立ち現れ図鑑
脳が作った像を通して世界を見ているのではない。世界は、現に、そこに立ち現れている。大森荘蔵が表象という媒介を外したとき、心と物の溝は消えた。立ち現れ一元論・重ね描き・時は流れず――現れそのものの存在論を、一点から掘り下げる。
立ち現れとは何か ―― 表象を捨てた、現れそのものの存在論
いま、あなたの目の前に世界がある。色があり、音があり、手触りがある。窓の外の空は青く、机の木目には影が落ちている。私たちはふだん、こう考えている。「外に物理的な世界が実在し、その世界が私の脳に像を結び、私はその像(表象)を通して世界を知っている」と。世界はそこにあり、私はそれを写し取っている――この当たり前の図式を、根底から疑った哲学者がいた。
大森荘蔵(おおもり しょうぞう、1921―1997)は言う。あなたが見ている青い空は、脳の中に作られた「像」ではない。それは現に、そこに、青く立ち現れている。物理的な空が別にあって、その「写し」をあなたが見ているのではない。立ち現れている青空、それ自体が空である。写しと原本という二重構造そのものを、大森は解体した。これが立ち現れ(tachiaware)という概念であり、二十世紀後半の日本哲学が世界に問うた、もっとも徹底した知覚と存在の理論である。
本図鑑は、この「立ち現れ」を一点から世界最大規模で掘り下げる。立ち現れ一元論、重ね描き、表象批判、無時間(時は流れず)、有情の世界――大森が生涯をかけて彫り上げた概念群を、哲学史的な厳密さで記述し、同時に、合同会社GETTAプランニング代表・文化身体論研究者の宮崎要輔が現場で見てきた身体の出来事へとつなぐ。立ち現れは、読むだけの概念ではない。一本歯下駄の上で、足裏に、鳩尾に、現に起こる経験である。
そして本図鑑は孤立していない。ベルクソンの純粋持続、西田幾多郎の純粋経験と並走しながら、「立ち現れ」がこの二つの概念とどこで重なり、どこで分かれていくかを描く。時間(ベルクソン)、主客未分(西田)、そして空間と現れ(大森)――三つの図鑑が一つの星座を結ぶ。
物理学者から哲学者へ ―― 大森荘蔵が立てた一つの問い
大森荘蔵は、東京帝国大学で物理学を学んだのち、哲学に転じた稀有な経歴を持つ。物理学者として出発したからこそ、彼の問いは鋭かった。物理学が世界を記述するとき、私たちの知覚風景――色や手触りや匂い――をすべて消去してしまう。だが物理学は、その消去された知覚風景を出発点にしているはずだ。波長何ナノメートルの電磁波という記述は、「赤い」という経験を消す。しかしその記述は、誰かが赤を見たという経験なしには始まらなかった。科学が世界から追い出したものこそ、科学が立っている地面である。この矛盾を、大森は生涯の問いとした。
戦後日本の哲学は、西洋哲学の輸入と注釈に多くを費やした。大森はそうしなかった。彼は英米の分析哲学を深く学びながら、最終的に、誰の体系にも属さない独自の存在論にたどり着く。『言語・知覚・世界』(1971)、『物と心』(1976)、『流れとよどみ――哲学断章』(1981)、『新視覚新論』(1982)、『時間と自我』(1992)、そして晩年の到達点『時は流れず』(1996)。これらの著作を貫くのは、ただ一つの主張である。世界と私のあいだに、表象という媒介を置いてはならない。
大森の文章は平明で、比喩は具体的だ。陰うつな空、陽気な庭、思い出の中の死者。抽象的な術語を振りかざすのではなく、誰もが知っている経験のただ中から、二元論の前提を一つずつ外していく。その手つきは、論証というより、すでにそこにある事態を指し示す指の動きに近い。見えていなかったものを「ほら、これだ」と差し出す。読者は反論する前に、自分がいつのまにか別の世界に立っていることに気づく。
CONNECTED ENCYCLOPEDIA ・ 思想家図鑑立ち現れの定義 ―― 「何かの代わり」をやめる
表象とは何か。representation――再・現前。何かの「代わり」に何かが「立つ」ことである。地図は土地の代わりに立つ。写真は風景の代わりに立つ。そして近代の認識論は、知覚そのものを表象だと考えた。脳内に作られた像が、外界の物の「代わり」に立っている。私が見ているのは物そのものではなく、物の代理人だ、と。
大森はこの「代わり」を拒否する。彼によれば、私が見ている青空は、外にある本物の青空の「代わり」ではない。それは現に立ち現れている当のものであり、それ以外に「本物の青空」などどこにもない。立ち現れの背後に、立ち現れていない真の実在が控えている――この二重構造こそが錯覚なのだ。立ち現れは、何かを指し示す記号ではない。立ち現れは、それ自体で完結した現前である。
ここから決定的な帰結が出る。立ち現れは記述できるが、説明できない。「なぜそう立ち現れるのか」を説明しようとした瞬間、立ち現れは因果関係の鎖の一環に変えられ、表象に変換されてしまう。立ち現れそのものは、ただそこに在る。原因と結果の連鎖の中の一項としてではなく、一回的な出来事として、現に。この「記述できるが説明できない」という性格が、立ち現れを科学的説明とも宗教的根拠づけとも異なる、第三の場所に置く。後にこの第三の場所が、宮崎要輔の実践的了解と深く響き合うことになる。
知覚だけではない。大森にとって、記憶も想像も等しく立ち現れだ。昨日見た夕焼けの記憶は、脳の中に保存されたファイルを再生しているのではない。それもまた、いま、想起として立ち現れている。目の前のコップと、昨日の夕焼けの記憶は、存在論的には同じ資格を持つ。どちらも「立ち現れている」という点で、まったく対等である。
立ち現れ一元論 ―― 主客の分別はない
近代哲学は、世界を二つに割ることから始まった。デカルトの「考える私(精神)」と「拡がりを持つ物(物質)」。主観と客観。内と外。心と物。この分割の上に、認識論という難問が立ち上がる。閉じた精神の内側にいる私が、どうやって外側の物質世界を知ることができるのか。心と物のあいだの深い溝を、どんな橋で渡るのか。三百年のあいだ、哲学者たちはこの橋を架けようとして失敗し続けた。
大森の答えは、橋を架けることではなく、溝そのものを認めないことだった。彼は書く。「わたし」と自然との間には何の境界もなく、「わたし」の肉体とそれ以外のものに境界があるだけである。共に「立ち現れ」である点で、私は自然と一心同体であり、主客の分別もない。私と世界は、別々の二つの実体ではない。どちらも等しく立ち現れである。立ち現れているこの一枚の世界の中に、たまたま「私の肉体」と呼ばれる一画があるだけだ。主観が先にあって客観を認識するのではない。立ち現れがまずあって、その中で主観も客観も後から区切られる。
ここで西田幾多郎の純粋経験が並走する。西田もまた「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と書いた。経験が先、個人が後。大森の「立ち現れが先、主客が後」と、構造が完全に重なる。二人は別の道を歩いて、同じ地点に出た。西田は禅の参禅経験から、大森は物理学の反省から。出発点はこれ以上ないほど違うのに、たどり着いた場所――主客未分の直接性――は、ほとんど同じだった。
だが二人は、その地点で激しく対立もする。大森は西田の「絶対無」や「場所」に、宗教的直観の匂いを嗅ぎ取り、それを哲学の言葉で言いつくろったものではないかと挑発した。検証できないものを概念として立てることへの、物理学者としての警戒である。この対立は、後の実践的了解の章で、宮崎要輔の身体論が引き受けることになる。
目の前のコップも、
昨日の夕焼けの記憶も、
等しく立ち現れている。
知覚は表象ではない。記憶は再生ではない。世界は私の外にあるのでも、内にあるのでもない。立ち現れているこの一枚の中に、私も世界もある。表象という媒介を外したとき、心身問題は解かれるのではなく――消える。
重ね描き ―― 知覚風景と科学的描写は、同じ世界の二つの描き方
では、科学はどうなるのか。波長や原子や神経細胞といった科学的記述は、嘘なのか。立ち現れだけが本物で、科学は幻なのか。大森はそうは言わない。ここで彼の第二の核心概念、重ね描きが登場する。これは大森哲学の最も独創的な貢献の一つだ。
知覚風景――青い空、赤い夕陽、木の手触り。科学的描写――電磁波の波長、光子、網膜の桿体細胞。この二つは、別々の二つの世界ではない。因果関係でもない(外の物理世界が原因で、内の知覚が結果、ではない)。並行関係でもない。同じ一つの世界を、二つの描き方で重ねて描いたものである。科学的描写は、知覚風景を「より精しく」描いた密画にすぎない。粗い線描の上に、細密な描き込みを重ねる。下の線描(知覚風景)が消えるわけではない。重ねられているだけだ。
この比喩の射程は深い。デカルト以来、人々は「本当の世界は科学が描く世界(原子と粒子)で、知覚風景はその二次的な仮象だ」と考えてきた。大森はこれを逆転させる。知覚風景こそが一次的で、科学的描写はその上に重ねられた密画である。赤い夕陽が本物で、電磁波はその夕陽を精しく描き直したものだ。科学は知覚風景を消去する権利を持たない。なぜなら科学は、知覚風景の上にしか描けないのだから。
宮崎要輔の文化身体論は、この重ね描きを身体の現場へ拡張する。指導者が選手の身体を見るとき、目の前には「今この瞬間の動き」という知覚風景がある。しかしそれだけではない。二十年間の現場で見てきた無数の身体の沈殿が、今この瞬間の知覚に重なって、一つの立ち現れとして現れている。これを沈殿と知覚の重ね描きと呼ぶ。大森の重ね描きは知覚と科学的記述の重なりだったが、ここでは過去の沈殿と現在の知覚が重なる。この重ね描きの中からしか、選手の身体に次に立ち現れようとしているものは見えてこない。
重ね描きが効く三つの場面
① 科学と知覚――波長と赤さは別世界ではなく、同じ夕陽の二つの描き方。
② 沈殿と知覚――現場の蓄積と今の知覚が重なり、選手の身体の方向が見える。
③ 言葉と身体――「故に」という論理的言語と、身体の運動が重なる。考えることと動くことが分離しない。これが行為的直観であり、中動態の身体である。
一元論
知覚風景(オレンジ)と科学的描写(シアン)は、別々の世界ではなく、同じ一つの世界の二つの描き方として重なる。その重なりの核に、立ち現れ一元論(パープル)がある。
デカルト的二元論の解体 ―― 心身問題は「解く」のではなく「消す」
心身問題――精神と身体はどう関係するのか――は、西洋哲学の最大の難問とされてきた。デカルトは松果体を介して心と物が交わると考えたが、誰も納得しなかった。物質である脳が、どうして非物質である意識を生むのか。この「意識のハードプロブレム」は、現代の脳科学と哲学でも未解決とされる。
大森の立場は独特だ。彼はこの問題を解こうとしない。問題そのものが、誤った前提から生まれた疑似問題だと考える。心と物を二つの異なる実体として立てたから、その間の関係が問題になった。だが、立ち現れ一元論に立てば、心も物も等しく立ち現れであって、二つの異なる実体ではない。割れていないものを、どうつなぐかと問うのは、はじめから無意味だ。問題は解決されるのではない。前提が外れることで、問題が消えてなくなる。
これは逃げではない。むしろ、もっとも誠実な態度だ。三百年かけて架からなかった橋は、架けるべき溝が初めから無かったから架からなかったのかもしれない。大森はそう問う。彼は同時に、自分の哲学の弱さも認めていた。「立ち現れ」が本当に起きているかを第三者が検証することはできない――この弱点を、大森は隠さなかった。だからこそ彼の哲学は、証明の哲学ではなく、指し示しの哲学になった。論証で押し切るのではなく、見えていなかった事態を「ほら」と差し出す。受け取るかどうかは、読者の身体に委ねられる。
表象批判 ―― 表象とは「過去についての知識の制度」である
大森は表象を、鋭く定義した。表象とは「過去についての知識の制度」である。これは深い洞察だ。私たちが何かを「表象」として捉えるとき、私たちは今この瞬間の立ち現れを、過去に蓄積された知識の枠組みに当てはめている。「これはコップだ」と認識するとき、過去の「コップ」についての知識が、今の立ち現れを覆っている。認識とは、過去の制度による現在の被覆である。
宮崎要輔の思想体系で、これは秀才の構造的欠陥の哲学的基盤になる。スポーツ指導の現場を考えてみよう。「正しいフォーム」という表象がある。これは過去の研究と経験が制度化されたものだ。矯正する指導者は、選手の「今のフォーム」を「正しいフォーム」という表象と比較し、差分を検出し、修正する。ここには立ち現れが一つもない。すべてが表象の操作だ。大脳の中で、像と像を並べて、像を修正している。選手の身体で今まさに起きている一回的な出来事は、「正しいフォームからのずれ」として処理され、表象に還元されて消えてしまう。
「正しいフォーム」は過去の知識の制度である
「正しいフォーム」という基準は、過去の研究が制度化されたもの――まさに大森の言う「過去についての知識の制度」だ。それを今の選手に当てはめた瞬間、選手の身体に立ち現れている新しい運動の芽は、「制度からのずれ」に変換されて見えなくなる。矯正は重ね描きを拒否し、単一の表象だけを基準にする。だから立ち現れが見えない。秀才が設計する精巧な体系が、生命の根源を覆い隠す構造が、ここにある。
大森は言う。立ち現れは記述できるが、説明できない、と。「なぜ転んだか」を説明した瞬間、その転びは因果の鎖の一環になり、立ち現れとしての一回性が消える。表象は、現在を過去で塗りつぶす。立ち現れは、現在を現在として現れさせる。この対立が、矯正と湧出という二つの指導のあり方を、存在論的に分ける。
時は流れず ―― 過去は、想起として今ここに立ち現れる
大森の到達点は、その時間論にある。晩年の主著の表題はそのものずばり『時は流れず』(1996)。私たちは、時間が川のように流れ、過去は後ろへ過ぎ去って「どこか」に保存されると素朴に信じている。過去という別の場所があり、そこに昨日や去年がしまわれている、と。大森はこれを否定する。過去という別の場所など、どこにもない。
過去は、過去として存在しているのではない。過去は、想起として、今ここに立ち現れている。昨日の夕焼けは「昨日という場所」にあるのではない。それは今、想起という立ち現れとして、現在に現れている。記憶とは、保存された過去の再生ではなく、現在における立ち現れの一様態なのだ。時は流れない。あるのは、つねに現在における立ち現れだけだ。
大森が死者の記憶について書いたこの一文は、彼の時間論の核心を射抜いている。亡くなった人は、記憶という容れ物の中に保存されているのではない。思い出の中に、今、その人自身が現に居る。過去の人物が、過去にではなく、想起という立ち現れの中に、いま居る。これは感傷ではなく、存在論的な主張である。
ここでベルクソンの純粋持続が並走し、そして分かれる。ベルクソンにとって、過去は消えずに保たれ、現在へと積み重なり続ける――記憶の円錐として、過去全体が現在に伸し掛かっている。大森にとって、過去は「保たれる」のでもない。それはただ、今、立ち現れる。ベルクソンは過去の持続(保存と積層)を語り、大森は過去の無時間的な立ち現れを語る。時間が流れるか、流れないか。二つの巨大な時間論が、ここで交差する。
CONNECTED ENCYCLOPEDIA ・ 概念図鑑有情の世界 ―― 陰うつな空、陽気な庭
近代の世界観は、世界から心を抜き取った。物理的世界は、色も音も感情も持たない、無味乾燥な粒子の運動だとされた。「陰うつさ」や「陽気さ」は、私の心が世界に投影したものにすぎない、と。空はただの大気であり、私が勝手に「陰うつ」と感じているだけだ、と。
大森はこれも逆転させる。彼は書く。陰うつな空とか、陽気な庭とかというとき、陰うつや陽気は私の「心の状態」ではなく、空自身の、庭自身の性質なのである。陰うつさは、空の側にある。陽気さは、庭の側にある。それは私の内面の投影ではなく、立ち現れている世界そのものの質だ。世界は、はじめから情を帯びている。有情の世界である。
これは文化身体論にとって決定的だ。宮崎要輔の言う転移する文化資本は、「場所に文化資本が宿る」という場所論を持つ。利休の茶室には、利休が宿っている。野遊びの空間には、その空間自身の手触りがある。これらは比喩ではない。大森の有情の世界に立てば、場所が情を帯び、質を持つことは、存在論的な事実である。母親が園庭に毎朝通うことで「みんなでつくる空間」の手触りが身体に刻まれるとき、その手触りは母親の主観ではなく、空間自身の性質として立ち現れている。世界が情を帯びているからこそ、文化資本は場所に宿り、身体から身体へ転移できる。
西田幾多郎との対話と対立 ―― 純粋経験と立ち現れ
西田幾多郎の純粋経験と、大森の立ち現れ。二つは深く響き合う。西田は『善の研究』で「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従って知る」と書いた。主もなく客もない、判断分別を加えない、経験そのままの状態。大森の「主客の分別もない」立ち現れと、ほとんど同じ事態を指している。
だが二人は鋭く対立もする。大森は西田に向かってこう言うだろう。「あなたの『純粋経験』には、神秘主義の匂いがある。誰かが『いま私は純粋経験の中にいる』と言ったとき、その人が本当にそうなのかを、第三者がどうやって確認するのか。検証不可能ではないか。」西田は応じる。「大森さん、あなたの『立ち現れ』も同じく検証不可能ではないですか。」――そして大森は自分の哲学の弱さを認めつつ、なお問う。「あなたの『絶対無』や『場所』は、宗教的直観に哲学の衣を着せたものではないのか。」
この対立は、解けないように見える。立ち現れも純粋経験も、哲学的証明の水準では検証できない。だが、ここに宮崎要輔の身体論が第三の道として介入する。検証できないが、現場の複数の指導者の判断は、おおむね一致する。選手の身体に「天才が立ち現れている」と判断するとき、隣の指導者も同じものを見ている。完全には一致しないが、おおむね一致する。これは哲学的証明でも宗教的直観でもない、実践的了解である。次の宣言で、この第三の認識論を正面から論じる。
哲学的証明でもなく、
宗教的直観でもなく。
実践的了解という、第三の確かさ。
大森の立ち現れは検証できない。西田の純粋経験も検証できない。しかし現場の指導者たちの「目利き」は、おおむね一致する。fMRIにも筋電図にも映らないが、同じ経験をした者だけが、確かに了解する。これは神秘主義ではない。専門知である。哲学的証明とは別の水準の、確かさである。立ち現れは、この実践的了解の水準で、確かにそこにある。
立ち現れと中動態 ―― 「私が見る」のではなく「見えている」
立ち現れには、文法的な特徴がある。それは中動態的だ。能動態は「私が世界を見る」と言う。主語である私が、客体である世界に働きかける。だが立ち現れは、そうではない。世界が立ち現れている。見えている。そこには「私が見る」という能動の主語が立つ前の、主客未分の出来事がある。
國分功一郎が再発見した中動態は、能動でも受動でもない、主語が過程の内側にある態である。「雨が降る」と言うとき、誰かが雨を降らせているのでも、雨が降らされているのでもない。ただ降っている。立ち現れも同じだ。私が立ち現れさせているのでも、立ち現れさせられているのでもない。ただ、立ち現れている。日本語は主語を省略する言語だ。「降っている」「見えている」――この主語のない文法こそ、立ち現れの言語的な姿である。
一本歯下駄の上で、これは身体に起こる。最も不安定な瞬間、選手は「自分がバランスを取っている」とは感じていない。「バランスが取られている」――いや、そうですらない。「バランスしている」ということだけがある。主語が消える。私が動かすのではなく、身体が動いている。立ち現れの中動態が、足裏と鳩尾に、現に起こる。立ち現れは概念ではなく、一本歯の上で経験される身体の事実になる。
矯正と湧出 ―― 表象の操作と、立ち現れの受容
宮崎要輔の指導の核心に、一つの対立がある。失敗を矯正するのではなく、失敗の中から次のものを湧かせる。この対立を、大森の概念は正確に記述する。
矯正は、表象の操作だ。「正しい動き」の表象と「今の動き」の表象を並べ、差分を修正する。選手が転んだとき、矯正する指導者は、それを「正しい動きからのずれ」として処理する。立ち現れは、ずれに変換されて消える。湧かせる指導者は、転んだその瞬間に立ち現れているものを、そのまま見る。転んだ身体の中に、次の動きがすでに立ち現れようとしている。転び方の中に、その選手の身体がどこへ向かおうとしていたかが見える。足のもつれの中に、まだ統合されていない新しい運動パターンが見える。それは「正しいフォーム」の表象からは、絶対に見えない。表象と比較した瞬間に、立ち現れは消えるからだ。
大森の重ね描きが、ここで効く。選手が転んだ瞬間、指導者の目の前には「今の転び」だけがあるのではない。二十年間の現場で見てきた無数の身体の沈殿と、今この瞬間の知覚が、重なり合って一つの立ち現れとして現れている。沈殿と知覚の重ね描き。その重ね描きの中からしか、次のものは見えてこない。矯正は重ね描きを拒否し、「正しいフォーム」という単一の表象だけを基準にする。だから重ね描きが起きず、立ち現れが見えない。
湧かせるとは、大森の言葉で言えば、選手の身体に立ち現れているものを表象に変換せずにそのまま受け取り、その立ち現れの中にすでに含まれている次の立ち現れを待つ行為である。「待つ」は能動ではない。中動態だ。湧くのを、湧くにまかせる。指導者が湧かせるのではない。指導者は、湧出が起こる場所を、表象で塞がないでおく。これが、矯正しない指導の存在論的な構造である。
ミラーニューロンと立ち現れ ―― 表象される模倣と、立ち現れる転移
他者の動きを身につけるとき、何が起きているのか。神経科学はミラーニューロンを答えとする。他者がボールを蹴る。それを視覚で捉える。前運動野のミラーニューロンが発火し、「蹴る」という運動パターンが脳内に内的に再現される。外→内、変換、再現。これは大森が批判した表象の構造そのものだ。他者の行為という外界の出来事が、視覚を通じて内的な運動パターンに変換される。再現されたパターンは「私のもの」として脳内に存在し、所有が生まれ、蓄積が始まる。ミラーニューロンは、ブルデューの身体化された文化資本の神経基盤である。
