの。

解像度は、足裏から上がる。

足裏で確かめる

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