だが宮崎要輔は、もう一つの回路を見ている。衝動の転移だ。アスリートの身体から衝動が発せられ、子どもの身体に届く。届いた瞬間、子どもの鳩尾に衝動が湧く。ここには表象がない。子どもはアスリートの動きを「見て」「脳内に再現して」「変換する」という三段階を経ていない。アスリートの衝動が、子どもの身体にそのまま立ち現れている。外と内の区別がない。変換も再現も介在しない。大森の言葉で言えば、それは表象されているのではなく、立ち現れている。
この区別は決定的だ。表象であれば、原本と写しの関係がある。アスリートの動き(原本)が、子どもの脳内に写しとして再現される。写しは劣化し、しかし個人に帰属する。立ち現れであれば、原本と写しの区別がない。アスリートの衝動が子どもの身体に立ち現れるとき、それはコピーではない。子どもの身体において新たに立ち現れた衝動だ。しかし同時に、アスリートの衝動と無関係でもない。「同じもの」でも「別のもの」でもない。立ち現れそのものだ。
そして大森の無時間論が、転移の構造を照らす。立ち現れは蓄積されない。毎週通うたびに、そのつど、立ち現れる。先週の転移が今週に持ち越されるのではない。では、なぜ毎週通うのか。蓄積されないなら、反復する意味はないのではないか。ここが核心だ。変わるのは「立ち現れるもの」ではない。変わるのは「立ち現れを受け取る身体の開き方」だ。初めて来た子どもの身体は閉じている。毎週通ううちに、鳩尾の応答回路が開いていく。立ち現れそのものは毎回同じように起きている。しかし回路が開くにつれて、より深く、より微細な層の衝動が立ち現れるようになる。蓄積ではない。回路が開くのだ。
CONNECTED ENCYCLOPEDIA ・ 概念図鑑四人の巨人の布置 ―― 大森荘蔵が占める一隅
宮崎要輔の思想体系には、四人の巨人がいる。ベルクソン、ドゥルーズ、イサドラ・ダンカン、そして大森荘蔵。四人は、同じ一つの出来事――鳩尾から湧く衝動と、その転移――を、それぞれ異なる角度から照射している。
ダンカンは場所を指し示した。solar plexus、太陽神経叢。衝動がどこから湧くか、その座を特定した。ドゥルーズは経路を記述した。フランシス・ベーコンのキャンバスを通じて、力が他者に到達する転移の回路を論じた。ベルクソンは時間を語った。衝動は知性では捉えられず、純粋持続の中で質的に変容しながら途切れず続く。そして大森荘蔵は空間と現れを与えた。衝動の転移が、表象ではなく立ち現れであることの、存在論的な根拠を提供する。
パルテノンの前に立ったダンカンの身体には、二千四百年前のギリシア人の衝動が立ち現れた。過去が過去として来たのではない。ドリス式円柱という媒体を通じて、今ここに立ち現れた。これは能楽師の鳩尾が発火して六百年前が今ここに立ち現れるのと、まったく同じ構造だ。媒体は型と謡、あるいは円柱。過去のある時点で誰かの鳩尾から湧いたものが、媒体に宿り、数百年後の別の身体に今ここで立ち現れる。表象(再現・記憶)ではなく、立ち現れ。これを存在論的に確定させたのが、大森である。四人の誰も、この現象を社会学的に「転移する文化資本」として名づけてはいない。四人の到達点を統合し、ブルデューの文化資本論を書き直す地点に、宮崎要輔が立っている。
大森を超える ―― 区別できない二つを、身体は区別する
立ち現れ一元論には、一つの徹底した帰結がある。すべてが等しく立ち現れだ。矯正も立ち現れ。表象の操作も立ち現れ。秀才が「正しいフォーム」と比較する行為も、それ自体として立ち現れている。大森の体系の内部では、矯正と湧出を「表象の操作」対「立ち現れの受容」として対比すること自体が、本当は許されない。なぜなら大森にとっては、表象の操作もまた立ち現れの一形態だからだ。
ここに、宮崎要輔が大森を引き受けつつ超える地点がある。大森の立ち現れ一元論の内部では区別できない二つのものを、宮崎要輔の身体は区別している。哲学的には、すべてが等しく立ち現れだ。しかし現場の身体は、矯正という立ち現れと、湧出という立ち現れを、明らかに別のものとして了解する。この区別は、概念の操作によってではなく、二十年の現場で開かれた身体の感度によって、なされる。
これは大森への反論ではない。大森の射程の、その先である。大森は立ち現れを存在論として確定した。宮崎要輔は、その立ち現れの中に質の差異を見分ける身体を、実践として提示する。哲学が「すべては立ち現れだ」と言うところで、身体は「この立ち現れと、あの立ち現れは違う」と了解する。実践的了解は、哲学的証明とは別の水準で、立ち現れの質を区別する。立ち現れ一元論は終着点ではない。そこから、身体の感度という次の問いが開く。
一本歯下駄は、
立ち現れの感度を、
極限まで高める装置である。
表象を経由する身体は、世界を「正しさからのずれ」として処理する。一本歯の上に立つと、自動化された反応が断ち切られ、表象の回路が後退する。残るのは、足裏に、鳩尾に、現に立ち現れているものだけ。GETTAは足す道具ではない。表象という被覆を引き剥がし、立ち現れの回路を再び開く、引く道具である。
五歳の身体性と鳩尾 ―― 立ち現れの回路が開いていた頃
子どもの身体は、立ち現れをそのまま生きている。五歳の子どもは、世界を「正しさからのずれ」として処理しない。転んでも、それを「正しい歩き方からの逸脱」とは捉えない。ただ、立ち現れているものに、身体が応答する。神経のループが開いている。表象の被覆が、まだ薄い。これが五歳の身体性である。
大人になるにつれ、「過去についての知識の制度」が分厚くなる。経験が蓄積され、表象の枠組みが強固になる。「こう動くべきだ」という正しさが、今この瞬間の立ち現れを覆っていく。天才が「標準装備」から「例外」へ変わる転換点が、ここにある。大森の言葉では、知覚風景が科学的描写によって死物化される過程。子どもは知覚風景だけを生きていたが、大人は表象に支配される。
一本歯下駄GETTAは、この被覆を引き剥がす。極限の不安定の中で、自動化された反応が断ち切られ、表象の回路が後退する。鳩尾――衝動の座、太陽神経叢――が再び開き、足裏に立ち現れているものに、身体が直接応答するようになる。これは子どもに「戻る」のではない。反省を経た上で、もう一度立ち現れに到達する。西田の言葉で言えば、無自覚な天才から、自覚的な天才へ。大森の言葉で言えば、知覚風景と科学的描写の重ね描きの回復。GETTAは、立ち現れと表象の重ね描きができる身体を、再び育てる装置である。
「ない」の存在論 ―― 無もまた、立ち現れる
立ち現れ一元論の射程の深さは、「ない」をどう扱うかに現れる。机の上に置いたはずの鍵が、ない。この「ない」は、何なのか。素朴に考えれば、「ない」は単なる無であり、立ち現れるものを持たないはずだ。立ち現れるのは「ある」ものだけで、「ない」は立ち現れの欠如にすぎない、と。
大森はそう考えない。机の上に鍵がないと気づくとき、私たちは現に「鍵のなさ」を経験している。空っぽの机という知覚風景の中に、あるべき鍵の不在が、確かに立ち現れている。「ない」は無ではない。それは「あるはずのものが、ここにない」という、一つの積極的な立ち現れである。期待された立ち現れと、現にある立ち現れの差として、不在は経験される。無の知覚は、立ち現れの一様態なのだ。
この洞察は、指導の現場に直結する。すぐれた指導者は、選手の動きの中に「あるもの」だけを見ているのではない。あるべきなのに、まだない動きを見ている。転んだ身体の中に、まだ統合されていない運動――つまり、現にはないが立ち現れようとしている運動――を見る。これは「正しいフォームからのずれ」という表象とは違う。表象は、既にある基準との差分を計算する。立ち現れにおける不在は、まだ来ていないものが、来ようとして現に欠けている、その手前の気配を捉える。湧出を待つとは、この「あるべき不在」を、表象で埋めずに開いておくことである。
新視覚新論 ―― 視覚を、徹底的に描き直す
『新視覚新論』(1982)で、大森は視覚という最も身近な経験を、根底から描き直した。私たちは、目という器官が外界の光を受け取り、脳が像を作り、その像を「見ている」と考える。だが大森は問う。その「像」を見ている者は、誰なのか。像の中にもう一つの目があり、さらにそれを見る目があり――この無限後退こそ、表象としての視覚が抱える病である。
大森の答えは、視覚を像の知覚として捉えることをやめることだった。私は像を見ているのではない。世界が、現に、見えている。奥行きも、立体も、像の中に描かれた情報ではない。それらは、世界がそう立ち現れている、その現れ方そのものだ。遠くの山が遠くに見えるのは、脳が距離を計算して像に書き込んだからではない。遠くの山が、遠くに、立ち現れているのである。視覚は、外界の像を内に作る作業ではなく、世界が立ち現れている、その出来事の一様態だ。
これは身体の知覚にとって決定的だ。一本歯下駄の上で足裏が床を捉えるとき、選手は足裏の感覚を「脳内の像」として読み取っているのではない。床の固さ、傾き、わずかな凹凸が、現に、足裏に立ち現れている。内受容感覚――内臓や筋や腱から来る感覚も同じだ。それは身体内部の状態を脳が表象したものではなく、身体が現にそう立ち現れている、その現れである。視覚も、足裏感覚も、内臓感覚も、すべて立ち現れの諸様態として、一つの平面に並ぶ。大森の知覚論は、身体の全感覚を表象から解き放つ。
ことだま論 ―― 言葉と身体の重ね描き
言葉とは何か。近代の言語観では、言葉は世界を写すラベルだ。「赤い」という語は、赤という性質を指す記号である。言葉は世界の代理人――つまり表象だ。だが大森は、言葉と世界の関係を、重ね描きとして捉え直す。言葉は世界を写すのではない。言葉と知覚風景は、同じ一つの世界を二つの仕方で描いている。「赤い」という語と、現に立ち現れている赤さは、別々の二層ではなく、重ねて描かれた一枚である。
この言葉と身体の重ね描きが、宮崎要輔の思想体系で「故に」の身体化として現れる。「天才とは、故にという接続詞を自らの身体によって体現する者である」。「故に」は本来、世界の中の因果関係を記述するための言葉だ。しかし天才は、それを頭で考えるのではなく、身体の動きそのものが「故に」を生きる。A、故にB――この論理を、身体が現に生きる。言葉が身体を外から動かすのではない。身体が言葉を生きる。これが大森の言う、言葉と身体の重ね描きの極限の形である。
西田の行為的直観――「物となって考え、物となって行う」――が、ここで重なる。考えることと行うことが分離しない。一本歯下駄の上で、選手は「次にこう動こう」と言葉で考えてから動くのではない。動きの中に、すでに「故に」が宿っている。重心がここにある、故に、足はこう運ばれる――この「故に」を、大脳の言語ではなく、足裏と鳩尾が生きる。言葉以前の論理が、身体に立ち現れる。これは大脳から小脳への移行であり、表象から立ち現れへの移行でもある。
死者は思い出の中に居る ―― アウラと、利休の四百年
大森の時間論が最も美しく、最も射程深く現れるのが、死者についての記述である。再び引く。「『彼の思い出』がかろうじて今残されているのではなく、『思い出』の中に今彼自身が居るのである」。亡くなった人は、記憶という容れ物に保存された情報ではない。思い出の中に、今、その人自身が現に居る。過去の人物が、過去にではなく、想起という立ち現れの中に、いま、立ち現れている。
ここでヴァルター・ベンヤミンのアウラ概念が接続する。ベンヤミンは、芸術作品のアウラを「時間と空間におけるその存在、それがたまたまある場所でのその唯一の存在」と定義し、機械的複製がそれを衰退させると論じた。複製は、いかに完璧でも、その場・その時にしかない唯一性を欠く。転移する文化資本は、このアウラを引き受けつつ反転させる。アウラは、複製されることで死ぬのではなく、転移することで、もう一度別の場所に立ち現れる。
利休を考えよう。利休の茶室は複製できない。複製されたものは利休の茶室ではない。しかし利休の茶のあり方は、四百年後の茶人の鳩尾に、欠片として立ち現れる。これは記録の伝達ではない。利休そのものが、四百年の時を隔てて、今ここに立ち現れている。大森の「思い出の中に今彼自身が居る」が、文化の伝承の構造そのものを言い当てている。過去の達人は、過去に保存されているのではない。媒体(型・道具・場所)を通じて、今ここに立ち現れる。ダンカンの前にパルテノンの二千四百年が立ち現れたように。世阿弥の花が六百年を超えて立ち現れるように。立ち現れの無時間性が、転移する文化資本の時間構造を、哲学的に基礎づける。
天才は現象、凡人は建築 ―― 科学的描写と知覚風景
宮崎要輔の天才論に、一つの命題がある。「凡人は建築であるが天才は現象である。現象は建築より脆いが、建築が崩壊した場から再び立ち現れるのもまた現象である」。この命題は、大森の科学的描写と知覚風景の対比に、正確に対応する。
科学は世界を建築する。概念を積み上げ、法則を組み立て、体系を構築する。これは凡人の――いや、秀才の――営みだ。一方、知覚風景は構築されたものではない。それは直接に立ち現れる。建築は人間が造るが、現象は自ずと立ち現れる。天才は、体系を構築する者ではなく、現象が立ち現れる場である。だから脆い。建築は固定されているから安定しているが、現象は固定されていない。つねに揺らぎ、変化し、環境と交わる。この不安定さこそが、現象の創造性の源泉であり、同時に脆さの源泉でもある。
そして大森の重ね描きが、決定的な救いを与える。科学という建築が崩壊したとき――パラダイムが転換したとき――新しい知覚風景が立ち現れる。建築が崩壊した場から、再び現象が立ち現れる。天才とは、無自覚に現象を生きる子どもでもなく、建築だけを積む秀才でもない。建築(科学的描写)と現象(知覚風景)を重ね描きできる者である。世界を二つの言語で同時に記述しながら、なお現象の側に身を置く者。一本歯下駄GETTAが育てるのは、この重ね描きの身体だ。表象の建築を持ちながら、立ち現れの現象を生きる。子どもに戻るのではなく、子どもを超える。
メルロ=ポンティとの対比 ―― 身体図式と立ち現れ
知覚を哲学の中心に据えた点で、大森とモーリス・メルロ=ポンティは深く響き合う。メルロ=ポンティは『知覚の現象学』で、主観でも客観でもない、世界へと開かれた身体――身体図式(schéma corporel)――を立てた。私が世界を知るのは、まず身体が世界に住み込んでいるからだ。意識が世界を表象する前に、身体が世界と交わっている。この主客未分の身体性は、大森の立ち現れと近い。
だが両者には違いもある。メルロ=ポンティの中心は、あくまで身体である。世界は身体を通じて開かれる。大森の中心は、立ち現れそのものだ。立ち現れがまずあって、その中に身体という一画が区切られる。メルロ=ポンティが「身体→世界」の方向に開きを見るのに対し、大森は「立ち現れ」という一枚の平面に、身体も世界も等しく置く。メルロ=ポンティの身体図式は、立ち現れの中の一つの構造として位置づけ直せる。
この対比は、文化身体論にとって生産的だ。宮崎要輔の身体論は、メルロ=ポンティの身体図式の豊かさ――道具が身体に組み込まれ、身体が拡張する――を受け取りつつ、大森の立ち現れによって、それを表象から徹底的に引き離す。一本歯下駄が身体に組み込まれるとき(身体図式の拡張)、その下駄は身体の像として表象されるのではなく、足裏の延長として現に立ち現れる。身体図式の現象学と、立ち現れの存在論が、ここで重なり描かれる。市川浩の〈身〉が、この二人をさらに日本語の身体論として架橋する。
市川浩〈身〉との対話 ―― 皮膚を超えて、世界と交わる身体
市川浩(1931―2002)は『精神としての身体』(1975)で、メルロ=ポンティの身体論を日本語で再構築した。彼の最大の貢献は、西洋語の body では物心二元論を超えられないと見抜き、日本語の〈身〉という大和言葉を概念として立てたことにある。〈身〉は、皮膚の内側に閉じ込められた物質としての肉ではない。それは皮膚の外まで拡がり、世界の事物と交わるものである。「精神である身体、あるいは身体である精神としての実在」。
〈身〉は、大森の立ち現れと深く呼応する。皮膚を境界として内(主観)と外(客観)を分けるのではなく、〈身〉は皮膚を超えて道具・空間・文化・歴史と相互浸透する。この相互浸透は、大森が「わたしの肉体とそれ以外のものに境界があるだけ」と言いつつ、その境界すら立ち現れの一枚の中に置いたことと、同じ事態を指している。主客の分別の手前で、身体と世界が一つの立ち現れとして交わっている。
そして〈身〉の相互浸透こそ、転移する文化資本の場所的構造の基盤になる。文化資本が場所に宿り、身体から身体へ転移できるのは、〈身〉が皮膚を超えて場所や他者と相互浸透しているからだ。指導者の〈身〉と選手の〈身〉が、同じ空間で相互浸透する。その重なりの中で、衝動が立ち現れる。西田の「場所」、市川の〈身〉、大森の「立ち現れ」――この三つを一つの星座として読む論考が、getta.jp にある。
CONNECTED ・ 思想図鑑の論考木村敏「あいだ」との関係 ―― 時間と自己
精神病理学者・木村敏は、「あいだ」と「時間と自己」を生涯の主題とした。彼は、自己とは実体ではなく、自己と他者の「あいだ」に、そのつど成立する出来事だと考えた。そして精神の病――メランコリーやスキゾフレニア――を、この「あいだ」と時間性の障害として読み解いた。自己は、固定した中身ではなく、現にそのつど立ち現れる関係である。
木村の「あいだ」は、大森の立ち現れと、時間の問題で交わる。木村は、メランコリー親和型の人が「すでに手遅れ」という時間性を生き、分裂気質の人が「先取り」の時間性を生きると分析した。これは、過去や未来が「今ここ」にどう立ち現れるかの、病理的な様態である。時間は別の場所に流れているのではなく、自己のあり方として、今ここに立ち現れる。大森の「時は流れず」と、木村の時間論は、自己と時間が現在の立ち現れの中で一つになるという点で、深く通じている。
文化身体論にとって、木村の「あいだ」は、転移が起こる場の構造を照らす。衝動が指導者から選手へ転移するのは、二人の「あいだ」においてである。それは指導者の中にあるのでも、選手の中にあるのでもない。あいだに、立ち現れる。母親が園庭の「みんなでつくる空間」の手触りを身体に刻むのも、母親と空間の「あいだ」の出来事だ。木村の「あいだ」、市川の相互浸透、大森の立ち現れ――三つが、転移という現象の場所を、それぞれの角度から記述している。木村敏図鑑で、その全体を。
世阿弥「花」と六百年の転移 ―― 秘すれば花
世阿弥は『風姿花伝』で、能の核心を「花」と呼んだ。花とは、蓄積できるものではない。所有できるものでもない。それは咲く瞬間にしか存在しない。「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」。隠されているからこそ花であり、あらわにされれば花ではなくなる。これは、立ち現れの最も古い記述の一つである。花は、立ち現れる。そして立ち現れた瞬間にしか、ない。
世阿弥は、この花を、フィルムにも文字にも完全には残さなかった。『風姿花伝』を秘伝とし、一子相伝とした。身体から身体への直接の伝承だけを残した。これはイサドラ・ダンカンがフィルムを拒否したのと、同じ構造だ。蓄積される文化資本は記録できる。転移する文化資本は、身体から身体へ立ち現れるしかない。そして世阿弥の転移は、ダンカンの百年をはるかに超えて、六百年続いている。
六百年前に世阿弥の鳩尾から湧いた花が、今日の能楽師の身体に立ち現れる。これは記録の再生ではない。大森の言葉で言えば、世阿弥が「思い出の中に今居る」のであり、型と謡という媒体を通じて、六百年の時を隔てて、現に立ち現れている。「初心忘るべからず」の「初心」もまた、過去に置き去りにされた最初の状態ではない。それは、そのつど今ここに立ち現れ続ける、深層の衝動である。世阿弥の花は、立ち現れと転移する文化資本が、日本の身体芸術の中で六百年実証され続けてきたことの、生きた証拠だ。世阿弥図鑑へ。
確率共鳴・カオス共鳴と立ち現れ ―― ノイズが、信号を立ち現れさせる
立ち現れは、身体の機序としても説明できる。確率共鳴(stochastic resonance)という現象がある。微弱で、それ単独では検出できない信号に、適度なノイズを加えると、かえって信号が検出可能になる。ノイズが信号を増幅する。これは神経系で実際に起こる現象だ。そして一本歯下駄の一本の歯が生む不安定さは、身体にとってのノイズである。
平らな地面の上では、足裏に立ち現れる情報は乏しい。安定しているから、微細な信号は閾値の下に沈んだまま検出されない。一本歯下駄の上では、絶え間ない揺らぎ――ノイズ――が足裏と鳩尾に加わる。このノイズが、ふだんは閾値の下に沈んでいた身体内部の微細な信号を、検出可能な閾値の上へ押し上げる。それまで立ち現れていなかった身体の情報が、ノイズによって立ち現れる。確率共鳴は、立ち現れの感度を高める装置としてのGETTAの、神経科学的な裏づけである。
さらにカオス共鳴へと拡張する。基準信号を持つ身体が複数集まると、フィールド全体が一つの生き物のように同期しはじめる。指導者の身体が基準信号を発し、選手たちの身体がそれに共鳴する。場全体が一つの立ち現れになる。これは、宮崎要輔が率いる二百三十人を超えるインストラクターのネットワークが、単なる組織ではなく、立ち現れの共鳴場として機能することを意味する。一人の鳩尾の立ち現れが、場を通じて他者の鳩尾に立ち現れる。大森の立ち現れ一元論が、確率共鳴とカオス共鳴という身体の機序を通じて、転移の物理的な土台に接続する。
脱近代と立ち現れ ―― 表象は、近代の制度である
大森の表象批判は、宮崎要輔の脱近代と深く結びつく。近代という時代は、世界を表象として捉えることの上に成り立っている。主観が客観を表象する。意識が世界を像として写し取る。科学が自然を数式という表象に還元する。表象こそ、近代の認識論の中核装置である。そして大森が「表象とは過去についての知識の制度である」と言うとき、彼は表象を、まさに近代が築いた制度として名指している。
脱近代とは、この表象の制度から出ることだ。立ち現れに立ち返ることだ。主客未分の現れそのものへ、表象が世界を覆う手前へ、戻ること。だがそれは、近代以前の素朴な状態への退行ではない。子どもに戻るのではなく、子どもを超える。近代の表象の体系を一度くぐり抜けた上で、もう一度立ち現れに到達する。自覚的な天才。知覚風景と科学的描写の重ね描き。これが脱近代の身体である。
宮崎要輔が記述した脱近代の数々の転換――蓄積から転移へ、能動から中動態へ、矯正から湧出へ、大脳から小脳へ、表象から立ち現れへ――は、すべて一つの方向を指している。近代が世界と身体のあいだに差し込んだ表象という媒介を、外すこと。そして媒介が外れたとき、世界は再び立ち現れ、身体は再び現象になる。大森荘蔵の立ち現れ一元論は、この脱近代という大きな転換の、存在論的な背骨である。一本歯下駄GETTAは、その背骨を、足裏から立ち上げる装置にほかならない。
検証可能性の問題 ―― 大森哲学の弱さを、実践的了解が引き受ける
大森は誠実な哲学者だった。彼は自分の哲学の弱点を隠さなかった。「立ち現れ」が本当に起きているかを、第三者がどうやって検証するのか――この問いに、大森は確たる答えを持たなかった。立ち現れは一人称の出来事である。私には現に立ち現れているが、それを他者に証明する手立てがない。西田の純粋経験も同じ弱点を抱える。だからこそ大森は、西田の「絶対無」を宗教的直観だと挑発しながら、自分の立ち現れも同じ検証不可能性の上にあることを認めていた。
この弱点を、宮崎要輔の身体論が第三の道として引き受ける。指導の現場には、科学的に測定できないが、確かに起こる変化がある。選手の身体が「変わる」瞬間。fMRIにも筋電図にも映らない。しかし指導者の目には明白に見える。そして決定的なのは、隣にいる別のインストラクターも、同じものを見ているということだ。二人の判断は完全には一致しないが、おおむね一致する。これは他我問題の哲学的解決ではない。実践的了解である。
熊野英介は、これを「目利き」の概念で支持する。廃棄物が資源になるかは、化学分析だけでは判断できない。現場の技術者の目利きが要る。目利きは操作的に定義できないが、複数の熟練技術者の目利きはおおむね一致する。実践的了解は、哲学的証明とは別の水準の確かさを持っている。立ち現れも純粋経験も、哲学的証明の水準では検証できないかもしれない。しかし実践的了解の水準では、確かにそこにある。これは神秘主義ではなく、専門知である。大森が解けなかった検証可能性の難問を、現場の身体が、別の水準で受け止めている。立ち現れ図鑑が哲学史の記述にとどまらず、現場の実践と接続する理由が、ここにある。
二十八年の転換点 ―― 表象の被覆は、いつ厚くなるか
立ち現れの感度は、生涯にわたって一定ではない。子どもの身体は、立ち現れをそのまま生きている。五歳の身体性では、表象の被覆が薄く、神経のループが開いている。しかし成長とともに、「過去についての知識の制度」――表象――が分厚くなっていく。経験が蓄積され、「こう動くべきだ」という基準が、今この瞬間の立ち現れを覆っていく。
宮崎要輔の現場の観察から、一つの仮説が立ち上がる。二十八歳前後に、身体の転換点がある。多くの競技で、この年齢を境に、身体の質が変わる。それまで自然に出ていた動きが出にくくなり、表象による制御への依存が強まる。大森の言葉で言えば、知覚風景が科学的描写によって死物化される過程が、身体のレベルで進む。立ち現れに直接応答していた身体が、表象を経由する身体へと、徐々に組み替えられていく。
だが、これは不可逆ではない。一本歯下駄GETTAは、分厚くなった表象の被覆を、もう一度薄くする。極限の不安定の中で、自動化された表象の制御が断ち切られ、足裏と鳩尾に立ち現れているものへの直接の応答が、再び呼び覚まされる。二十八歳の転換点を過ぎた身体が、表象を一度くぐり抜けた上で、もう一度立ち現れに到達する。これは退行ではなく、自覚的な回復だ。子どもの無自覚な立ち現れではなく、表象を知った上で立ち現れを生きる、重ね描きの身体である。
HEEL LOADING × LIFT FORCE ―― 立ち現れの、足裏の機序
立ち現れは、抽象的な哲学概念であると同時に、足裏で起こる具体的な出来事である。一本歯下駄GETTAの動作の基盤に、二つの力の対が置かれている。HEEL LOADING(踵への荷重)とLIFT FORCE(引き上げる力)である。この対が、足裏に立ち現れる情報の質を決める。
平らな履物の上では、足裏全体が均一に接地し、荷重は分散され、足裏に立ち現れる情報は乏しくなる。一本歯下駄では、一本の歯に荷重が集中し、踵から歯へ、歯から地面へと、力の通り道が一本に絞られる。この絞り込みが、ふだんは閾値の下に沈んでいた足裏の微細な情報を、立ち現れの閾値の上へ押し上げる。同時に、不安定の中で身体は絶えず引き上げる力を働かせる。荷重と引き上げ、沈み込みと立ち上がりの絶え間ない往復が、足裏を立ち現れの感覚器官に変える。
これは表象ではない。選手は足裏の感覚を「脳内の像」として読み取っているのではない。床の固さ、傾き、重心の位置が、現に、足裏に立ち現れている。そしてその立ち現れに、身体が中動態的に応答する。「私がバランスを取る」のではなく、立ち現れに身体が応える。HEEL LOADING と LIFT FORCE は、大森の立ち現れ一元論を、足裏という最も具体的な場所で実証する、身体の基本運動である。哲学が「立ち現れ」と呼ぶものが、ここでは荷重と引き上げの感覚として、現に経験される。
兵庫医科大学の共同研究 ―― 立ち現れの感度を、数で確かめる
立ち現れは一人称の検証不可能な出来事だと述べた。しかし、立ち現れの感度が高まった身体が生み出す結果は、測定できる。兵庫医科大学との共同研究で、一本歯下駄GETTAによるトレーニングが、身体運動に与える変化が定量的に確かめられている。
数が示す、身体の組み替え
一本歯下駄トレーニングの前後で、走行動作に有意な変化が観測された。
・移動速度が約15%向上
・接地時のブレーキ力が約40%低下
・推進力が約32%向上
ブレーキ力の低下と推進力の向上が同時に起こる――これは、身体が「踏ん張って止める」表象的な制御から、「立ち現れに乗って進む」中動態的な運動へと、組み替わったことを示している。
この数値は、立ち現れそのものを測定したものではない。立ち現れは測れない。しかし、表象を経由する身体(踏ん張り、ブレーキ)から、立ち現れに直接応答する身体(流れ、推進)への移行が、結果として速度・ブレーキ・推進という測定可能な指標に現れている。立ち現れは検証できないが、立ち現れの感度が高まった身体が生む運動は、確かに測定できる。これは、大森の検証可能性の問題に対する、もう一つの応答だ。立ち現れそのものではなく、立ち現れに開かれた身体の帰結を、数で示す。哲学と身体科学が、ここで重ね描きされる。
大事なのは、この数値をGETTAの優秀さの証明として読まないことだ。数値が示すのは、表象から立ち現れへの身体の移行という、一つの本質的な事態である。複数の競技、複数の被験者、複数の指標で、同じ方向の変化が現れる。この複数の領域にまたがる収束こそ、立ち現れが本質を捉えている証拠である。冗長ではない。同じ一つのことが、異なる場所で、繰り返し立ち現れているのだ。
インストラクター制度という共鳴場 ―― 制度が、転移を可能にする
宮崎要輔は、全国に二百三十人を超える認定インストラクターのネットワークを率いている。ふつう、制度は転移と相性が悪い。制度はマニュアル化し、標準化し、複製可能なものへと文化を均す。それは蓄積する文化資本の論理だ。イサドラ・ダンカンがモスクワで経験したのは、まさにこれだった。ソビエト政府は彼女の舞踊を「革命の表現」という制度の容れ物に回収しようとし、ダンカンの鳩尾から湧いた踊りは、制度が要請する踊りへと変質した。制度が、転移を飲み込んだ。
インストラクター制度は、この構造を反転させる。制度(認定システム)を作るが、その目的は転移を管理することではない。制度の目的は、転移の回路を開くことだ。制度が転移を可能にする。容れ物が中身を飲み込むのではなく、容れ物が中身の発生条件を整える。これは、大森のカオス共鳴と立ち現れの構造に支えられている。基準信号を持つ身体が複数集まると、場全体が一つの生き物のように同期する。一人の指導者の鳩尾の立ち現れが、場を通じて、別の指導者・別の選手の鳩尾に立ち現れる。
二百三十人のネットワークは、単なる組織図ではない。それは立ち現れの共鳴場である。各地のインストラクターが、それぞれの現場で同じ立ち現れに開かれた身体を持つことで、ネットワーク全体が一つの場として、立ち現れを増幅し合う。これは転移する文化資本を、個人の身体から、社会的なネットワークの規模へと拡張する試みだ。利休が一子相伝で伝えたものを、世阿弥が秘伝で守ったものを、立ち現れの共鳴場として、開かれた制度の中で再び可能にする。制度が文化を飲み込むのではなく、制度が立ち現れの発生を支える。ダンカンのモスクワの失敗の、構造的な反転である。
腱優位システムと立ち現れ ―― 筋で固定し、腱で弾む
身体の動きには、二つの様式がある。一つは、筋肉で関節を固定し、力で制御する様式。もう一つは、腱の弾性を使い、エネルギーを蓄えて解放する様式。前者は、大脳が一つ一つの動きを表象として制御する。後者は、小脳が運動を自動化し、身体が自ずと弾む。筋優位は表象に対応し、腱優位は立ち現れに対応する。
筋肉で固定する動きは、「正しいフォーム」という表象に身体を合わせ込む。一つ一つの関節角度を意識し、制御する。これは大脳の仕事であり、表象の操作だ。一方、腱で弾む動きは、意識的な制御を経ない。アキレス腱や足底のばねが、地面からの反力を蓄え、解放する。この弾みは、表象されてから起こるのではない。立ち現れに身体が応答するように、自ずと起こる。大脳から小脳への移行は、表象から立ち現れへの移行と、身体のレベルで重なる。
一本歯下駄GETTAは、この移行を促す。一本の歯の上では、筋肉で固定して安定を保つことは難しい。固定しようとすればするほど、かえって不安定になる。身体は否応なく、腱の弾性を使う様式へと組み替えられる。鳩尾を中心とした全身のばねが働きはじめる。兵庫医科大学のデータが示したブレーキ力の低下と推進力の向上は、まさにこの筋優位から腱優位への移行――踏ん張る身体から弾む身体への移行――の現れである。立ち現れは、腱が弾むその瞬間に、身体に起こる。
重ね描きと科学的実在論 ―― 密画は、粗画を消せない
大森の重ね描きは、科学哲学の大問題――科学的実在論論争――の中に置くと、その射程がさらに鮮明になる。科学的実在論は、科学が描く世界(原子、素粒子、場)こそが真の実在であり、知覚される世界はその二次的な現れにすぎないと考える。逆に、知覚される世界こそが私たちの生きる世界だとする立場もある。どちらが本当の世界なのか。三百年、論争が続いてきた。
大森の答えは、この二者択一そのものを退ける。科学的描写と知覚風景は、二つの別の世界ではない。同じ一つの世界の、二つの描き方である。科学的描写は、知覚風景を「より精しく」描いた密画だ。だが密画は、その下の粗い線描(知覚風景)を消すわけではない。重ねられているだけだ。原子の世界が本当で、赤い夕陽が幻なのではない。赤い夕陽の上に、原子という密画が重ねて描かれているのである。どちらも同じ世界の描き方であり、優劣はない。ただし、密画は粗画の上にしか描けない。科学は知覚風景を出発点にしてしか始まらない。だから科学が知覚風景を消去する権利は、原理的にない。
この洞察は、近代科学が身体に対して持つ権力を、根底から問い直す。スポーツ科学が選手の身体を数値(筋力、関節角度、動作解析)として描くとき、それは身体の密画である。だがその密画は、選手の身体に現に立ち現れている知覚風景――足裏の手触り、重心の流れ、鳩尾の張り――を消去する権利を持たない。科学的記述と身体の立ち現れは、重ね描きされるべきものだ。数値だけを基準にする指導が立ち現れを見失うのは、密画で粗画を塗りつぶすからである。重ね描きこそ、身体科学と現場の感覚が、互いを否定せずに共存する道だ。
分析哲学の中の独自性 ―― 言語論的転回を、立ち現れへ折り返す
大森は、英米の分析哲学を深く学んだ。ウィトゲンシュタイン、クワイン、言語論的転回――二十世紀の言語をめぐる哲学を、彼は熟知していた。だが大森は、分析哲学の枠内にとどまらなかった。彼は言語の分析を、立ち現れという独自の存在論へと折り返した。言語が世界を写すのか、言語が世界を構成するのか――この問いを、大森は重ね描きで解いた。言語は世界を写すのでも構成するのでもない。言語と世界は、同じ一つの事態を重ねて描いている。
ウィトゲンシュタインが「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と言ったところで、大森は語りえぬものを、立ち現れとして指し示そうとした。立ち現れは記述できるが説明できない。説明しようとすれば表象に変換される。これはウィトゲンシュタインの「示すことと語ること」の区別と響き合う。立ち現れは、語る(説明する)のではなく、示す(指し示す)しかない。大森の文章が論証ではなく指し示しの形をとるのは、立ち現れそのものが、説明を拒み、ただ「ほら、これだ」と差し出すしかないものだからだ。
クワインが知識を全体論的なウェブとして捉えたように、大森にとっても、立ち現れは孤立した点ではない。知覚も記憶も想像も、言葉も身体も、すべてが立ち現れという一枚の平面の上で、重なり合っている。大森は、分析哲学の精密さを身につけながら、その精密さを、立ち現れという日本語の存在論へと結晶させた。西洋の言語分析と、東洋の主客未分の直接性。大森はその両方を一身に引き受けた、稀有な架橋者である。だからこそ、西田・市川・木村という日本の身体論の系譜と、メルロ=ポンティ・分析哲学という西洋の系譜の、ちょうど交点に立っている。
三木成夫の生命形態学と立ち現れ ―― いのちの形、内臓の感覚
解剖学者・三木成夫は、生命を「形」として捉える独自の生命形態学を築いた。彼は、人間の身体に、植物的な内臓系(吸収・循環・排出のリズム)と、動物的な体壁系(感覚・運動)の二つの極を見た。そして、いのちの根源を、内臓系のリズム――食と性、宇宙のリズムと共鳴する生命の波――に見た。三木にとって、こころは脳にあるのではなく、内臓に宿る。
三木の内臓系の感覚は、大森の立ち現れと、身体の根源で交わる。立ち現れは、視覚や聴覚という体壁系の感覚だけで起こるのではない。内受容感覚――内臓から来る感覚――こそ、立ち現れの最も深い層である。鳩尾の張り、腹の据わり、息の通り。これらは内臓系の立ち現れだ。三木が「いのちの形」と呼んだ内臓のリズムは、大森の立ち現れの、最も生命的な様態にほかならない。
宮崎要輔の身体論で、これは決定的だ。一本歯下駄GETTAが開くのは、足裏という体壁系の感覚だけではない。それは鳩尾という内臓系の中心を開く。衝動が湧くのは鳩尾――太陽神経叢――であり、それは三木の言う内臓系のいのちの座である。立ち現れの感度を高めるとは、体壁系(視覚・運動)の表象的な制御を後退させ、内臓系(鳩尾・呼吸・腹)の生命的な立ち現れを前面に出すことだ。三木成夫の生命形態学は、立ち現れがなぜ鳩尾で起こるのか、その生命史的な根拠を与える。三木成夫図鑑で、いのちの形の全体を。
CONNECTED ・ 思想家図鑑純粋持続との精密対比 ―― 流れる時間と、流れない時間
立ち現れ図鑑が並走する二つの概念図鑑のうち、時間をめぐって最も鋭く交差するのが、ベルクソンの純粋持続である。両者は、近代の空間化された時計の時間――等質な瞬間の連なり――を否定する点で一致する。だが、その先で、二つの時間論は決定的に分かれる。
持続するのか、立ち現れるのか
ベルクソンの純粋持続:過去は消えずに保たれ、現在へと積み重なり続ける。記憶の円錐として、過去全体が現在に伸し掛かる。時間は「流れる」――不可分の質的な流れとして、絶え間なく持続する。
大森の時は流れず:過去という別の場所は存在しない。過去は保たれるのでもなく、ただ、想起として今ここに立ち現れる。時間は「流れない」――あるのは、つねに現在における立ち現れだけだ。
この対立は、表面的な矛盾ではない。二人は、時間という同じ一つの謎を、異なる角度から照らしている。ベルクソンは時間の連続性と積層を捉えた。過去が現在に食い込み、未来へと延びていく、不可分の流れ。大森は時間の現在性と立ち現れを捉えた。すべては、今この瞬間に、立ち現れる。過去も未来も、現在の立ち現れの中にしかない。
そして転移する文化資本は、この二つの時間論を、両方とも必要とする。利休の茶が四百年後に立ち現れるとき、それは大森的だ――利休は今ここに立ち現れる。同時に、その四百年の伝承が、途切れずに質的に変容しながら続いてきたことは、ベルクソン的だ――純粋持続の中で、文化は積み重なり、変容しながら持続する。流れる時間(ベルクソン)と、流れない時間(大森)。転移する文化資本は、この二つの時間が重ね描きされる場所である。三つの概念図鑑――純粋持続・純粋経験・立ち現れ――は、こうして一つの思想体系の、時間と主客と現れをめぐる三つの面として、互いを必要としている。
CONNECTED ENCYCLOPEDIA ・ 概念図鑑結章 ―― 立ち現れから、もう一度、世界へ
長い道のりを歩いてきた。物理学者から哲学に転じた大森荘蔵が立てた一つの問い――科学が消去する知覚風景こそ、科学が立っている地面である――から始まり、立ち現れ一元論、重ね描き、表象批判、時は流れず、有情の世界という概念群を辿った。そして、西田・ベルクソン・市川・木村・世阿弥・三木・メルロ=ポンティという思想の星座の中で、立ち現れの位置を確かめた。
立ち現れとは、結局、何だったのか。それは、世界と私のあいだに表象という媒介を置かないことである。脳が作った像を通して世界を見るのではない。世界は、現に、そこに立ち現れている。私と世界は、二つの実体ではない。立ち現れている一枚の中に、ともにある。知覚も記憶も想像も、過去の達人も死者も、すべて等しく、今ここに立ち現れる。表象という近代の制度を外したとき、心身問題は消え、時間は流れず、世界は情を帯び、過去は今ここに立ち現れる。
だが、立ち現れは、書物の中の概念にとどまらない。それは、一本歯下駄の上で、足裏に、鳩尾に、現に起こる経験である。表象の被覆を引き剥がし、立ち現れの回路を再び開く。矯正ではなく湧出。能動ではなく中動態。蓄積ではなく転移。筋の固定ではなく腱の弾み。大脳ではなく小脳。これらの転換はすべて、表象から立ち現れへという、一つの方向を指している。そして二百三十人の共鳴場が、その立ち現れを、一人の身体から社会のネットワークへと開いていく。
大森は、立ち現れを存在論として確定した。だが彼は、その立ち現れの中に質の差異を見分ける身体までは、論じなかった。哲学が「すべては立ち現れだ」と言うところで、現場の身体は「この立ち現れと、あの立ち現れは違う」と了解する。立ち現れ一元論は終着点ではない。そこから、身体の感度という次の問いが開く。合同会社GETTAプランニング代表・文化身体論研究者の宮崎要輔が、大森を引き受けつつ、その先へ歩んでいるのは、この一点においてである。立ち現れを読むことから、立ち現れを生きることへ。世界をもう一度、表象なしに、現れるままに受け取ること。それが、立ち現れ図鑑の、最後の一歩である。
想起・夢・幻覚・残像 ―― 立ち現れの諸様態
立ち現れ一元論の強さは、知覚以外の経験をも一つの平面で扱える点にある。私たちはふつう、知覚を「本物」、夢や幻覚や記憶を「本物でないもの」として階層化する。目の前のコップは実在するが、夢の中のコップは虚構だ、と。大森はこの階層を、いったん平らにする。知覚も、想起も、夢も、幻覚も、残像も、すべて等しく立ち現れである。立ち現れているという点で、それらはまず対等だ。
もちろん大森は、知覚と夢を混同するわけではない。両者には違いがある。知覚は他の立ち現れと整合し、持続し、共有可能だ。夢は目覚めれば崩れ、他者と共有できない。だがこの違いは、「実在する立ち現れ」と「実在しない表象」の違いではない。立ち現れ方の様態の違いである。知覚は、整合性と持続性と公共性をもって立ち現れる。夢は、それらを欠いて立ち現れる。どちらも、まずは現に立ち現れている。残像も同じだ。強い光を見た後に残る像は、外界に対応物を持たないが、現に色として立ち現れている。
この平らな扱いが、なぜ重要か。それは、想像力や記憶を「劣った知覚」として貶めないからだ。転移する文化資本において、過去の達人が今ここに立ち現れるのは、記憶という一つの立ち現けの様態を通じてである。それは知覚に劣る二次的なものではない。記憶も知覚も、立ち現れという同じ資格を持つ。だからこそ、利休が四百年後に立ち現れることは、比喩ではなく存在論的な事実として語れる。立ち現れの諸様態を平らに置くことは、文化の伝承を、表象の伝達ではなく立ち現けの再来として捉える道を開く。
痛みと立ち現れ ―― 私的感覚は、どこにあるか
痛みは、哲学にとって難物だ。痛みは私的である。私の歯の痛みを、他者は感じられない。痛みは、私の意識の中だけにある内的な感覚なのか。それとも、痛んでいる歯という場所にあるのか。近代の図式では、痛みは脳が作る表象であり、「実際には」歯ではなく脳の中にある、とされる。
大森の立ち現れは、ここでも常識を裏返す。痛みは、脳の中の表象ではない。痛みは、現に、歯に立ち現れている。「本当は脳が痛みを作っていて、歯が痛むように感じているだけだ」という説明は、立ち現れを脳内の表象に還元する近代の図式にすぎない。立ち現れに立てば、痛みは歯に立ち現れている、それだけだ。痛みの背後に、痛んでいない「本当の歯」と「脳内の痛み表象」が別にある、という二重構造を、大森は認めない。
この洞察は、身体の感覚を扱う上で決定的だ。選手が「鳩尾が張る」「足裏が地面を掴む」と感じるとき、その感覚は脳内の表象ではない。鳩尾に、足裏に、現に立ち現れている。身体感覚を脳内の表象として扱う限り、それは数値化と制御の対象になり、立ち現れとしての直接性を失う。痛みも、張りも、掴みも、身体のその場所に立ち現れている。だから、身体感覚は信頼できる。それは脳が作った仮象ではなく、身体が現にそう立ち現れている、その現れである。立ち現れの存在論は、身体感覚に、それが奪われていた存在の権利を返す。
色の問題 ―― 赤さは、どこにあるのか
赤い夕陽の「赤さ」は、どこにあるのか。これは、現代の心の哲学で「クオリア(感覚質)」と呼ばれる難問だ。物理学が言うには、外界にあるのは波長何ナノメートルの電磁波であって、「赤さ」ではない。赤さは、脳が電磁波を処理して作り出した主観的な感覚――脳内のクオリア――だ、とされる。赤さは私の意識の中にあり、外界にはない。
大森は、この見方を真っ向から否定する。赤さは、夕陽の側にある。赤さは脳内のクオリアではない。それは、夕陽が現に赤く立ち現れている、その立ち現れそのものだ。電磁波という記述は、その赤い夕陽を「より精しく」描いた密画にすぎない。密画(電磁波)が本物で、粗画(赤さ)が脳内の仮象なのではない。赤い夕陽の上に、電磁波という密画が重ねて描かれている。赤さを脳内に閉じ込めるのは、重ね描きの順序を取り違えた近代の錯覚である。
これは有情の世界の話とつながる。陰うつさが空の側にあるように、赤さは夕陽の側にある。世界は、色を帯び、情を帯びて、立ち現れている。それを「すべては脳内の主観的構成だ」と言うのは、世界から色と情を抜き取り、無味乾燥な粒子の運動だけを残す近代の世界観だ。大森は、色を世界に返す。情を世界に返す。そして文化身体論は、この有情の世界の上で、場所が手触りを持ち、文化資本が場所に宿ることを語る。赤さが夕陽にあるなら、利休の気配が茶室にあることも、存在論的に語りうる。クオリアを脳から解き放つことは、文化を場所に宿らせる道を開く。
知覚の因果説批判 ―― 立ち現れは、原因の結果ではない
近代の知覚論の中核に、知覚の因果説がある。外界の物が原因となり、光が目に入り、神経を伝わり、脳に像が結ばれる。この因果の連鎖の最後に、知覚という結果が生じる。だから知覚は、外界の物の「結果」であり、間接的な表象だ、とされる。私は物そのものではなく、物が引き起こした脳内の結果を見ている、と。
大森は、この因果説を退ける。立ち現れは、因果の連鎖の最後に生じる結果ではない。因果の連鎖――光、神経、脳――そのものが、すでに一つの記述(密画)であって、その記述は知覚風景を出発点にしてしか成り立たない。物が原因で知覚が結果だという説明は、知覚をまず前提した上で組み立てられた、後付けの密画である。にもかかわらず、その後付けの密画を使って、出発点だったはずの知覚風景を「結果にすぎない」と貶める。これは順序の取り違えだ。
立ち現れは、何かの結果ではない。それは一回的に、現に、立ち現れている。「なぜ立ち現れるのか」と原因を問うた瞬間、立ち現れは因果の鎖の一項に変えられ、表象に変換されて消える。立ち現れは記述できるが、説明できない。これは大森の知覚論の核心であり、指導の現場と直結する。選手の身体に立ち現れる動きを「なぜそうなったか」と因果で説明した瞬間、その動きは「正しいフォームからのずれ」という表象に変換される。湧出を待つとは、立ち現れを因果で説明せず、立ち現れのまま受け取ることだ。知覚の因果説批判は、矯正という表象操作を存在論的に解体する、大森の最も鋭い論法である。
自我と立ち現れ ―― 「私」は、どこにいるか
『時間と自我』(1992)で、大森は自我の問題に正面から取り組んだ。「私」とは何か。デカルトは「考える私」を、すべての疑いに耐える確実な出発点とした。だが大森は問う。その「私」は、どこにいるのか。立ち現れている世界の中に、「私」という対象は見当たらない。目に映るのは世界であって、世界を見ている「私」そのものは、決して立ち現れの中に現れない。
大森の答えは独特だ。「私」は、立ち現れの中の一つの対象ではない。「私」とは、立ち現れが立ち現れている、その当のことである。主観としての「私」が、客観としての世界を眺めているのではない。立ち現れがまずあって、その立ち現れの中に「私の肉体」という一画が区切られ、そこを中心に世界が立ち現れている――その全体の出来事が「私」なのだ。「私」は実体ではなく、立ち現れの様式である。
これは、一本歯下駄の上の経験と響き合う。最も不安定な瞬間、「私がバランスを取っている」という主語としての「私」は、消える。残るのは、バランスが立ち現れているという出来事だけだ。主語が消え、立ち現れだけがある。これは自我の喪失ではない。自我が、実体としてではなく、立ち現れの様式として、その本来の姿を現した瞬間だ。中動態の文法――主語が過程の内側にある――が、ここで自我論と一つになる。木村敏が自己を「あいだ」の出来事として捉えたのも、大森が自我を立ち現れの様式として捉えたのも、同じ方向を指している。「私」は、固定した中身ではなく、現にそのつど立ち現れる、出来事である。
物自体の否定 ―― カントとの対決
立ち現れ一元論の射程を最も鮮明にするのは、カントとの対決である。カントは、私たちが認識できるのは現象(私たちに現れる世界)だけであり、その背後にある物自体(Ding an sich)は決して認識できない、と論じた。現象と物自体のあいだに、越えられない壁を立てた。私たちは現れる世界しか知らず、本当の世界そのものには永遠に届かない、と。
大森は、この壁を取り払う。立ち現れの背後に、立ち現れていない物自体など、存在しない。立ち現れているこの世界が、世界のすべてだ。現れの背後に「本当の世界そのもの」が控えている、という二重構造こそ、立ち現れを表象として捉える錯覚から生まれる。カントは現象を「物自体の現れ」とした。だから現象は二次的で、本物は手の届かない物自体にある、とされた。大森は、現れそのものが本物だと言う。現れの背後には、何もない。あるいは、現れがすべてである。
この否定は、解放である。私たちは、手の届かない「本当の世界」に永遠に届かない不完全な認識者ではない。私たちは、現に立ち現れているこの世界の、ただ中にいる。世界は、隠された物自体としてではなく、現れとして、完全に、ここにある。立ち現れに、欠けはない。そして身体もまた、隠された「本当の身体」の不完全な現れではない。足裏に、鳩尾に、現に立ち現れている身体が、身体のすべてだ。スポーツ科学が描く数値の身体は、立ち現れる身体の背後にある「本当の身体(物自体)」ではない。それは立ち現れる身体の上に重ねられた密画にすぎない。カントの物自体を否定することは、身体を、隠された本体への不完全なアクセスから、現に立ち現れる完全な現前へと、解き放つことである。
指導という重ね描き ―― 表象を渡すのではなく、立ち現れを開く
立ち現れの存在論は、指導という営みそのものを、根底から描き直す。近代的な指導は、表象の伝達である。指導者が持つ「正しいフォーム」という表象を、言葉や図解で選手に伝え、選手はそれを脳内に写し取り、自分の動きに当てはめる。これは、ミラーニューロンと同じ構造――外から内へ、表象として渡される――だ。蓄積する文化資本の指導法である。
宮崎要輔の指導は、これと違う。それは表象を渡すのではなく、立ち現れを開く。指導者は「正しい動き」の表象を選手の脳に書き込もうとしない。選手の足裏と鳩尾に、立ち現けが起こる条件を整える。一本歯下駄という装置が、表象の制御を断ち切り、立ち現れの回路を開く。指導者は、その立ち現れが起こる場を、表象で塞がないでおく。そして、選手の身体に立ち現れているものを、表象に変換せずにそのまま受け取り、その中にすでに含まれている次の立ち現れを待つ。
ここで大森の重ね描きが、指導の技法として結晶する。指導者が選手を見るとき、目の前の「今の動き」という知覚に、二十年の現場の沈殿が重なって、一つの立ち現れとして現れる。その重ね描きの中からしか、選手の身体が次にどこへ向かおうとしているかは見えない。指導とは、自分の重ね描きを通じて、選手の立ち現けを読み、選手自身の立ち現れが開くのを支えることだ。これは「教える」のではない。「正す」のでもない。立ち現れの場を、ともに開くことだ。二百三十人のインストラクターが共有しているのは、この立ち現れを開く技法であり、それが共鳴場となって、全国の現場で同じ立ち現れを増幅し合っている。
美は立ち現れる ―― 志に、美が勝る
宮崎要輔の思想体系に、一つの順序がある。美しさは、志に勝る。多くの指導は、志――こうなりたい、こう動くべきだという目標――を立て、そこへ向かって身体を作り込む。だが、志は表象である。未来の理想像を頭に描き、現在をそこへ近づけようとする。志に駆動された身体は、つねに「まだ達していない」という欠如の中にある。
美は、これと違う。美は、立ち現れる。それは目標として未来に置かれるものではなく、今この瞬間に、現に立ち現れるものだ。すぐれた動きは、美しい。その美しさは、「正しいフォーム」という基準に合致したから美しいのではない。立ち現れているその動きが、それ自体として美しいのだ。大森の言葉で言えば、美は説明できない。「なぜ美しいか」を基準との合致で説明した瞬間、美は表象に変換され、立ち現れとしての美が消える。美は、立ち現けのまま、ただ美しい。
だから、志ではなく美を先に置く。理想像(表象)へ向かって身体を矯正するのではなく、今この瞬間に立ち現れる美しさに、身体を開く。子どもが走る姿は美しい。それは子どもが「正しい走り方」という志を持っているからではない。子どもの身体に、走りが現に立ち現れているからだ。五歳の身体性の美しさは、志のない美しさ、立ち現れだけの美しさである。一本歯下駄GETTAが取り戻そうとするのは、この立ち現れの美だ。表象としての志を後退させ、現に立ち現れる美しさへと、身体を返す。美が先、志は後。立ち現れが先、表象は後。これが、大森の立ち現れ一元論が、身体の美学として結ぶ実りである。
イサドラ・ダンカン詳論 ―― 鳩尾という座を、身体で指し示した人
四人の巨人のうち、立ち現れの「場所」を身体そのもので指し示したのが、イサドラ・ダンカン(1877―1927)である。近代舞踊の母と呼ばれる彼女は、踊りの源泉を、頭でも手足でもなく、太陽神経叢――solar plexus、鳩尾に見た。すべての動きは、ここから湧き、ここから放射する。ダンカンは理論家ではない。彼女は概念ではなく、自らの身体で、衝動の座を世界に示した。
パルテノンの前に立ったときの記述が、立ち現れの核心を射抜く。彼女は、ドリス式円柱が「一見まっすぐに静止して見えて、実は一本一本が根元から頂まで緩やかに湾曲し、流動する運動の中にあり、決して休息せず、それぞれの運動が他のすべてと調和している」と感じた瞬間、腕がゆっくりと神殿に向かって上がった、と書いた。これは「動こう」とした能動ではない。二千四百年前のギリシア人の鳩尾から湧いたものが、円柱という媒体を通じて、ダンカンの身体に立ち現れ、身体が応答した。計画以前の応答。衝動。中動態。
大森の立ち現れ一元論が、この出来事を存在論的に確定する。ダンカンが経験したのは「二千四百年前の建造物を見ている」という歴史認識ではない。過去が過去として来たのではない。今ここに、円柱を媒体として、立ち現れた。これは能楽師の鳩尾が発火して六百年前が今ここに立ち現れるのと、まったく同じ構造だ。そしてダンカンは、この立ち現れをフィルムに残すことを拒んだ。転移する文化資本は、蓄積できない。身体から身体へ立ち現れるしかない。ダンカンは、鳩尾という座(場所)を指し示し、その座に過去が立ち現れることを、自らの踊りで実演した。大森が哲学で確定したことを、ダンカンは身体で先取りしていた。鳩尾という座の全貌は内受容感覚図鑑で。
ドゥルーズ詳論 ―― 感覚の論理と、転移の経路
立ち現れの「経路」――衝動がどのように他者に到達するか――を記述したのが、ジル・ドゥルーズ(1925―1995)である。彼は『フランシス・ベーコン 感覚の論理』で、ベーコンの絵画を論じながら、芸術がいかにして「感覚」を伝えるかを問うた。ドゥルーズにとって、絵画は対象を再現する(表象する)のではない。絵画は力を捉え、その力を見る者の神経系に直接伝える。表象を経由せず、感覚そのものが伝達される。
これは大森の立ち現れと深く響き合う。ベーコンのキャンバスは、対象の「写し」ではない。それは力の通り道だ。画家の身体から湧いた力が、絵具という媒体を通じて、見る者の身体に立ち現れる。原本と写しの関係ではない。力が、別の身体にもう一度立ち現れる。ドゥルーズの「感覚の論理」は、衝動の転移が表象(再現)ではなく立ち現れ(力の再来)であることを、芸術の側から記述している。大森が存在論で示したことを、ドゥルーズは美学で示した。
ドゥルーズの潜在性(virtuel)の概念も、立ち現れと交わる。潜在的なものは、可能的なものとは違う。可能的なものは、まだ実在しない単なる候補だが、潜在的なものは、現実の中に折り畳まれていて、現実化する力を持つ。転んだ身体の中に、次の動きが潜在的に折り畳まれている。それは「あるべきフォーム」という可能的な表象ではない。身体の中に実在し、立ち現れようとしている潜在性だ。湧出を待つとは、この潜在性が現実化する――立ち現れる――のを、表象で塞がずに待つことである。ドゥルーズは、衝動が他者に届く経路と、衝動が身体の中に折り畳まれている様態を、同時に照らした。ダンカンが場所を、大森が現れを示したところに、ドゥルーズは経路と潜在性を加える。
ベルクソンの生命の躍動 ―― なぜ探求では捉えられないか
四人の巨人のうち、立ち現れの「時間」を語ったのがアンリ・ベルクソン(1859―1941)である。彼は生命の根源をélan vital――生命の躍動と呼んだ。生命は、機械のように部分から組み立てられるのではない。内側から噴き出す、分割できない躍動として、絶えず新しいものを創造しながら持続する。そしてベルクソンは決定的なことを言った。この生命の躍動は、知性では捉えられない。
知性は、流動するものを静止した部分に切り分け、概念で固定する。それは生命を扱うのに適さない。生命の躍動を捉えられるのは、直観だけだ。直観は、対象の内側に入り込み、対象と一致する。これは、宮崎要輔の思想体系における衝動と探求の転倒の哲学的基盤になる。探求(知性)は、対象を外から分析する。衝動(直観)は、対象の内側から湧く。ベルクソンが「知性では生命を捉えられない」と言ったことは、「探求では衝動を捉えられない、衝動が先で探求は後だ」という転倒と、同じ事態を指している。
そして、ベルクソンの直観と大森の立ち現れは、深く重なる。知性が対象を表象として切り分けるのに対し、直観は対象に一致する――これは、表象を経由せず立ち現れに直接触れることだ。「身体が先、言語が後」という宮崎要輔の順序は、ベルクソンの「直観が先、知性が後」と、大森の「立ち現れが先、表象が後」を、身体のレベルで一つに束ねる。élan vitalは、立ち現れの時間的様態である。それは、純粋持続の中で質的に変容しながら途切れず続き、媒体を通じて別の身体にもう一度立ち現れる。純粋持続図鑑が、この時間の質を世界最大規模で描いている。ダンカン(場所)、ドゥルーズ(経路)、大森(現れ)、そしてベルクソン(時間)。四つの面が、鳩尾から湧く衝動の転移という、一つの出来事を照らし出す。
沈殿の柱 ―― 重ね描きの下に、二十年が沈む
宮崎要輔のダ・ヴィンチコーディングという方法には、複数の柱がある。その第九の柱が沈殿である。沈殿とは、二十年以上の現場で見てきた無数の身体が、意識的な記憶としてではなく、身体の底に沈み込んで蓄えられたものだ。それは言語化された知識ではない。問われても取り出せない。しかし、現場でものを見るとき、その沈殿が、今この瞬間の知覚と重なって働く。
沈殿は、大森の重ね描きと、決定的に接続する。大森の重ね描きは、もともと知覚風景と科学的描写の重なりだった。宮崎要輔は、これを拡張する。二十年の沈殿と、今この瞬間の知覚が、重なって一つの立ち現れになる。選手が転んだ瞬間、指導者の目の前には「今の転び」だけがあるのではない。沈殿した無数の身体の記憶が、今の知覚に重なって現れる。その重ね描きの中からしか、選手の身体が次にどこへ向かおうとしているかは見えない。大森自身はこの拡張をしていない。沈殿という概念が、大森の重ね描きを、現場の身体知の理論へと押し広げる。
そして沈殿は、表象とは正反対のものだ。表象は「過去についての知識の制度」――言語化され、固定され、基準として取り出される。沈殿は、言語化されず、固定されず、ただ身体の底に沈んで、知覚と重なって働く。表象は過去を制度として現在に押し付ける。沈殿は過去を身体に溶かして現在の立ち現れを豊かにする。同じ「過去の蓄積」でありながら、表象と沈殿は逆の働きをする。矯正する指導者は表象を使い、湧かせる指導者は沈殿を使う。沈殿の柱は、大森の重ね描きを、ダ・ヴィンチコーディングという方法の中心へと据え直す、思想体系の結び目である。
大森を読む ―― 五つの主著への、立ち現れからの道案内
立ち現れを深く知るには、大森自身の文章に触れるのが一番だ。ここでは、主要な五冊を、立ち現れという一点から読む道筋を示す。
『物と心』(1976)/『流れとよどみ』(1981)
『物と心』は、立ち現れ一元論と重ね描きの中核を据えた著作。心と物の二元をどう解体するか、その論法の骨格がここにある。立ち現れを理論として掴むなら、まずここから。
『流れとよどみ――哲学断章』は、平明な断章集。「思い出の中に今彼自身が居る」という死者論を含む。難解な術語を避け、誰もが知る経験から二元論の前提を外していく、大森の指し示しの手つきが最も味わえる。立ち現れを身体で感じたいなら、ここから。
『新視覚新論』(1982)/『時間と自我』(1992)/『時は流れず』(1996)
『新視覚新論』は、視覚を徹底的に描き直した知覚論。奥行きも立体も、像に書き込まれた情報ではなく、世界の立ち現れ方そのものだと示す。身体感覚を表象から解き放つ理論的基盤。
『時間と自我』は、時間論と自我論の展開。「私」が立ち現れの様式であることを論じる。
『時は流れず』は、無時間論の到達点であり、晩年の主著。過去という場所そのものを否定し、すべては今ここに立ち現れると説く。立ち現れの時間論の最終形。
これらの著作と本図鑑の関係は、密画と粗画の関係に似ている。本図鑑は、立ち現れという一概念を中心に、大森の思想を現代の文化身体論へとつなぐ粗い線描である。原著は、その下に控える、はるかに精密な密画だ。本図鑑で立ち現れの輪郭を掴んだら、ぜひ原著という密画へ。そして『大森荘蔵著作集』全十巻(岩波書店)が、全業績を集成している。立ち現れを生んだ哲学者の全体像は、大森荘蔵図鑑が案内している。
CONNECTED ・ 思想家図鑑呼吸と立ち現れ ―― 意識と無意識の境界に座る、中動態の機序
立ち現れと中動態が、身体の最も具体的な場所で出会うのが、呼吸である。呼吸は、不思議な機能だ。それは無意識に続く。眠っていても、忘れていても、呼吸は止まらない。しかし同時に、意識的に制御することもできる。深く吸い、ゆっくり吐く。呼吸は、意識的制御と無意識的自動性の、ちょうど境界に座っている。これは、能動でも受動でもない中動態の、身体における原型である。
呼吸を生み出す神経機構――脳幹のプレベッツィンガー複合体(preBötzinger complex)――は、自律的にリズムを刻む。私がリズムを作るのではない。リズムが、立ち現れる。だが、その自律的なリズムに、意識的な介入を重ねることができる。鼻からゆっくり吸うことが、神経系全体の状態を引き込む(エントレインメント)。呼吸において、私は「呼吸する」のでも「呼吸させられる」のでもない。呼吸している、ということだけがある。主語が消える。これは、大森の立ち現れが中動態的であることの、身体的な実証だ。
一本歯下駄の上で、呼吸はさらに前面に出る。極限の不安定の中で、息を止めて踏ん張る身体は、かえって崩れる。鳩尾――呼吸の中心であり、衝動の座――が開き、息が通ったとき、身体は立ち現れに乗る。呼吸は、表象的な制御(息を止めて固める)から、立ち現れへの応答(息が通って弾む)への、移行のスイッチである。指導の現場で「息を通せ」と言うのは、表象の回路を緩め、立ち現れの回路を開けという指示にほかならない。呼吸は、立ち現れが意識と無意識の境界で起こる、その機序を、誰の身体にも現に示している。
ハビトゥス再考 ―― 蓄積する身体と、立ち現れる身体
ピエール・ブルデューのハビトゥス(habitus)は、身体に刻み込まれた、持続的な性向のシステムである。育ちや階級によって、身体には特定の振る舞い方が刻まれ、それが文化資本として再生産される。話し方、立ち居振る舞い、好み――これらは個人に蓄積され、無意識に作動する。ハビトゥスは、蓄積する文化資本の身体的な基盤だ。
大森の立ち現れは、このハビトゥス論に、もう一つの層を加える。ハビトゥスは、過去が身体に蓄積されたものだ。それは「過去についての知識の制度」が身体化したもの――表象の身体的な堆積――に近い。だが、宮崎要輔の転移する文化資本は、蓄積ではなく立ち現れによって動く。ハビトゥスが過去の堆積として身体を縛るのに対し、立ち現れは今ここに新しく現れて身体を開く。ハビトゥスは再生産する。立ち現れは、そのつど新しい。
ここで大森の重ね描きが、両者を対立させずに位置づける。ハビトゥスと立ち現れは、同じ身体の二つの描き方だ。同じ身体を、蓄積の語彙で描けばハビトゥスになり、立ち現れの語彙で描けば、そのつど新しい現れになる。宮崎要輔は、ブルデューを否定するのではない。ブルデューが見なかった描き方を、重ねて描く。ハビトゥスとして固定された身体が、一本歯下駄の上で、立ち現れに開かれた身体へと組み替わる。蓄積の被覆を緩め、立ち現れの感度を取り戻す。ハビトゥスという術語をそのまま使いながら、その下に、立ち現れという別の描き方を重ねる。これが、大森の重ね描きが社会学に与える、生産的な贈り物である。
道元・禅と立ち現れ ―― 直接経験の、東洋の系譜
立ち現れは、西洋哲学と日本哲学の交点に立つ概念だが、その根には、東洋の直接経験の伝統が流れている。道元の『正法眼蔵』には、立ち現れと響き合う洞察が満ちている。「有時(うじ)」――存在と時間が一つであること。道元にとって、時は、物とは別に流れる入れ物ではない。存在することが、そのまま時であり、時であることが、そのまま存在である。これは大森の「時は流れず――すべては今ここに立ち現れる」と、深く通じる。
道元の「修証一等」――修行と悟りは別ではなく一つである――も、立ち現れの構造を持つ。悟りは、修行の後にやってくる結果(表象された目標)ではない。修行のただ中に、悟りが現に立ち現れている。これは、志(未来の目標)ではなく美(今の立ち現れ)を先に置く宮崎要輔の順序と、構造が重なる。坐禅において、坐ることがそのまま悟りであるように、走ることがそのまま美である。過程の外に目標を置かない。
ただし、ここで慎重でなければならない。立ち現れも純粋経験も、禅の直接経験と響き合うが、それを「宗教的直観」として神秘化した瞬間、検証可能性の問題が立ちはだかる。大森が西田の「絶対無」を警戒したのは、まさにこの点だった。立ち現れは、宗教的な悟りではない。それは、誰の身体にも現に起こっている、ありふれた出来事だ。東洋の直接経験の伝統は、立ち現れの背景として豊かだが、立ち現れそのものは、坐禅堂の中の特別な体験ではなく、足裏に、鳩尾に、日常の身体に起こる。宮崎要輔の実践的了解は、この直接経験を、神秘ではなく現場の専門知として扱う。道元の有時を背景に持ちながら、立ち現れを、現代の身体の事実として語り直すこと。それが、東洋思想と立ち現れの、最も健全な接続である。
モースの身体技法と立ち現れ ―― 文化が、身体に立ち現れる
マルセル・モースは「身体技法(les techniques du corps)」という概念で、歩き方・泳ぎ方・坐り方といった身体の使い方が、社会によって異なり、文化的に伝えられることを示した。身体の自然な動きと思われているものが、実は文化的に形成されている。モースは、身体そのものが、最も基本的な道具であり、文化の媒体であることを発見した。
身体技法は、立ち現れと転移の理論にとって、重要な土台だ。文化が身体に伝わるとき、それは言語的な指示として伝わるのではない。歩き方は、説明されて身につくのではない。共に歩く身体の中に、立ち現れる。子どもは、親の歩き方を「見て、脳内に再現して、真似る」のではない。親の身体技法が、同じ空間を生きる子どもの身体に、立ち現れる。モースの身体技法は、ミラーニューロン(表象・蓄積)としても、衝動の転移(立ち現れ)としても読めるが、その最も深い層は、立ち現れの側にある。
そして一本歯下駄GETTAは、身体技法そのものを組み替える装置だ。近代の履物が形成した歩き方・走り方という身体技法――踵から接地し、筋肉で固める――を、一本歯は解体する。立ち現れに直接応答する、別の身体技法が立ち上がる。これは新しい技法の習得(蓄積)であると同時に、表象を経ない立ち現れの回路の回復でもある。モースが文化の媒体としての身体を発見したところに、大森の立ち現れが、その文化の伝わり方――表象ではなく立ち現れ――を加える。身体技法の全体像は、思想図鑑シリーズの身体技法・モースの論考でも展開している。
矯正の系譜学 ―― 近代スポーツ科学という、表象の体制
なぜ、現代のスポーツ指導は、これほど矯正に傾くのか。それは偶然ではない。近代という時代そのものが、身体を表象として扱う体制だからだ。近代スポーツ科学は、身体を数値に還元する。筋力、関節可動域、動作解析、心拍。これらの数値は、身体の密画である。そして「正しいフォーム」は、これらの数値から導かれた、最適化された表象である。
大森の表象批判の系譜学的な射程が、ここで効く。「正しいフォーム」は「過去についての知識の制度」だ。過去の研究、過去のデータ、過去の成功例が、制度として結晶し、基準となる。そして、その制度を今の選手に当てはめた瞬間、選手の身体に立ち現れている一回的な出来事は、「制度からのずれ」として処理され、見えなくなる。これは、近代が知を制度化し、その制度で現在を裁く、その構造そのものだ。矯正は、近代スポーツ科学という表象の体制の、現場における作動である。
だが、大森の重ね描きは、科学を否定しない。スポーツ科学の数値(密画)は、選手の身体の立ち現れ(粗画)の上に重ねて描かれるべきものだ。数値が立ち現れを消去するとき、それは重ね描きの順序を取り違えている。数値だけを基準にし、立ち現れを「ずれ」に変換するから、矯正になる。科学と立ち現れを重ね描きできれば、数値は立ち現れを豊かにする密画になる。宮崎要輔が兵庫医科大学との共同研究で数値を扱いながら、なお現場の立ち現れを手放さないのは、この重ね描きを実践しているからだ。科学を捨てるのでも、科学に身体を明け渡すのでもない。科学を、立ち現れの上に重ねて描く。矯正の系譜学を解体する鍵は、ここにある。
OFFICIAL LINEブログには書ききれない一次情報を、公式LINEで直接お届け。実践トレーニング / 体験会・講習会の先行案内 / 身体と神経の研究アップデート友だち追加(無料)READ, THEN WEAR ── 概念を、読むのではなく履く
立ち現れを、読むのではなく履く。
概念は、履いた日から経験になる。
読んで分かったことを、足裏で分かり直す装置。
子どもの神経可塑性と立ち現れ ―― 開いていたループ、再び開くループ
五歳の身体性――立ち現れに直接応答していた子どもの身体――には、神経科学的な裏づけがある。幼い脳は、極めて高い可塑性を持つ。神経のループが開いていて、感覚入力と運動出力が、表象という媒介を最小限にして、直接につながっている。子どもが転んでも矯正されないのは、神経のループが、立ち現れにそのまま応答するように開いているからだ。
成長とともに、神経系は効率化される。よく使う回路が強化され、自動化される。これは適応だが、代償もある。自動化された回路は、表象的な制御に近づく。「こう動くべきだ」という学習された予測(表象)が、感覚入力に先回りして反応を決める。立ち現けているものへの直接の応答が、学習された予測によって覆われていく。大森の言葉で言えば、知覚風景が科学的描写によって死物化されるように、子どもの開かれたループが、自動化された予測の制度によって閉じていく。
しかし、神経可塑性は、大人になっても失われない。適切な刺激があれば、閉じたループは再び開く。一本歯下駄GETTAの極限の不安定は、自動化された予測が通用しない状況を作る。学習された予測(表象)が役に立たないとき、神経系は、立ち現れているものへの直接の応答へと、回路を開き直す。確率共鳴がふだん閾値の下に沈んでいた信号を立ち現れさせ、不安定が自動化された制御を断ち切り、神経のループが再び開く。これは子どもへの退行ではない。大人の脳が、表象の予測を一度くぐり抜けた上で、立ち現れへの直接の応答を取り戻す、自覚的な可塑性だ。五歳の身体性を再び開くことは、神経科学的にも、立ち現れの回路の回復として、根拠を持つ。実践の入口はpipotore.comに。
フッサールの現象学的還元と立ち現れ ―― 「事象そのものへ」
立ち現れは、二十世紀ヨーロッパの現象学と、深い血縁を持つ。エトムント・フッサールが現象学の標語とした「事象そのものへ(zu den Sachen selbst)」は、立ち現れの精神と響き合う。フッサールは、世界が客観的に実在するという素朴な思い込み――自然的態度――をいったん括弧に入れ(エポケー)、意識に直接与えられている現れそのものへと立ち返ろうとした。これが現象学的還元である。
大森の立ち現れと、フッサールの現象には、近さと違いがある。両者とも、現れそのものを出発点に置く。だが、フッサールの現象は、あくまで「意識に対する」現れだ。現れは、それを構成する超越論的な主観を前提する。フッサールは、現れの背後に、現れを構成する意識を残した。大森は、ここをさらに徹底する。立ち現れの背後に、それを構成する主観を置かない。立ち現れがまずあって、主観も客観も、その中で後から区切られる。フッサールが現れを意識の構成として捉えたのに対し、大森は現れを、構成される手前の出来事として捉える。
この違いは、身体論にとって重要だ。フッサールの還元は、世界を意識の相関者にする。だが、一本歯下駄の上で起こる立ち現れは、意識が構成するものではない。足裏に床が立ち現れるとき、それを構成する超越論的主観など、どこにもない。ただ、立ち現れている。中動態の出来事として。大森の立ち現れは、現象学の「事象そのものへ」という志を引き受けつつ、それを意識の構成からも解き放つ。フッサールが超越論的主観のもとに留めたものを、大森は、現れそのものの自立した出来事へと押し進めた。これが、現象学の系譜の中で、立ち現れが占める独自の位置である。
私的言語論と立ち現れ ―― 痛みは、どう語られるか
ウィトゲンシュタインの私的言語論は、立ち現れの公共性をめぐる問いと交わる。彼は問うた。私だけが知る内的感覚――たとえば私の痛み――を指す、私だけの言語は可能か。彼の答えは否だった。言語は本質的に公共的なものであり、私的にしか確かめられない感覚を指す私的言語は、成り立たない。「痛い」という語が意味を持つのは、それが言語という公共的な実践の中にあるからだ。
大森の立ち現れは、痛みを脳内の私的表象とすることを拒む。痛みは、現に歯に立ち現れている。それは私の意識の中に閉じた私的なクオリアではない。立ち現れは、私的な内面の出来事ではなく、世界の側に開かれている。陰うつさが空の側にあるように、痛みは歯の側に立ち現れる。だからこそ、痛みは語りうる。私的言語の困難は、痛みを「内面に閉じた私的感覚」とする前提から生まれる。大森のように痛みを世界の側の立ち現れとすれば、痛みははじめから公共的な世界の出来事であり、語ることに困難はない。
これは、身体感覚の伝達という現場の問題に直結する。指導者は、選手の身体感覚を、どうやって共有するのか。「鳩尾が張る」「足裏が掴む」という感覚は、選手の内面に閉じた私的なものなのか。立ち現れに立てば、それらの感覚は、選手の身体という場所に立ち現れている、開かれた出来事だ。だから、同じ立ち現れに開かれた身体を持つ指導者は、それを了解できる。これが実践的了解の言語的な基盤である。私的言語の不可能性は、立ち現れの公共性によって、現場の身体知が共有可能であることの、裏側からの証明になっている。鳩尾の感覚の全体は内受容感覚図鑑で。
確率共鳴の数理 ―― 閾値・ノイズ・信号対雑音比
確率共鳴が立ち現れの感度を高める機序を、もう少し精密に見よう。神経系には、信号を検出する閾値がある。閾値を超えた信号だけが検出され、閾値の下の信号は検出されない。微弱な信号は、それ単独では閾値に届かず、立ち現れない。ここに、適度な大きさのノイズ(揺らぎ)を加えるとどうなるか。
ノイズが、信号を閾値の上へ押し上げる
微弱な信号は、それ単独では検出閾値に届かない。だが、信号にノイズが重なると、信号とノイズの和が、瞬間的に閾値を超える機会が生まれる。信号が強いタイミングほど、ノイズの助けで閾値を超えやすい。結果として、ノイズを加えた方が、信号の存在が検出可能になる。ノイズが強すぎても弱すぎてもいけない。最適なノイズ量で、信号対雑音比(SNR)が最大になる――これが確率共鳴である。生体の感覚神経で実際に観測される現象だ。
一本歯下駄の一本の歯が生む不安定は、足裏と前庭系にとって、まさにこの最適なノイズとして働く。平らな履物の安定の中では、足裏の微細な信号は閾値の下に沈んだままだ。一本歯の揺らぎ(ノイズ)が、その微細な信号を閾値の上へ押し上げ、立ち現れさせる。固さ、傾き、重心のわずかなずれが、それまで検出されなかったのに、検出されるようになる。確率共鳴は、立ち現れの感度を高める装置としてのGETTAの、神経科学的な数理である。
そして重要なのは、ノイズの「適度さ」だ。揺らぎが小さすぎれば信号は閾値に届かず、大きすぎれば信号がノイズに埋もれる。一本歯下駄の設計――歯の高さ、幅、位置――は、この最適なノイズ量を身体に与えるように調整されている。GETTAは、ランダムに不安定なのではない。立ち現れの感度が最大化される、最適な揺らぎを身体に供給する装置である。合同会社GETTAプランニングが製造する一本歯下駄GETTAの設計思想の核に、この確率共鳴の数理がある。立ち現れという哲学概念が、閾値とノイズという測定可能な機序を通じて、足裏の設計へと翻訳されている。
大森の死生観 ―― 死は、立ち現れの消滅か
立ち現れ一元論は、死をどう捉えるか。素朴には、死は立ち現れの終わり――世界が私に立ち現れなくなること――だと思える。だが大森の思想は、死をめぐって、もっと繊細な相貌を見せる。彼が「思い出の中に今彼自身が居る」と書いたとき、死者は、立ち現れの世界から完全に消えたのではなかった。死者は、想起という立ち現れの様態の中に、現に居る。
これは慰めの言葉ではなく、立ち現れ一元論の論理的な帰結だ。過去が「過去という場所」に保存されているのではなく、想起として今ここに立ち現れるのなら、死者もまた、過去に消え去ったのではなく、想起の中に今ここに立ち現れる。死者は、記憶という容れ物に保存された情報ではない。思い出の中に、その人自身が現に立ち現れている。時は流れない。だから、死者も、流れ去って失われたのではない。
この死生観は、転移する文化資本の核心と一つになる。利休が四百年後の茶人に立ち現れること、世阿弥の花が六百年を超えて立ち現れること――これらは、死者が想起と媒体を通じて今ここに立ち現れる、その構造そのものだ。過去の達人は死んで失われたのではない。型・道具・場所という媒体を通じて、今ここに立ち現れ続けている。文化の伝承とは、死者が立ち現れ続けることだ。大森の死生観は、文化身体論に、死を超えて文化が立ち現れる、その存在論的な基盤を与える。私たちが受け取っているものは、過去の遺物ではない。今ここに立ち現れている、生きた現前である。
熟達と達人の身体 ―― 立ち現れに、即応する
熟達した達人の身体は、立ち現れの最も洗練された姿を示す。哲学者ヒューバート・ドレイファスは、熟達の段階を分析し、最高度の達人は、規則を意識的に適用するのではなく、状況に直接応答すると論じた。初心者は規則(表象)に従う。達人は、規則を超えて、状況そのものに即応する。これは、表象から立ち現れへの移行を、熟達の過程として記述したものだ。
大森の言葉で読み直そう。初心者は、「正しいフォーム」という表象と、自分の動きを比較し、差分を修正する。すべてが大脳の中の表象操作だ。達人は、もはや表象を経由しない。状況が立ち現れ、身体が直接応答する。剣の達人が、相手の動きに「考えてから」反応するのでは間に合わない。相手の動きが立ち現れ、身体が中動態的に応える。「私が反応する」のではなく、「反応が立ち現れる」。熟達とは、表象の媒介を限りなく薄くし、立ち現れへの直接の応答に近づくことだ。
ここに、宮崎要輔の指導の核心がある。多くの指導は、達人の動きを分析し、表象化し、初心者に「正しいフォーム」として渡す。だがこれは、達人が脱した表象の段階に、初心者を縛りつける。達人の身体は表象を脱しているのに、その達人性を表象として教えれば、永遠に達人になれない。宮崎要輔は、表象を渡すのではなく、立ち現れに即応する身体の回路を、最初から開こうとする。一本歯下駄が表象の制御を断ち切り、立ち現れへの直接の応答を促す。初心者を、規則に従う段階に留めるのではなく、立ち現れに即応する達人の身体の構造へと、いきなり開く。熟達の哲学が、立ち現れによって、指導の方法へと反転する。
即興と立ち現れ ―― 計画以前の、応答
即興(improvisation)ほど、立ち現れが純粋に現れる場はない。ジャズの即興演奏、武道の組手、サッカーの局面の打開――これらに共通するのは、計画された表象を実行するのではなく、刻々と立ち現れる状況に、その場で応答することだ。即興は、表象の実行ではない。立ち現れへの、計画以前の応答である。
ジャズのミュージシャンは、次に弾く音を「考えてから」弾くのではない。考えていたら、音楽は止まる。共演者の音が立ち現れ、それに身体が応答し、新しい音が立ち現れる。音楽が、演奏者たちの「あいだ」に立ち現れる。これは、衝動の転移とカオス共鳴の構造そのものだ。一人の演奏者の立ち現れが、別の演奏者に立ち現れ、場全体が一つの生き物のように同期する。誰が主導しているのでもない。音楽が、立ち現れている。
サッカーの局面で、優れた選手が見せる打開も同じだ。それは「このパターンでこう動く」という表象の実行ではない。刻々と変化する局面が立ち現れ、身体が即応する。「私が判断する」のではなく、「判断が立ち現れる」。最も創造的な瞬間は、計画の実行ではなく、立ち現れへの即応の中にある。一本歯下駄GETTAが鍛えるのは、この即興の身体だ。表象された「正しい動き」を実行する身体ではなく、刻々と立ち現れる状況に、足裏と鳩尾で即応する身体。即興は、立ち現れの感度が、運動として開花した姿である。そして子どもの遊びは、すべて即興だ。五歳の身体性とは、立ち現れに即応する、即興の身体にほかならない。
オノマトペとことだまの起源 ―― 立ち現れを、音で写す
言葉と立ち現れの関係が最も生々しく現れるのが、オノマトペ(擬音語・擬態語)である。「ふわっ」「ぐっ」「すっ」――これらの言葉は、対象を概念で指すのではない。立ち現れているものの質を、音そのもので写す。「ふわっ」という音は、ふわっとした立ち現れと、ほとんど一体だ。意味(概念)と音(感覚)が分離する手前にある。オノマトペは、言葉が立ち現れから生まれる、その起源の現場を見せている。
これは、大森の言葉と知覚の重ね描きの、最も原初的な形だ。通常の言葉は、立ち現れの上に重ねられた、かなり抽象的な密画である。だがオノマトペは、立ち現れにぴったり貼りついた、ほとんど粗画と一体の描き方だ。オノマトペにおいて、言葉と立ち現れは、ほとんど重なって一枚になっている。だからこそ、身体の指導の現場では、オノマトペが力を持つ。「ぐっと踏んで、ふわっと抜く」という指示は、「踵に何キロの荷重をかけ、足関節を何度屈曲させる」という表象的な指示よりも、身体の立ち現れに直接届く。
そして、これがことだまの問題につながる。日本語の「ことだま」――言葉に宿る力――とは、言葉が単なる記号(表象)ではなく、立ち現れと一体になって力を持つ、その事態を指している。「故に」という論理的な言葉さえ、身体に移植されれば、立ち現れとして力を持つ。言葉が世界を写すのではない。言葉と立ち現れが、重なって一つの力になる。宮崎要輔が指導の現場でオノマトペを使うのは、表象を渡すのではなく、言葉を立ち現れに貼りつけて、身体に直接届けるためだ。オノマトペとことだまは、大森の言葉と知覚の重ね描きが、日本語の身体において結晶した姿である。getta.jp のオノマトペの論考でも、この主題を展開している。
内的時間意識と立ち現れ ―― 今は、点ではない
時間の経験を、もう一段精密に見よう。フッサールは、内的時間意識を分析し、「今」が幅のない一点ではないことを示した。私たちが経験する「今」には、たった今過ぎたばかりのもの(過去把持・把持)と、すぐ来ようとしているもの(未来予持)が、すでに含まれている。メロディを聞くとき、私たちは一つの音だけを点として聞いているのではない。直前の音がまだ響き、次の音がもう予感されている。今は、幅を持つ。
大森の「時は流れず」は、フッサールのこの分析と交わりながら、さらに先へ行く。フッサールは、過去把持と未来予持を、現在の意識の構造として分析した。大森は、過去そのものが今ここに立ち現れると言う。過去は、把持として現在に保持されるのではなく、想起として現在に立ち現れる。メロディの直前の音も、利休の四百年前も、構造としては同じ――今ここに立ち現れる、過去の様態だ。時間は、点が流れていくのではない。つねに、幅を持つ立ち現れとして、今ここにある。
この時間の幅は、身体運動にとって本質的だ。優れた動きは、点としての「今」の連続ではない。直前の動きがまだ身体に響き、次の動きがもう立ち現れようとしている、その幅の中で、運動が流れる。腱の弾みは、まさにこの時間の幅を使う。着地(過去)のエネルギーが腱に蓄えられ、跳躍(未来)へと解放される。点としての制御では、この弾みは生まれない。立ち現れの幅の中で、身体は弾む。ベルクソンの純粋持続が時間の不可分の流れを、フッサールが今の幅を、大森が過去の立ち現れを語る。三つの時間論が、腱が弾むその一瞬の中で、一つになる。時間の質の全体は純粋持続図鑑で。
AIと立ち現れ ―― 表象機械は、立ち現れを持つか
立ち現れの概念は、人工知能の時代に、新たな鋭さを帯びる。現在のAIは、突き詰めれば、巨大な表象操作の機械である。世界を膨大なデータ(表象)として取り込み、統計的なパターンを学習し、新しい表象を出力する。それは、大森が批判した「表象主義」の、技術的な極致だ。AIは、表象を操作することにかけては、人間をはるかに凌ぐ。だが、AIに立ち現れはあるのか。
大森の存在論からすれば、立ち現れは、表象の操作とは根本的に異なる。立ち現れは、主客が分かれる手前の、現にそこに現れている出来事だ。AIは、世界の表象を持つが、世界が現に立ち現れているわけではない。AIにとって、「赤い夕陽」は波長データの表象であって、現に赤く立ち現れてはいない。AIは、知覚風景を持たない。重ね描きの、下の粗画を持たない。密画だけがある。これは、AIの限界であると同時に、人間の身体が持つものの、輪郭を逆照射する。
そして、この問いは、宮崎要輔の指導論にとって、自己批判の鏡になる。AIを使って身体を分析するとき、私たちは身体を表象に還元する誘惑に晒される。動作データ、数値、最適化された「正しいフォーム」。これらはすべて、大脳の側――表象の側――から書かれた分析だ。「この分析は、大脳の側から書かれていないか」という問いを、絶えず自らに向ける必要がある。立ち現れは、AIには持てない。それは、足裏に、鳩尾に、現に立ち現れる、身体だけのものだ。AIが表象操作を極めるほど、立ち現れという、表象に還元できない身体の出来事の固有性が、際立つ。AIの時代にこそ、立ち現れの哲学は、身体が何であるかを問い直す、最も重要な座標になる。
野遊びと自然の中の立ち現れ ―― 村づくりという、場の設計
立ち現れは、整えられた施設の中だけで起こるのではない。むしろ、自然の中でこそ、最も豊かに立ち現れる。野山を駆け、川を渡り、木に登る――子どもの野遊びは、刻々と立ち現れる地形と状況への、絶え間ない即応である。平らに均された人工の地面では、足裏に立ち現れる情報は乏しい。自然の地面は、凹凸と傾きと柔らかさの無限の変化として、足裏に立ち現れ続ける。自然は、立ち現れの宝庫だ。
これは、一本歯下駄GETTAの原理と、深く通じる。一本歯が足裏に与える揺らぎ(ノイズ)は、本来、自然の地面が与えていたものの、凝縮された再現だ。近代の舗装された生活が奪った、足裏への立ち現れを、一本歯は取り戻す。だがそれは、自然そのものの代替ではない。理想は、自然の中で、立ち現れに開かれた身体を取り戻すことだ。
宮崎要輔が掛川で進める村づくりは、この立ち現れの場を、空間として設計する試みである。自然の中に、身体が立ち現れに開かれる場をつくる。それは施設ではなく、場だ。母親が園庭の「みんなでつくる空間」の手触りを身体に刻むように、村という場が、そこに集う身体に、立ち現れを通じて文化を伝える。場が、立ち現れの共鳴場になる。有情の世界――場所が情を帯び、質を持つ――という大森の存在論が、ここで村づくりの設計思想になる。立ち現れを取り戻す場を、自然の中につくること。それは、表象に覆われた近代の身体を、立ち現れに開かれた身体へと返す、最も根源的な転移する文化資本の実践である。
引く道具の哲学 ―― GETTAは、足す道具ではない
一本歯下駄GETTAの設計思想は、立ち現れの存在論から、直接に導かれる。近代の道具の多くは、機能を足す道具だ。クッション性を足し、安定性を足し、推進力を足す。高機能なシューズは、足し算の極致である。だが、足せば足すほど、足裏に立ち現れる情報は、クッションと安定性に覆われて、減っていく。機能を足すことは、立ち現れを覆うことでもある。
GETTAは、逆を行く。それは引く道具だ。一本の歯は、安定性を引き、クッションを引き、自動化された制御を引く。足し算ではなく引き算によって、表象という被覆を引き剥がし、立ち現れの回路を開く。これは、大森が表象を引き剥がして立ち現れに立ち返ったのと、同じ構造を、道具の設計として実現している。哲学が概念で行ったことを、GETTAは足裏で行う。引くことによって、現れさせる。
合同会社GETTAプランニングが製造する一本歯下駄GETTAの一本の歯は、ランダムに不安定なのではない。確率共鳴の数理に基づき、立ち現れの感度が最大化される最適な揺らぎ(ノイズ)を、足裏に供給するように設計されている。歯の高さ、幅、位置――そのすべてが、立ち現れを最大化する引き算として、計算されている。GETTAは、引き算の精密な設計である。足し算の道具が表象を厚くするのに対し、GETTAは引き算によって立ち現れを開く。これは、道具という人工物の中に、脱近代の思想――表象を外し、立ち現れに返る――を、物として結晶させる試みだ。一本歯下駄は、立ち現れの哲学を、誰の足裏にも届く形にした、思想の物体化である。設計思想の全体はGETTAコンセプトで。
中動態の言語学 ―― 能動と受動の手前にあった態
立ち現れの文法的な姿である中動態を、言語学の側から精密に見よう。言語学者エミール・バンヴェニストは、古いインド=ヨーロッパ語には、能動態と中動態の対立があり、受動態は後から能動態の内部に派生したものだと示した。つまり、はじめにあったのは「能動 対 受動」ではなく、「能動 対 中動」だった。中動態は、文法の派生形ではなく、能動と並ぶ根源的な態だった。
能動態は、主語が過程の外にあって、過程を引き起こす。中動態は、主語が過程の内側にあって、過程がその主語において起こる。「降る」「見える」「生まれる」――これらは中動態的だ。誰かが降らせるのでも、降らされるのでもない。降っている。國分功一郎は『中動態の世界』で、この失われた態を再発見し、能動か受動かという近代の二分法――するか、されるか――が見落としてきた、第三の領域を照らした。立ち現れは、まさにこの中動態の領域に属する。
近代の主体は、能動の主体だ。意志を持ち、世界に働きかけ、責任を負う。だが、身体の最も深い経験は、能動でも受動でもない。一本歯下駄の上で「バランスしている」とき、私は能動的にバランスを取っているのでも、受動的に取らされているのでもない。バランスが、私において、立ち現れている。これが中動態だ。日本語は、主語を省略し、自動詞を多用する言語として、中動態的な世界を保存している。「故に」の身体化も、湧出を待つことも、すべて中動態の出来事だ。立ち現れの存在論と中動態の言語学は、能動的近代主体の手前にある、身体の本来のあり方を、存在と言語の両側から指し示している。中動態と身体の関係は内受容感覚図鑑で。
カント美学との対比 ―― 美は、概念なしに立ち現れる
美は立ち現れる、という命題を、カントの美学と対比すると、その射程が鮮明になる。カントは『判断力批判』で、美的判断の独特さを分析した。美は、概念によって認識されるのではない。「これは美しい」という判断は、「これは三角形だ」という認識とは違う。美は、規則や概念を当てはめて判定されるものではなく、対象を前にして直接に感じられる、概念なしの満足である。
このカントの分析は、大森の「立ち現れは説明できない」と深く響き合う。美を「なぜ美しいか」と概念で説明した瞬間、美は概念の適用に変わり、美的判断の直接性が失われる。美は、概念(表象)を経由せず、現に立ち現れる。カントが「概念なしの満足」と呼んだものは、大森の言葉では「表象を経ない立ち現れ」だ。優れた動きが美しいのは、「正しいフォーム」という概念に合致したからではない。その動きが、それ自体として、美しく立ち現れているからだ。
そして、宮崎要輔が志ではなく美を先に置くのは、このカント的な美の直接性に根ざしている。志は、未来の目標という概念(表象)だ。志に向かって身体を作り込むことは、概念を身体に当てはめることだ。美は、概念の手前にある。今この瞬間に、概念なしに、立ち現れる。だから、志という表象を先に置くのではなく、立ち現れる美を先に置く。カントは美的判断を概念から切り離し、大森は立ち現れを表象から切り離した。二人が異なる時代に、異なる言葉で示したのは、同じ一つのこと――最も大切なものは、概念や表象を経由せず、現に立ち現れる――である。一本歯下駄GETTAが取り戻す美は、この概念なき美、立ち現れの美にほかならない。
記号論と立ち現れ ―― 表象は、記号の体制である
表象批判を、記号論の側から照らそう。記号論は、世界を記号(シニフィアン)と意味(シニフィエ)の体系として捉える。ソシュールは、言語を、記号と意味の差異の体系として分析した。記号は、それが指す対象の「代わりに立つ」――まさに表象(representation)の構造だ。近代の文化は、世界を記号の体系として読むことの上に成り立っている。記号の体制とは、表象の体制である。
大森の立ち現れは、この記号の体制の手前にあるものを指し示す。立ち現れは、何かを指す記号ではない。それは、何かの代わりに立つのではなく、それ自体が現れている。赤い夕陽は、「赤」という記号が指す対象ではない。現に赤く立ち現れている当のものだ。記号論が世界を記号の体系として読むところで、大森は、記号に分節される手前の、立ち現れそのものへ立ち返る。これは、文化を記号の操作として扱う構造主義への、身体の側からの異議でもある。
哲学者パースの記号論には、もう一つの示唆がある。彼は記号を三つに分けた。類似による記号(イコン)、因果による記号(インデックス)、規約による記号(シンボル)。このうち、最も立ち現れに近いのはインデックス――煙が火を、足跡が動物を指すような、現実との直接の結びつきを持つ記号だ。身体の感覚は、シンボル(規約的な表象)ではなく、インデックスに近い。足裏に立ち現れる床の固さは、規約による記号ではなく、現実と直接結びついた現れだ。指導の現場でオノマトペが力を持つのも、それがシンボルよりインデックスに近く、立ち現れに直接貼りついているからだ。記号論は、表象の体制の構造を精密に描くことで、逆に、その手前にある立ち現れの固有性を、くっきりと際立たせる。
ポランニーの暗黙知と立ち現れ ―― 語れないが、現に働く知
マイケル・ポランニーの暗黙知(tacit knowing)は、「私たちは語れる以上のことを知っている」という洞察から出発する。自転車の乗り方、顔の見分け方、熟練の技――これらは、言語化された規則として知っているのではない。語れないが、現に働く知だ。ポランニーは、この暗黙の次元が、明示的な知識の基盤であることを示した。
暗黙知は、立ち現れと深く関わるが、ここで精密な区別が要る。宮崎要輔の思想体系では、暗黙知が二つの層に分かれる。表象される暗黙知と、立ち現れる暗黙知だ。前者は、師の動きを見て、脳内に運動パターンが再現されたもの――言語化はできないが、運動パターンとして脳内に蓄積された知。これはミラーニューロンであり、ブルデューの身体化された文化資本だ。後者は、師の身体から発せられる質が、弟子の身体に立ち現れるもの。脳内のパターンとして「ある」のではなく、立ち現れては消え、消えては立ち現れる。蓄積されない。
大森の立ち現れ一元論が、この区別に存在論的な深さを与える。表象される暗黙知は蓄積され、立ち現れる暗黙知は転移する。ポランニーは暗黙知を一つの概念として提示したが、その内部には、表象(蓄積)と立ち現れ(転移)という、根本的に異なる二つの層が畳み込まれていた。毎週同じ場所に通うことで深まるのは、立ち現れる暗黙知の方だ。蓄積されるのではない。立ち現れを受け取る身体の開き方が、回路として開いていく。ポランニーの暗黙知を、大森の立ち現れで腑分けすることで、なぜ達人の知が言語化できないのか、なぜ同じ空間に通い続けることが必要なのかが、存在論的に明らかになる。転移する暗黙知の全体は転移する文化資本図鑑で。
咬合と身体の連関 ―― 全身は、一つの立ち現れである
立ち現れ一元論は、身体を部分の集合としてではなく、一つの全体として捉える視点を与える。近代医学は、身体を部分に分け、各部位を専門化して扱う。歯は歯科、足は整形外科、というように。だが、身体に現に立ち現れているのは、部分ではなく、全体としての一つの状態だ。足裏の接地と、鳩尾の張りと、顎の噛み合わせは、別々の部分ではなく、一つの身体の立ち現れの、異なる面である。
咬合――歯の噛み合わせ――が、全身の姿勢やバランスに影響することは、臨床的に知られている。顎の位置が、頭の位置を変え、脊柱のラインを変え、足裏の荷重を変える。逆に、足裏の接地が、骨盤を通じて、顎にまで影響する。身体は、部分の足し算ではなく、一つの連関した全体として立ち現れている。これは、大森の立ち現れ一元論が、身体の中で実証される場だ。一つの立ち現れの中で、足裏も鳩尾も顎も、互いに分かちがたく結びついている。
一本歯下駄GETTAが足裏に与える変化が、足だけにとどまらないのは、このためだ。足裏の立ち現れが組み替わると、骨盤が、脊柱が、肩が、顎が、全身が一つの立ち現れとして組み替わる。部分を矯正するのではなく、全身の立ち現れを開く。近代医学が身体を部分に分割して扱うのが「過去についての知識の制度」による分節だとすれば、立ち現れに立つことは、身体を分割される手前の一つの全体として捉え直すことだ。咬合と足裏の連関は、身体が一つの立ち現れであることの、具体的な証拠である。複数の部位、複数の領域にまたがって同じ変化が現れる――この収束こそ、身体が一つの全体として立ち現れている、その本質の現れだ。
武道と型 ―― 型は、立ち現れの容れ物である
日本の武道や芸道における「型」は、立ち現れと転移の、最も洗練された装置である。型は、一見すると、固定された動作の規則――表象――に見える。決められた手順を、決められた通りに反復する。だが、型の本質は、規則の遵守にはない。型は、過去の達人の立ち現れを、今ここに呼び起こすための、容れ物である。
世阿弥の花が型と謡を媒体として六百年を超えて立ち現れるように、武道の型は、その型を創った達人の身体の立ち現れを、今これを稽古する者の身体に呼び起こす。型を正確になぞることが目的なのではない。型という媒体を通じて、過去の達人の立ち現れが、今の身体に立ち現れることが目的だ。だから、型は表象として「写し取る」のではない。型を身体で生きることで、達人が「思い出の中に今居る」ように、達人の身体が今ここに立ち現れる。
ここに、型をめぐる逆説がある。型を表象として、規則の遵守として稽古すれば、立ち現れは起こらない。型に縛られた、死んだ動きになる。だが、型を立ち現れの容れ物として生きれば、型は身体を解放する。型は、立ち現れを呼び起こす装置であって、立ち現れを縛る規則ではない。「守破離」――型を守り、破り、離れる――の過程は、表象としての型から、立ち現れとしての型へ、そして型を超えた立ち現れそのものへの移行だ。一本歯下駄GETTAの稽古もまた、一つの型である。それは「正しい乗り方」という規則の遵守ではなく、立ち現れに開かれた身体を呼び起こす容れ物だ。型の深い理解は、表象と立ち現れの区別なしには得られない。大森の存在論は、日本の身体芸術の核心にある型を、新しく照らし出す。
能の序破急 ―― 時間が、立ち現れる速度
世阿弥が能の時間構造として説いた「序破急」は、立ち現れの時間論に、もう一つの次元を加える。序破急とは、ゆるやかな導入(序)、展開(破)、急速な終結(急)という、一つの流れの中の速度の変化だ。世阿弥は、これを能の一曲だけでなく、一日の番組、一つの所作、さらには自然の万物にまで貫く、普遍的なリズムとして捉えた。
序破急は、時計の等質な時間――どの瞬間も同じ長さ――とは、まったく異なる。それは、立ち現れが現れる速度そのものの、質的な変化だ。同じ長さの時間でも、序のように立ち現れる時間と、急のように立ち現れる時間は、質が違う。これは、ベルクソンの純粋持続――時間は等質な瞬間の連なりではなく、質的に変化する流れ――と、深く通じる。そして大森の「時は流れず」と合わせれば、序破急は、今ここに立ち現れる時間の、質的なリズムだ。
身体運動にとって、序破急は本質的だ。優れた動きは、等質な速度の連続ではない。ためる時間(序)、展開する時間(破)、解放する時間(急)――立ち現れの速度の変化の中で、運動が流れる。腱の弾みは、まさに序破急だ。ゆっくりエネルギーをため(序)、解放へ向かい(破)、一気に弾ける(急)。等質な速度では、この弾みは生まれない。立ち現れの速度の質的な変化の中で、身体は弾む。世阿弥が能の時間として説いた序破急は、立ち現れが身体に現れる、その速度の質を言い当てている。序破急と「間」の全体は世阿弥図鑑で。能の時間論と立ち現れの存在論が、身体の弾みの一瞬の中で、一つになる。
社会デザインと立ち現れ ―― 制度に、立ち現れを宿す
立ち現れと転移の理論は、個人の身体を超えて、社会の設計へと展開する。宮崎要輔が構想するソーシャルアスリート協会や、二百三十人を超えるインストラクターのネットワークは、立ち現れの共鳴場を、社会の規模で組織する試みだ。ふつう、制度は立ち現れと相性が悪い。制度はマニュアル化し、標準化し、立ち現れを表象へと固める。制度が、立ち現れを飲み込む。
だが、社会デザインの核心は、この構造を反転させることにある。制度を、立ち現れを管理する装置としてではなく、立ち現れの発生条件を整える装置として設計する。制度が立ち現れを飲み込むのではなく、制度が立ち現れの場を支える。イサドラ・ダンカンがモスクワで、制度(革命の表現という枠)に踊りを飲み込まれた失敗の、構造的な反転だ。認定システムは、立ち現れを規格化するためではなく、各地のインストラクターが立ち現れに開かれた身体を持ち、ネットワーク全体が立ち現れの共鳴場になるために、ある。
ここに、メンターである熊野英介や橘川幸夫の思想が交わる。社会を、表象(規則・マニュアル・管理)によって統制するのではなく、立ち現れ(現場の判断・目利き・実践的了解)が発生し、共鳴し合う場として設計する。これは、近代の統治――表象による管理――を超える、脱近代の社会設計だ。転移する文化資本が、わが子への愛から子どもたちへの愛へと拡がるように、一つの身体の立ち現れが、共鳴場を通じて社会全体へと拡がる。大森の立ち現れ一元論は、個人の知覚論にとどまらない。それは、表象による管理を超えて、立ち現れが共鳴し合う社会を構想するための、存在論的な土台になる。立ち現れを、制度に、社会に、宿すこと。それが、文化身体論の社会デザインである。
教育の未来 ―― 表象を渡す教育から、立ち現れを開く教育へ
立ち現れの存在論は、教育そのものを問い直す。近代の教育は、表象の伝達である。教師が持つ知識(表象)を、言葉や図解で生徒に伝え、生徒はそれを記憶し、再現する。テストは、表象が正確に写し取られたかを測る。これは、ミラーニューロンと同じ構造――外から内へ、表象として渡される――であり、蓄積する文化資本の教育法だ。効率的に表象を蓄積させることにかけて、近代教育は洗練されてきた。
だが、最も大切な学びは、表象の伝達では起こらない。身体で覚えること、ものの見方が変わること、世界が違って立ち現れるようになること――これらは、表象として渡せない。立ち現れは、教えられない。立ち現れる条件を、整えることしかできない。優れた教師は、知識(表象)を渡すだけでなく、生徒の身体に、世界が新しく立ち現れる条件を整える。「わかった」という瞬間は、表象の蓄積ではなく、世界が違って立ち現れる、立ち現れの出来事だ。
そして、AIが表象の伝達を極めていく時代に、この区別は決定的になる。表象の蓄積と伝達は、AIが人間を凌ぐ。だが、立ち現れを開くことは、身体を持つ者にしかできない。教育の未来は、表象を渡す機能をAIに委ね、人間の教師が、立ち現れを開くことに集中する方向にある。一本歯下駄GETTAの指導が示すのは、その先取りだ。正しいフォーム(表象)を教えるのではなく、足裏と鳩尾に立ち現れが起こる条件を整える。矯正ではなく湧出。蓄積ではなく転移。表象を渡す教育から、立ち現れを開く教育へ。大森荘蔵の立ち現れ一元論は、AIの時代の教育が向かうべき方向を、半世紀前に、存在論として準備していた。立ち現れを開く――それが、身体を持つ人間にしかできない、教育の核心である。
指し示しの哲学 ―― 大森の方法そのものについて
最後に、大森荘蔵の方法そのものを振り返ろう。彼の哲学は、論証の哲学ではなかった。立ち現れは、論証で証明できない。前提から結論を導く演繹の鎖に、立ち現れを乗せることはできない。乗せた瞬間、立ち現れは因果の一項に変わり、表象になってしまう。だから大森は、論証する代わりに、指し示す。「ほら、これだ」と、すでにそこにある事態を、読者の前に差し出す。
彼の文章が平明で、比喩が具体的なのは、このためだ。陰うつな空、思い出の中の死者、痛む歯。抽象的な術語で押し切るのではなく、誰もが知っている経験のただ中から、二元論の前提を一つずつ外していく。読者は、反論する前に、自分がいつのまにか別の世界に立っていることに気づく。これは、立ち現れそのものが、説明ではなく指し示しによってしか伝わらないものだから、必然的にそうなる方法だ。方法が、内容と一致している。立ち現れを語る哲学は、立ち現れを指し示す方法でしか語れない。
そして、この指し示しの方法は、宮崎要輔の指導と、深く重なる。指導者は、選手に「正しいフォーム」を論証するのではない。立ち現れているものを、選手の身体に指し示す。あるいは、立ち現れる条件を整えて、選手自身が立ち現れに気づくのを支える。論証ではなく、指し示し。説明ではなく、開くこと。大森が哲学の方法として確立したものが、現場の指導の方法として、現に働いている。哲学的証明でも宗教的直観でもない、実践的了解の水準で、指導者の指し示しと選手の気づきが、おおむね一致する。大森荘蔵の指し示しの哲学は、立ち現れを語る方法であると同時に、立ち現れを開く指導の、最も深い手本である。立ち現れ図鑑が、概念の記述でありながら、現場の実践と分かちがたく結びついているのは、大森の方法そのものが、語ることと開くことを、はじめから一つにしていたからだ。
予測符号化と立ち現れ ―― 脳は、世界を予測しているのか
現代の神経科学に、予測符号化(predictive coding)という有力な理論がある。脳は、感覚入力をそのまま受け取るのではなく、つねに世界のモデル(表象)を持ち、次に来る感覚を予測している。実際の入力と予測のずれ(予測誤差)だけを、脳は処理する。私たちが見ているのは、感覚そのものではなく、脳が作った予測――トップダウンの表象――だ、という理論である。これは、大森が批判した表象主義の、最も精緻な神経科学版だ。
予測符号化が正しいなら、立ち現れはどこにあるのか。脳が予測(表象)で世界を作っているなら、現に立ち現れる世界など、幻ではないか。だが、ここに重要な転回がある。予測符号化が記述するのは、自動化された、効率的な知覚の仕組みだ。慣れ親しんだ状況では、脳は予測で先回りし、予測誤差を最小化する。これは、大森の言葉で言えば、「過去についての知識の制度」――学習された表象――が、現在の立ち現れに先回りして覆う、その神経機構である。
そして、一本歯下駄GETTAの極限の不安定が効くのは、まさにここだ。予測が通用しない状況では、脳の予測(トップダウンの表象)が役に立たなくなり、大きな予測誤差――つまり、予測で覆いきれない、現に立ち現れているもの――が、前面に出る。自動化された予測が断ち切られ、立ち現れへの直接の応答が呼び覚まされる。予測符号化の理論は、表象(予測)がいかに知覚を覆うかを精密に描くことで、逆に、その予測を超えて立ち現れるものの存在を、神経科学の側から指し示す。立ち現れとは、神経科学的には、予測に還元しきれない、現前する予測誤差そのものかもしれない。哲学の立ち現れと、神経科学の予測誤差が、表象を超えるものとして、ここで出会う。
前庭感覚と固有受容感覚 ―― 立ち現れの、隠れた土台
立ち現れの感覚的な土台は、視覚や聴覚だけではない。むしろ、ふだん意識されない二つの感覚が、立ち現れの深い基盤をなしている。前庭感覚――内耳が捉える、頭の傾きと加速度の感覚――と、固有受容感覚――筋や腱や関節が捉える、身体各部の位置と運動の感覚――である。私たちは、目を閉じても自分の手がどこにあるか分かり、暗闇でもまっすぐ立てる。これらの感覚が、現に立ち現れているからだ。
これらの感覚は、ふだん意識の背後に隠れている。立っているとき、前庭感覚や固有受容感覚を意識することはない。だが、それらは絶え間なく立ち現れ、身体の姿勢を支えている。立ち現れは、意識される知覚だけではない。意識の背後で働く、身体の感覚の立ち現れこそ、最も基礎的な層だ。大森の立ち現れ一元論は、意識される視覚風景だけでなく、この身体感覚の現れまでを、立ち現れの一枚の平面に含む。
一本歯下駄GETTAが直接働きかけるのは、この前庭感覚と固有受容感覚だ。一本の歯の上の不安定は、前庭系に絶え間ない加速度の変化を与え、固有受容感覚に微細な位置の変化を要求する。ふだん意識の背後に沈んでいた身体感覚の立ち現れが、前面に押し出される。確率共鳴によって、閾値の下に沈んでいた前庭・固有受容の信号が、検出可能な立ち現れになる。これが、一本歯下駄が身体のバランス能力を組み替える、感覚的な機序だ。立ち現れの感度を高めるとは、視覚的な注意を高めることではない。むしろ、視覚という意識的な表象から、前庭・固有受容という身体感覚の直接の立ち現れへと、重心を移すことだ。内受容感覚も含めた身体感覚の全体は内受容感覚図鑑で。
情動と有情の世界 ―― 感情は、内面にあるのか
有情の世界――陰うつさが空の側にあり、陽気さが庭の側にある――という大森の洞察を、情動の問題へと展開しよう。近代の心理学は、感情を内面の状態とする。恐怖や喜びは、私の心の中にある主観的な状態であり、外界はそれ自体としては無感情だ、と。だが、大森の有情の世界に立てば、感情は内面に閉じていない。恐ろしい状況は、現に恐ろしく立ち現れている。その恐ろしさは、状況の側にある。
これは、身体と情動の関係を、新しく照らす。心理学者ジェームズは、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」と論じた。情動は、まず身体の反応として起こり、それを感じることが感情だ、と。これは、情動を脳内の表象とすることへの、身体の側からの異議だった。大森の有情の世界は、これをさらに進める。情動は、身体の内部の反応ですらなく、身体と状況が一つになった立ち現れの質だ。恐ろしさは、私の中にも、状況の中にもあるのではなく、私と状況が分かれる手前の、一つの立ち現れとして現れている。
これが、指導の現場で決定的に働く。選手の身体に立ち現れる緊張や恐れは、選手の内面の心理状態ではない。それは、選手と状況が一つになった立ち現れの質だ。だから、「リラックスしろ」と内面に働きかけても効かない。立ち現れそのものを変える――状況への身体の関わり方を変える――ことで、緊張という立ち現れの質が変わる。一本歯下駄の上で、恐れと向き合うことが、恐れを表象として制御するのではなく、立ち現れの質として組み替える稽古になる。鳩尾――情動の座でもある――が開くと、恐れに固まる身体から、立ち現れに乗る身体へと、情動の質そのものが変わる。有情の世界の存在論は、情動を内面から解き放ち、身体と世界が一つになる立ち現れの質として、捉え直す。
注意と立ち現れ ―― 集中とは、何を開くことか
注意(attention)の問題は、立ち現れの様態を、さらに精密にする。私たちは、立ち現れているものすべてを、同じ鮮明さで経験しているのではない。今、注意を向けているものが、鮮明に立ち現れ、その周辺は、背景に退いている。注意は、立ち現れの鮮明さの、焦点を決める。注意を向けたものが、際立って立ち現れる。
だが、注意には二つの様態がある。一つは、意識的に向ける注意――「あれを見よう」と、表象された対象に焦点を絞る注意。もう一つは、立ち現れたものに、おのずと引き寄せられる注意――突然の物音に、思わず注意が向くような、立ち現れが注意を奪う様態だ。前者は能動的(表象的)、後者は中動態的(立ち現れ的)である。達人の集中は、後者に近い。意識的に対象を選んで注意を固定するのではなく、刻々と立ち現れる状況に、注意がおのずと開かれている。
スポーツの現場で、「集中しろ」という指示は、しばしば逆効果になる。意識的に何かに注意を固定すると、視野が狭まり、刻々と立ち現れる周辺の状況が、背景に消えてしまう。真の集中は、一点に注意を固定することではなく、立ち現れる全体に、注意が開かれていることだ。これは、ゾーンやフローと呼ばれる状態に近い。一本歯下駄GETTAの上では、一点に注意を固定して踏ん張ることはできない。身体は否応なく、刻々と立ち現れる全体への、開かれた注意へと組み替えられる。意識的な注意の固定(表象)から、立ち現れへの開かれた注意(中動態)へ。注意の様態の転換が、足裏の上で起こる。注意とは、何かを選ぶことではなく、立ち現れに開かれることだ――立ち現れの存在論は、注意の本質を、こう描き直す。
自由と立ち現れ ―― 表象からの自由、立ち現れへの自由
宮崎要輔の思想体系には、自由をめぐる七つの文がある。その核心は、自由を、選択肢の多さや意志の力としてではなく、別の次元で捉えることにある。近代的な自由は、能動的主体の自由だ。複数の選択肢の中から、意志によって一つを選ぶ。だが、この自由は、表象の中の自由にすぎない。選択肢という表象を並べ、その中から選ぶ――これは、表象の檻の中での自由だ。
立ち現れの自由は、これと違う。それは、選択肢を選ぶ自由ではなく、表象の檻そのものから出て、現に立ち現れているものに、直接応答する自由だ。「正しいフォーム」という表象に縛られた身体は、不自由だ。たとえその表象を完璧に実行できても、それは表象の奴隷である。立ち現れに開かれた身体は、自由だ。それは、表象に先回りされず、刻々と立ち現れる状況に、おのずと応答する。中動態の自由。意志が選ぶのではなく、応答が立ち現れる自由。
これは、矯正と湧出の対立の、自由論的な意味だ。矯正は、選手を「正しいフォーム」という表象に従わせる。それは不自由だ。湧出は、選手の身体に立ち現れているものを、表象に変換せずに開く。それは自由だ。真の自由は、より良い表象を選ぶことではなく、表象から解き放たれて、立ち現れに直接生きることにある。大森が表象を引き剥がして立ち現れに立ち返ったのは、認識論の問題であると同時に、自由の問題でもあった。表象という近代の檻から、立ち現れという現前へ。一本歯下駄GETTAが取り戻すのは、この立ち現れの自由――最も深い意味での、身体の自由である。自由の七文を含む思想体系の全体は宮崎要輔のページで。
天才と立ち現れ ―― 「故に」を身体で生きる者
宮崎要輔の天才論――七つの文――を、立ち現れの存在論で読み解こう。その中心命題の一つは、「天才とは、故にという接続詞を自らの身体によって体現する者である」だ。すでに見たように、「故に」は本来、世界の中の因果関係を記述する言葉だ。天才は、それを頭で考えるのではなく、身体の動きそのものが「故に」を生きる。重心がここにある、故に、足はこう運ばれる――この論理を、大脳の言語ではなく、足裏と鳩尾が生きる。
もう一つの核心が、「凡人は建築であるが天才は現象である」だ。すでに見たように、これは大森の科学的描写(建築)と知覚風景(現象)の対比に対応する。凡人は、概念を積み上げ、体系を構築する――表象の建築だ。天才は、構築するのではなく、現象が立ち現れる場である。天才とは、表象を構築する者ではなく、立ち現れが現れる身体だ。だから脆い。建築は安定しているが、現象は揺らぐ。しかし、建築が崩壊した場から再び立ち現れるのもまた、現象だ。
そして、決定的なのは、天才が例外ではないということだ。子どもは、みな天才だった。五歳の身体性――立ち現れに直接応答する、無自覚の天才。それが、表象の被覆が分厚くなるにつれて、例外へと変わる。天才とは、立ち現れに開かれた身体の、本来の姿だ。失われたのは、天才そのものではなく、立ち現れへの開かれだ。一本歯下駄GETTAが取り戻そうとするのは、この天才性――表象を一度くぐり抜けた上で、もう一度立ち現れに到達する、自覚的な天才だ。子どもに戻るのではなく、子どもを超える。大森の重ね描きで言えば、建築(科学的描写)を持ちながら、現象(知覚風景)を生きる。立ち現れの存在論は、天才を、選ばれた例外から、誰の身体にも開かれた可能性へと、解き放つ。天才とは、立ち現れを生きる身体の、別の名である。
志と妥協の存在論 ―― 三つの命題と立ち現れ
宮崎要輔の思想体系の根に、志と妥協をめぐる三つの命題がある。それは、人がいかにして自らの衝動を生き、いかにして社会と折り合うかをめぐる、存在論的な問いだ。この三命題を、立ち現れの存在論から読むと、その深層が見えてくる。志とは、未来に置かれた理想像――表象だ。妥協とは、その表象と現実との折り合いだ。だが、衝動は、志(表象)の手前にある。衝動は、立ち現れる。志は、その後で構築される。
ここに、衝動と探求の転倒が関わる。ふつう、人は、まず目標(志・探求)を立て、それに向かって進むと考える。だが、宮崎要輔は、この順序を転倒させる。衝動が先、探求は後。身体が先、言語が後。立ち現れが先、表象が後。鳩尾から湧く衝動が、現に立ち現れる。探求(志・目標・言語)は、その立ち現れた衝動を、後から追いかけ、形にする。志を先に立てて衝動を従わせるのは、表象で立ち現れを覆う、近代の倒錯だ。
では、妥協とは何か。それは、立ち現れた衝動を、社会という表象の体制の中で、どう生かすかの問題だ。衝動をそのまま貫けば、社会と衝突する。社会に合わせれば、衝動が殺される。大森の重ね描きが、ここで効く。衝動の立ち現れと、社会の表象は、対立する二者ではなく、重ね描きされるべきものだ。立ち現れた衝動を殺さずに、社会という密画の上に、重ねて生かす。インストラクター制度や社会デザインは、この重ね描きの実践だ。制度(表象)が衝動(立ち現れ)を飲み込むのではなく、制度が衝動の立ち現れる場を支える。志と妥協の存在論は、立ち現れ(衝動)と表象(志・社会)を、対立ではなく重ね描きとして生きる道を、探っている。大森荘蔵の存在論は、この最も根源的な、生き方の問いにまで、届いている。
ブルデュー批判の詳論 ―― 蓄積する資本と、立ち現れる資本
転移する文化資本は、ブルデューの文化資本論の、根本的な書き直しである。その書き直しの核心に、大森の立ち現れがある。ブルデューにとって、文化資本は蓄積される。学歴、教養、振る舞い――これらは、個人の身体や制度に蓄積され、世代を超えて再生産される。文化資本は、所有され、蓄積され、相続される財だ。これは、大森の言葉で言えば、表象として蓄積される資本である。
宮崎要輔は、ブルデューが見なかった、もう一つの資本の様態を見る。転移する文化資本は、蓄積されない。それは、身体から身体へ、立ち現れる。利休の茶が四百年後の茶人に立ち現れるとき、それは利休から蓄積され相続されたのではない。媒体を通じて、今ここに立ち現れる。蓄積する文化資本がミラーニューロン(表象)に基盤を持つように、転移する文化資本は、立ち現れに基盤を持つ。一方は所有され蓄積され、他方は所有できず、そのつど立ち現れる。
ここで重要なのは、大森の重ね描きによって、これがブルデューの否定ではなく拡張になることだ。同じ文化現象を、蓄積の語彙で描けば蓄積する文化資本になり、転移の語彙で描けば転移する文化資本になる。二つは、同じ世界の二つの描き方だ。ブルデューは、文化資本の蓄積される面を、精密に描いた。宮崎要輔は、その上に、立ち現れて転移する面を、重ねて描く。これにより、文化資本論は、再生産の理論であると同時に、立ち現れの理論にもなる。蓄積は不平等を再生産するが、立ち現れは、その再生産を超える。わが子への愛(蓄積・相続)が、子どもたちへの愛(転移・立ち現れ)へと拡がるとき、文化資本は、相続される財から、立ち現れる現前へと、その性質を変える。大森の立ち現れ一元論は、社会学の最も影響力ある理論の一つを、書き直す力を持っている。この書き直しの全貌は転移する文化資本図鑑で。
リズムと音楽 ―― 立ち現れが、時間の中で踊る
立ち現れは、空間に現れるだけでなく、時間の中でリズムとして現れる。音楽は、その最も純粋な形だ。リズムを聞くとき、私たちは、個々の音を点として聞いているのではない。拍が、現に立ち現れ、次の拍が予感され、全体が一つの流れとして立ち現れる。リズムは、ベルクソンの純粋持続(流れる時間)と、フッサールの内的時間意識(今の幅)と、大森の立ち現れ(今ここの現前)が、一つになる場だ。
そして、リズムは、身体に直接立ち現れる。音楽を聞くと、身体が動きたくなる。これは、表象を経由しない。リズムが、身体に立ち現れ、身体が中動態的に応答する。「私が拍に合わせて動こう」と考えるのではない。拍が立ち現れ、身体が乗る。ダンカンが音楽に合わせて踊ったのも、リズムの立ち現れに、鳩尾から応答したからだ。リズムへの身体の応答は、立ち現れへの最も原初的な、最も普遍的な応答である。
身体運動は、すべてリズムを持つ。歩行のリズム、走行のリズム、呼吸のリズム。優れた動きは、機械的な反復ではなく、生きたリズム――序破急の質的な変化を持つリズム――として立ち現れる。一本歯下駄GETTAの上で、身体は、固定された姿勢の連続ではなく、揺らぎと回復のリズムを生きる。足裏に立ち現れる揺らぎに、身体がリズムとして応答する。これは、確率共鳴のノイズが、身体のリズムへと組織化される過程でもある。リズムは、立ち現れが時間の中で踊る姿だ。そして、複数の身体が同じリズムに乗るとき、カオス共鳴が起こり、場全体が一つの生き物のように同期する。音楽が演奏者たちのあいだに立ち現れるように、運動の場が、参加する身体たちのあいだに、一つのリズムとして立ち現れる。リズムは、立ち現れと転移とカオス共鳴が、時間の中で一つになる、その現れである。
言語習得と立ち現れ ―― 子どもは、どう言葉を覚えるか
子どもの言語習得は、立ち現れと言葉の関係を、最も生き生きと示す。子どもは、文法規則を教わってから話すのではない。辞書で単語の意味を調べてから使うのでもない。言葉が、状況とともに、現に立ち現れる。母親が「わんわん」と言いながら犬を指す。犬の立ち現れと「わんわん」という音が、重なって、一つの出来事として子どもに現れる。言葉と立ち現れが、分かれる手前で、一体になっている。
これは、大森の言葉と知覚の重ね描きの、発生の現場だ。子どもにとって、最初の言葉は、対象を指す抽象的な記号(表象)ではない。それは、立ち現れに貼りついた、立ち現れの一部としての音だ。オノマトペが言語習得の初期に多いのは、このためだ。「ぶーぶー」「にゃーにゃー」――これらは、立ち現れにぴったり貼りついた、ほとんど粗画と一体の言葉だ。子どもは、立ち現れから言葉を獲得し、やがて、立ち現れから少しずつ離れた、抽象的な記号(表象)の体系へと進んでいく。
そして、ここに、近代教育への示唆がある。言語を、立ち現れから切り離された記号の体系として教えると、言葉は死んだ表象になる。文法と単語を、立ち現れなしに暗記する。本来、言葉は立ち現れとともに生まれた。立ち現れから切り離された言葉は、力を失う。身体の指導でも同じだ。「正しいフォーム」という言語的な指示(立ち現れから切り離された表象)は、身体に届かない。オノマトペのように、立ち現れに貼りついた言葉――「ぐっと」「ふわっと」――が、身体に直接届く。言語習得の現場は、言葉が立ち現れから生まれることを示し、その起源を忘れた言葉が、いかに力を失うかを、逆照射している。子どもが言葉を覚える姿は、立ち現れと言葉が一つだった、その始まりの記憶である。
触覚と皮膚感覚 ―― 触れることは、触れられること
触覚は、立ち現れの相互性を、最も明確に示す感覚だ。何かに触れるとき、私は同時に、触れられている。手で机に触れると、机の固さが手に立ち現れると同時に、机に触れている自分の手の感覚も立ち現れる。触れることと触れられることは、分けられない。これは、主客が分かれる手前の、立ち現れの相互性を、皮膚において直接に経験させる。メルロ=ポンティが、右手で左手に触れる経験を、身体の二重性の例として論じたのも、この相互性ゆえだった。
大森の立ち現れ一元論にとって、触覚は格好の例だ。視覚では、見る私と見られる対象の分離が、まだ残りやすい。だが触覚では、その分離が崩れる。触れる手と触れられる物が、一つの立ち現れの中で、分かちがたく結びついている。足裏が地面に触れるとき、地面の固さが足裏に立ち現れると同時に、地面に触れている足裏が立ち現れる。主客未分の立ち現れが、皮膚という境界で、最も具体的に起こる。
一本歯下駄GETTAが足裏に与えるのは、この触覚の立ち現れの、極限の濃縮だ。一本の歯に荷重が集中することで、足裏と地面の接触が、一点に絞られ、その一点の触覚が、鋭く立ち現れる。足裏が地面に触れ、地面が足裏に触れる――その相互性の立ち現れが、最大化される。そして、指導における「手当て」――手で触れて導くこと――も、この触覚の相互性に根ざす。指導者が選手に触れるとき、それは一方的な働きかけではない。触れることが触れられることである、その相互の立ち現れの中で、衝動が転移する。触覚は、立ち現れの相互性が、皮膚において直接に経験される場であり、足裏と手のひらにおいて、立ち現れの存在論が、最も具体的に現実になる場である。
記憶の神経科学と立ち現れ ―― 想起は、再生ではなく再構成である
大森の「過去は想起として今ここに立ち現れる」という時間論は、現代の記憶研究と、意外な一致を見せる。かつて記憶は、過去の経験が脳に保存され、それを再生するものだと考えられていた。ビデオの録画と再生のように。だが、現代の神経科学が明らかにしたのは、記憶が再生ではなく、そのつどの再構成だということだ。想起のたびに、記憶は作り直される。固定された過去のファイルを再生するのではない。
これは、大森の立ち現れと、驚くほど近い。過去は、どこかに保存されたまま再生されるのではない。想起のたびに、今ここで、新しく立ち現れる。神経科学が「再構成」と呼ぶものは、大森が「想起としての立ち現れ」と呼んだものと、同じ事態を、異なる言葉で記述している。記憶は、過去という場所にあるのではなく、現在における立ち現れの一様態だ。半世紀前に大森が存在論として示したことを、神経科学が実証データとして裏づけている。
この一致は、文化身体論にとって深い意味を持つ。転移する文化資本において、過去の達人が今ここに立ち現れることは、記憶の再生ではなく、再構成だ。利休が四百年後の茶人に立ち現れるとき、それは利休の固定された記録の再生ではない。今ここで、新しく立ち現れる。そして、毎週同じ場所に通うことで深まるのも、蓄積された記憶の量ではない。立ち現れの再構成が起こる、その身体の開き方だ。記憶の神経科学は、大森の時間論を裏づけることで、文化の伝承が、過去の再生ではなく、現在における立ち現れの再構成であることを、科学の側から支える。過去は、流れ去って保存されたのではない。そのつど、今ここに、新しく立ち現れている。
群れとカオス共鳴 ―― フィールドが、一つの生き物になる
立ち現れと転移は、個人の身体を超えて、群れの現象へと拡張する。鳥の群れが、一糸乱れぬ動きで空を舞う。魚の群れが、一つの生き物のように方向を変える。これらは、中央の指揮者がいるのではない。各個体が、周囲の個体に立ち現れる動きに、即座に応答する。その応答の連鎖が、群れ全体を一つの動きとして立ち現れさせる。誰も全体を制御していないのに、全体が一つになる。
これが、カオス共鳴の構造だ。基準信号を持つ身体が複数集まると、各身体が互いの立ち現れに応答し合い、フィールド全体が一つの生き物のように同期する。サッカーのチームが最高の状態にあるとき、選手たちは、いちいち考えて連携しているのではない。互いの動きが立ち現れ、それに即応する連鎖の中で、チーム全体が一つの生き物として動く。これは、ジャズの即興が演奏者たちのあいだに音楽を立ち現れさせるのと、同じ構造だ。個の表象的な判断の集合ではなく、立ち現れの共鳴場。
宮崎要輔が率いる二百三十人を超えるインストラクターのネットワークは、この群れの構造を、文化の伝承へと組織する試みだ。各地のインストラクターが、立ち現れに開かれた身体を持ち、互いの立ち現れに応答し合う。ネットワーク全体が、一つの立ち現れの共鳴場になる。一人の鳩尾の立ち現れが、共鳴場を通じて、他の身体に立ち現れる。これは、中央が統制する組織(表象による管理)ではない。立ち現れが共鳴し合う群れ(立ち現れによる同期)だ。大森の立ち現れ一元論と、カオス共鳴の物理が、社会のネットワークの設計において、一つになる。フィールドが一つの生き物になるとき、立ち現れは、個の経験から、群れの出来事へと、そのスケールを拡げる。
一匹の犬が教えたこと ―― 立ち現れに、生きる存在
立ち現れという抽象的な概念の、最も具体的な教師は、一匹の犬だったかもしれない。宮崎要輔の思想体系の根に、ラッキーという名の、愛する犬の存在がある。犬は、表象を持たない。あるいは、人間ほど分厚い表象の被覆を持たない。犬は、立ち現れに、まっすぐ生きている。目の前に立ち現れたものに、即座に応答する。過去の後悔も、未来の不安も、表象として抱え込まない。今ここに立ち現れているものが、すべてだ。
犬の身体は、五歳の子どもの身体性と、深く通じる。神経のループが開いていて、立ち現れと応答が、表象という媒介を最小限にして、直接につながっている。犬が走る姿は、美しい。それは「正しい走り方」という志を持っているからではない。立ち現れに、身体がそのまま応答しているからだ。志のない美しさ、立ち現れだけの美しさ。犬の存在は、人間が表象の被覆の下に失ってしまった、立ち現れへの開かれを、絶えず思い出させる。
そして、一匹の犬との関係は、立ち現れの相互性を、最も純粋に教える。犬と人のあいだに、言葉(表象)はほとんど介在しない。立ち現れが、あいだに、直接に通う。犬の喜びが、人に立ち現れる。人の気持ちが、犬に立ち現れる。これは、転移する文化資本の、最も根源的な形かもしれない。蓄積でも所有でもなく、立ち現れとして、あいだに通うもの。木村敏の「あいだ」が、犬と人のあいだに、最も純粋に成立する。抽象的な哲学概念としての立ち現れは、結局、こうした具体的な存在との関わりの中で、現に生きられている。立ち現れは、書物の中にあるのではない。一匹の犬の走る姿の中に、その喜びの中に、現に立ち現れている。最も深い思想は、最も具体的な愛の中から、立ち現れてくる。
場所論と空間 ―― 立ち現れは、どこで起こるか
立ち現れは、どこで起こるのか。この問いは、四人の巨人の布置における大森の位置――「空間と現れ」――の核心に触れる。立ち現れは、抽象的な意識の中で起こるのではない。それは、具体的な場所において起こる。足裏が触れる地面、身体が立つ空間、稽古が行われる場。立ち現れには、つねに、それが起こる場所がある。
西田幾多郎の「場所」の哲学が、ここで交わる。西田は、すべての存在が、それを包む「場所」において立ち現れると考えた。図と地のように、立ち現れるもの(図)は、それを包む場所(地)なしには現れない。純粋経験が立ち現れる場所、それが西田の「場所」だ。市川浩の〈身〉が、皮膚を超えて場所と相互浸透するのも、立ち現れが場所において起こるからだ。西田の「場所」、市川の〈身〉、大森の「立ち現れ」――この三つは、立ち現れがどこで起こるかをめぐって、一つの星座を結ぶ。
これが、有情の世界と、村づくりの場の設計へと、つながる。場所は、無味乾燥な空間ではない。陰うつな空、陽気な庭――場所は、情を帯び、質を持って立ち現れる。だから、文化資本は場所に宿る。利休の茶室、世阿弥の舞台、母親が通った園庭。立ち現れが起こる場所そのものが、立ち現れの質を形づくる。一本歯下駄GETTAが取り戻すのは、足裏という場所に起こる立ち現れだ。そして村づくりは、立ち現れが豊かに起こる場所を、空間として設計する試みだ。立ち現れは、どこでもない抽象空間で起こるのではない。足裏で、稽古場で、自然の中で、一つの具体的な場所において、現に起こる。場所論は、立ち現れを、抽象から具体へ、意識から空間へと、引き戻す。立ち現れの存在論は、最終的に、場所の存在論である。三つの哲学の星座は、場所・身・立ち現れの三角形の論考で。
脱近代の転換群 ―― すべては、表象から立ち現れへ
これまで辿ってきた数々の転換を、ここで一つに束ねよう。宮崎要輔の脱近代は、近代が築いた前提を、いくつもの面で転換する。蓄積から転移へ。能動から中動態へ。矯正から湧出へ。大脳から小脳へ。筋優位から腱優位へ。志から美へ。探求から衝動へ。言語から身体へ。表象から立ち現れへ。これらの転換は、ばらばらの主張ではない。すべてが、一つの方向を指している。
その一つの方向とは、世界と身体のあいだに近代が差し込んだ「表象」という媒介を、外すことだ。蓄積される文化資本は、表象として蓄積される。能動的主体は、表象を操作して世界に働きかける。矯正は、表象との差分を修正する。大脳は、運動を表象として制御する。筋肉は、表象された姿勢に身体を固定する。志は、未来の理想像という表象だ。探求は、対象を表象として分析する。言語は、世界を写す表象だ。近代のあらゆる前提の根に、表象がある。
そして、転換した先には、すべて立ち現れがある。転移は、立ち現れる。中動態は、立ち現れの文法だ。湧出は、立ち現れを受け取る。小脳は、立ち現れに即応する。腱は、立ち現れに乗って弾む。美は、立ち現れる。衝動は、立ち現れる。身体は、立ち現れに応答する。近代の前提が表象に集約されるように、脱近代の転換は、すべて立ち現れに集約される。大森荘蔵の立ち現れ一元論は、これらの数々の転換の、ばらばらに見える主張群を貫く、ただ一つの背骨だ。脱近代とは、表象から立ち現れへ、という一つの転換の、無数の現れである。そして、一本歯下駄GETTAは、この転換を、概念としてではなく、足裏から立ち上げる装置だ。哲学が概念で示した転換を、誰の身体にも届く形にする。立ち現れ図鑑が描いてきたすべては、結局、この一つのこと――表象を外し、立ち現れに返ること――に、収斂する。複数の領域、複数の概念、複数の身体にまたがって、同じ一つのことが繰り返し立ち現れる。その収束こそ、これが本質を捉えている、何よりの証拠である。
「間」と立ち現れ ―― 何もない、その充実
日本の身体感覚に、「間(ま)」という、翻訳しがたい概念がある。間とは、単なる空白や休止ではない。それは、何もないことの充実であり、立ち現れが起こる、その余白だ。能の所作の間、武道の間合い、会話の間、音楽の間――間は、満たされた不在である。間とは、立ち現れが起こるために、表象で塞がれていない、開かれた余白だ。
大森の「ない」の存在論が、ここで効く。間は、無ではない。それは、積極的な立ち現れだ。能楽師が動きを止める間に、何も立ち現れていないのではない。その静止の中に、次の動きが立ち現れようとする、満ちた気配がある。世阿弥が序破急とともに重んじた間は、立ち現れの呼吸の、転換点だ。間がなければ、立ち現れは起こらない。間とは、表象で埋め尽くさないでおく、立ち現れのための余白である。
これは、湧出を待つ指導の核心と、一つになる。矯正する指導者は、間を埋める。選手の動きの隙間を、「次はこうしろ」という指示(表象)で埋め尽くす。立ち現れの余白がない。湧かせる指導者は、間を残す。選手の身体に次の動きが立ち現れる、その余白を、表象で塞がないでおく。「待つ」とは、間を残すことだ。そして、一本歯下駄GETTAの上の、不安定の中の一瞬の静止――揺らぎと回復のあいだの間――に、立ち現れが宿る。間は、日本の身体文化が洗練させてきた、立ち現れのための装置だ。何もないその余白こそ、最も充実している。立ち現れの存在論は、この「間」の充実を、存在論的に基礎づける。何もないことが、なぜ満ちているのか――それは、間が、立ち現れの起こる場所だからである。
「気」と立ち現れ ―― 身体を超えて、あいだに通うもの
日本や東アジアの身体観に、「気(き)」という、これもまた翻訳しがたい概念がある。気は、物質でも精神でもない。それは、身体の内に満ち、身体を超えて流れ、人と人、人と場のあいだに通うものだ。「気が合う」「気配を感じる」「気が満ちる」――気は、近代の物心二元論では捉えられない、第三のものとして、日常の言葉に生きている。気は、主客が分かれる手前の、立ち現れの相において、流れるものだ。
大森の立ち現れ一元論は、この気の概念に、存在論的な居場所を与える。気は、私の内面の状態(主観)でも、外界の物理的な何か(客観)でもない。それは、私と世界が分かれる手前の、立ち現れそのものの相だ。「場の気配」を感じるとき、その気配は、私の主観的な投影でも、測定可能な物理量でもない。有情の世界――場所が情を帯びて立ち現れる――その立ち現れの質として、気は現に感じられる。市川浩の〈身〉が皮膚を超えて場と相互浸透するのも、気が身体を超えてあいだに通うからだ。
これが、転移する文化資本と、鳩尾の身体論に、深く結びつく。衝動が指導者から選手へ転移するとき、あいだに通うものを、伝統的な身体観は「気」と呼んできた。鳩尾――衝動の座――は、気が満ち、気が発せられる中心でもある。気が通う、気が満ちる、気が合う――これらは、立ち現れがあいだに通い、共鳴する、その出来事の、日本語による記述だ。カオス共鳴で場全体が一つの生き物になることを、伝統は「場の気が一つになる」と言ってきた。気という概念を、神秘化するのでも、非科学的として退けるのでもなく、立ち現れの存在論の中に位置づけ直すこと。それは、東アジアの身体観が蓄えてきた立ち現れの叡智を、現代の言葉で生かし直すことだ。気とは、立ち現れが、身体を超えて、あいだに通い、共鳴する、その相の名である。
遊びと立ち現れ ―― ホモ・ルーデンスの身体
ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』で、人間を「遊ぶ者」として捉え、遊びが文化の根源にあると論じた。遊びは、何かの手段ではない。それ自体が目的だ。遊びには、目標(志・表象)への奉仕がない。遊びは、立ち現れに、それ自体として没入することだ。子どもが夢中で遊ぶとき、その遊びは、何かのためではない。今ここに立ち現れているものへの、純粋な応答だ。
これが、五歳の身体性と、深く結びつく。子どもの遊びは、すべて即興であり、すべて立ち現れへの応答だ。五歳の身体性とは、遊ぶ身体――立ち現れに、表象を経由せず、それ自体として没入する身体――にほかならない。遊びにおいて、志(未来の目標)は消え、美(今の立ち現れ)だけがある。子どもが走り回る姿が美しいのは、それが遊びだからだ。何かのためではなく、立ち現れに、ただ応答している。
そして、近代は、この遊びを、手段へと変えてしまう。スポーツは、勝つための手段になり、トレーニングは、目標達成の手段になる。遊びが、志(表象)に従属する。遊びの本質――立ち現れへの、それ自体としての没入――が、失われる。一本歯下駄GETTAが取り戻そうとするのは、この遊ぶ身体だ。「正しいフォーム」という目標(表象)のために身体を作り込むのではなく、足裏に立ち現れる揺らぎと、遊ぶように戯れる。最も創造的な動きは、目標への奉仕からではなく、立ち現れとの遊びの中から生まれる。ホイジンガのホモ・ルーデンスは、立ち現れに没入する身体の、文化人類学的な名だ。遊びとは、表象から自由になって、立ち現れそのものを生きることである。そして、文化の根源に遊びがあるなら、転移する文化資本もまた、遊びの中で――立ち現れへの共同の没入の中で――最も豊かに伝わっていく。
原風景と自然観 ―― 立ち現れた世界の、記憶
多くの人が、心の奥に「原風景」を持っている。幼い頃に過ごした、ある土地の風景。それは、写真のような客観的な記録ではない。光の質、空気の匂い、土の感触――身体全体で立ち現れた、一つの世界だ。原風景は、表象された情報ではなく、身体に立ち現れた世界の、生きた記憶である。そして、大森の時間論によれば、その原風景は、過去に保存されているのではなく、想起のたびに、今ここに立ち現れる。
日本の伝統的な自然観は、自然を、人間と対立する客体(征服や利用の対象)としてではなく、人間がその中に住み込み、ともに立ち現れるものとして捉えてきた。山が、川が、季節が、情を帯びて立ち現れる。有情の世界――陰うつな空、陽気な庭――という大森の存在論は、この日本の自然観の、哲学的な定式化でもある。世界は、無感情な物質ではなく、情を帯びて立ち現れる。自然の中に身を置くことは、この有情の世界の立ち現れに、身体を開くことだ。
これが、村づくりと野遊びの、最も深い意味だ。転移する文化資本は、わが子への愛から子どもたちへの愛へと拡がる。だが、その源には、ある場所、ある風景、ある自然の中で立ち現れた、原初の経験がある。立ち現れた世界の記憶が、人を形づくり、その人を通じて、次の世代へと立ち現れていく。掛川の自然の中に村をつくることは、子どもたちの身体に、立ち現れた世界の記憶――原風景――を刻む試みだ。舗装され、均され、表象に覆われた近代の環境ではなく、足裏に、肌に、鼻に、世界が豊かに立ち現れる場所。そこで過ごした経験は、生涯にわたって、その人の中に立ち現れ続ける。立ち現れの存在論は、最終的に、人がどんな世界の中で身体を開き、どんな風景を心の奥に立ち現れさせて生きるか、という問いへと至る。立ち現れた世界の記憶こそ、人が次の世代へと手渡す、最も深い文化資本である。立ち現れを生きることは、世界を、表象としてではなく、現れるままに、情を帯びたままに、受け取って生きることだ。
味覚と立ち現れ ―― 味は、舌にあるのか
色やクオリアをめぐって見た問いを、味覚へと拡げよう。一口の料理の「美味しさ」は、どこにあるのか。近代科学が言うには、舌にあるのは味物質を検出する受容体であり、外界にあるのは化学物質だけだ。美味しさは、脳が化学信号を処理して作り出した、主観的なクオリアにすぎない――そう言われる。美味しさは、私の内面にあり、料理の側にはない、と。
大森の立ち現れは、ここでも常識を裏返す。美味しさは、料理の側に立ち現れている。美味しさは、脳内の主観的なクオリアではない。この一口が、現に美味しく立ち現れている。化学物質という記述は、その美味しい一口を「より精しく」描いた密画だ。密画(化学物質)が本物で、粗画(美味しさ)が脳内の仮象なのではない。陰うつさが空の側にあり、赤さが夕陽の側にあるように、美味しさは、料理の側に立ち現れている。有情の世界は、味の世界にも及ぶ。世界は、味わい深く、情を帯びて立ち現れる。
そして、味覚は、立ち現れの相互浸透を、食という最も日常的な行為で示す。食べることは、世界を身体に取り込むことだ。外界が、文字どおり身体の内へと入り、味として立ち現れ、いのちになる。三木成夫が、いのちの根源を内臓系のリズム――食と性――に見たことが、ここで重なる。味覚は、体壁系の感覚(視覚・聴覚)よりも、内臓系のいのちに近い、深い立ち現れだ。食卓を囲むこと、共に食べることが、文化の伝承の最も原初的な場であるのも、味覚という立ち現れが、いのちのレベルで、あいだに通うからだ。母の味が、子の身体に立ち現れ、生涯にわたって立ち現れ続ける。味覚は、立ち現れが、料理の側にあり、いのちのレベルで身体に取り込まれ、文化として世代を超えて立ち現れる――その全体を、一口の中に示している。クオリアを脳から解き放つ大森の存在論は、食という、最も身近ないとなみの豊かさを、取り戻す。
老いと生涯発達 ―― 立ち現れの感度は、取り戻し続けられる
立ち現れの感度は、生涯にわたって、どう変化するのか。子どもの身体は、立ち現れに直接応答していた。五歳の身体性――神経のループが開き、表象の被覆が薄い状態だ。成長とともに、表象が分厚くなり、二十八歳前後に身体の転換点が訪れる。では、その先、老いていく身体において、立ち現れは失われていく一方なのか。
そうではない。神経可塑性は、生涯にわたって失われない。適切な刺激があれば、閉じたループは、何歳でも開き直す。老いは、立ち現れの感度の、不可逆な低下ではない。むしろ、長い人生の中で蓄えられた沈殿――言語化されず、身体の底に沈んだ無数の経験――が、今この瞬間の知覚に重なって、若い身体には不可能な、深い重ね描きを可能にする。達人が老いてなお、いや、老いてこそ到達する境地は、この沈殿と立ち現れの、円熟した重ね描きだ。
これが、一本歯下駄GETTAが、子どもからお年寄りまでを対象にする、その存在論的な理由だ。立ち現れの感度は、年齢に関わらず、取り戻し続けられる。確率共鳴が、年齢に関わらず、閾値の下に沈んだ身体の信号を立ち現れさせる。不安定が、自動化された表象の制御を断ち切り、立ち現れへの直接の応答を呼び覚ます。老いた身体が、表象の被覆を緩め、もう一度立ち現れに開かれる。それは、若さへの退行ではない。長い人生の沈殿を抱えたまま、立ち現れに開かれ直す、円熟した回復だ。生涯発達という視点に立てば、人生とは、表象を蓄積し続ける過程ではない。表象を一度くぐり抜けながら、何度でも立ち現れへ立ち返り続ける、その往復の過程だ。大森荘蔵が、物理学者から哲学者へ転じ、生涯をかけて立ち現れを問い続け、晩年に『時は流れず』という到達点に至ったように。立ち現れを生きることは、生涯にわたる、終わりなき回復の道である。そしてその道は、足裏から、今日、誰にでも、始められる。
祈りと立ち現れ ―― ダンカンの踊りは、祈りだった
イサドラ・ダンカンは、自らの踊りを「祈り」と呼んだ。これは、特定の宗教への信仰告白ではない。彼女の言う祈りとは、自分を超えたものへと、身体を開くことだ。パルテノンの前で腕がおのずと上がったとき、それは、二千四百年前のギリシア人の鳩尾から湧いたものへと、身体が開かれ、応答した瞬間だった。祈りとは、能動的に何かを願うことではない。自分を超えて立ち現れるものへと、身体を明け渡し、それに応答することだ。
大森の立ち現れの中動態性が、この祈りの構造を照らす。祈りにおいて、「私が祈る」という能動の主体は、後退する。自分を超えたものが立ち現れ、それに身体が応答する――その中動態の出来事が、祈りだ。ここで慎重でなければならない。この祈りを「宗教的直観」として神秘化した瞬間、検証可能性の問題が立ちはだかる。だが、ダンカンの祈りは、坐禅堂や聖堂の中の特別な体験ではない。それは、立ち現れに身体を開く、誰の身体にも起こりうる、ありふれた、しかし深い出来事だ。
この祈りとしての身体は、矯正と湧出の対立の、最も深い相を示す。矯正する身体は、能動の主体だ。「正しいフォーム」という表象に、意志で身体を従わせる。そこに、自分を超えたものへの開きはない。湧出を待つ身体は、祈る身体だ。自分の表象を手放し、立ち現れるものへと身体を開く。一本歯下駄GETTAの上で、踏ん張る意志(能動)を手放し、立ち現れに身体を委ねるとき、その姿は、ダンカンの祈りに近づく。最も深い動きは、意志の制御からではなく、自分を超えたものへ身体を開く、祈りのような明け渡しから立ち現れる。立ち現れの存在論は、身体の祈り――宗教ではなく、立ち現れへの開かれとしての祈り――を、その射程の最も遠いところに含んでいる。
手仕事と職人 ―― 道具が、身体に立ち現れる
職人の手仕事は、立ち現れと道具の関係を、最も成熟した形で示す。熟練した職人にとって、道具は、手に握られた外部の対象ではない。道具は、身体の延長として、手の一部として立ち現れている。大工の手のカンナ、料理人の手の包丁、陶工の手の轆轤――これらは、操作される客体ではなく、身体と一体になって、素材の立ち現れに応答する。メルロ=ポンティの身体図式の拡張が、職人の手において、最も精緻に現れる。
そして、職人は、素材の立ち現れを読む。木目が、土の湿り具合が、刃の入り方が、手に立ち現れる。職人は、素材を「正しい手順」という表象に従って加工するのではない。刻々と立ち現れる素材の状態に、手が即応する。これは、達人の身体――表象を経由せず、立ち現れに即応する身体――の、手仕事における姿だ。ポランニーの暗黙知が、職人の手に宿る。語れないが、現に働く知。立ち現れる暗黙知。
これが、一本歯下駄GETTAという道具の、二重の意味を照らす。GETTAは、職人が手仕事で作る道具だ。合同会社GETTAプランニングのものづくりの中に、素材の立ち現れに応答する職人の手がある。同時に、GETTAは、それを履く者の身体に、道具として立ち現れる。一本歯下駄が足裏の延長として立ち現れたとき、履く者は、地面の立ち現れを、より鋭く読めるようになる。道具を作る職人の手も、道具を履く者の足裏も、ともに、立ち現れに即応する身体だ。手仕事の伝統は、立ち現れと道具と身体が一つになる叡智を、何百年も蓄えてきた。GETTAは、その手仕事の伝統の中から生まれ、立ち現れの感度を高める道具として、誰の足裏にも届けられる。職人が作る一本歯下駄GETTAは公式ショップで。
病と治癒 ―― 身体は、立ち現れとして回復する
病と治癒の経験も、立ち現れの存在論の中で、新しく捉え直せる。近代医学は、病を、身体という機械の故障として捉える。部位を特定し、原因を除去し、機能を修復する。これは、身体を部分に分割し、表象(検査値・画像)として扱う、有情なき世界の医学だ。だが、病んでいる当人に立ち現れているのは、検査値ではない。だるさ、痛み、重さ――身体全体の、一つの立ち現れだ。
大森の立ち現れ一元論と有情の世界は、病の経験に、その当人の現実を返す。痛みは、脳内の表象ではなく、現にその部位に立ち現けている。だるさは、測定値ではなく、身体全体の質として立ち現れている。病とは、身体の立ち現れの質が、変わることだ。そして治癒とは、その立ち現れの質が、回復していくことだ。これは、機械の修復とは異なる。部品を交換するのではなく、身体全体の立ち現れが、別の質へと組み替わっていく過程である。
ここに、矯正ではなく湧出という思想の、医療的な含意がある。身体を表象(検査値・正常範囲)に合わせ込む医療は、矯正の医療だ。一方、身体が本来持つ、立ち現れとして回復する力を引き出す医療は、湧出の医療だ。治癒は、外から正しい状態を当てはめることではなく、身体の中から、健やかな立ち現れが回復するのを支えることだ。一本歯下駄GETTAが、咬合や姿勢を含む全身の連関に働きかけ、部分の矯正ではなく全身の立ち現れの組み替えを促すのは、この湧出の発想に根ざしている。身体は、部分の集合ではなく、一つの立ち現れだ。だから、回復もまた、部分の修理ではなく、全身の立ち現れの質の、回復として起こる。立ち現れの存在論は、病と治癒を、機械の故障と修理から、立ち現れの質の変容と回復へと、捉え直す視座を与える。
祭りと集合的身体 ―― 立ち現れが、共同体に満ちる
祭りは、立ち現れとカオス共鳴が、共同体の規模で起こる、文化的な装置だ。祭りにおいて、人々の身体は、同じリズム、同じ熱気の中で、一つに同期する。神輿を担ぐ身体、踊りの輪、太鼓の響き――個々の身体が、互いの立ち現れに応答し合い、共同体全体が、一つの生き物のように立ち現れる。これは、鳥の群れや魚の群れと同じ、カオス共鳴の構造が、人間の共同体において、祭りという形で現れたものだ。
祭りの熱狂の中で、能動的な個の主体は、後退する。「私が踊る」のではなく、踊りが、場全体に立ち現れ、その立ち現れに各々の身体が応答する。中動態の身体が、共同体の規模で現れる。そして、祭りの場には、気が満ちる。場の気が一つになる、と伝統は言う。これは、有情の世界――場所が情を帯びて立ち現れる――が、共同体の集合的な熱気として、最も濃密に現れた状態だ。
これが、宮崎要輔の社会デザインと、村づくりの、最も深い射程を示す。二百三十人を超えるインストラクターのネットワークが立ち現れの共鳴場になること、掛川の村が立ち現れの場として設計されること――これらは、現代における、祭りの再発明とも言える。近代が、共同体を解体し、個を表象的な主体として孤立させたのに対し、立ち現れの共鳴場は、個を再び、共同の立ち現れの中へと開く。祭りが、共同体に立ち現れを満たしてきたように、立ち現れの場の設計は、現代の解体された共同体に、もう一度、共同の立ち現れを取り戻す試みだ。立ち現れは、個の経験から、群れの同期へ、そして共同体の祭りへと、そのスケールを拡げていく。大森荘蔵の立ち現れ一元論は、個人の知覚論として始まりながら、最終的に、共同体がいかにして一つの立ち現れを生きるか、という社会の根源的な問いにまで、その射程を延ばしている。一本歯下駄GETTAから始まる身体の変容は、一人の足裏から、共同体の祭りへと、立ち現れの輪を広げていく。その実践の入口は、pipotore.comに。
よくある問い ―― 立ち現れをめぐって
立ち現れとは、簡単に言うと何ですか?
立ち現れ一元論は、心身二元論とどう違うのですか?
重ね描きとは何ですか。科学は否定されるのですか?
「時は流れず」とは、時間がないという意味ですか?
立ち現れは、身体でどう実感できますか?
大森荘蔵の著作は、どれから読めばいいですか?
一次資料・学術リファレンス
大森荘蔵の主著
- 大森荘蔵『言語・知覚・世界』岩波書店、1971 ―― 言語と知覚と世界の関係を問う初期の主著。
- 大森荘蔵『物と心』東京大学出版会、1976 ―― 立ち現れ一元論と重ね描きの中核。
- 大森荘蔵『流れとよどみ――哲学断章』産業図書、1981 ―― 平明な断章。「思い出の中に今彼自身が居る」を含む。
- 大森荘蔵『新視覚新論』東京大学出版会、1982 ―― 知覚と立ち現れの徹底的な再考。
- 大森荘蔵『時間と自我』青土社、1992 ―― 時間論と自我論の展開。
- 大森荘蔵『時は流れず』青土社、1996 ―― 無時間論の到達点。晩年の主著。
- 大森荘蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫 ―― 有情の世界・科学と知覚風景の関係。
- 『大森荘蔵著作集』全10巻、岩波書店、1998-1999 ―― 全業績の集成。
並走する思想・研究
- 西田幾多郎『善の研究』1911 ―― 純粋経験。立ち現れと並走する主客未分の哲学。西田幾多郎図鑑。
- アンリ・ベルクソン『時間と自由』『物質と記憶』 ―― 純粋持続。流れる時間の哲学。ベルクソン図鑑。
- 市川浩『精神としての身体』1975 ―― 〈身〉・間身体性。立ち現れと身体論の接続点。
- 木村敏『時間と自己』ほか ―― あいだ・時間と自己。木村敏図鑑。
- 國分功一郎『中動態の世界』 ―― 立ち現れの文法としての中動態。内受容感覚・中動態。
本図鑑と接続する getta.jp 内の論考
- 大森荘蔵図鑑 ―― 立ち現れを生んだ哲学者の全体像。
- 「場所」と「〈身〉」と「立ち現れ」 ―― 西田・市川・大森を一つの星座として。
- 純粋持続図鑑 ―― 流れる時間と、流れない時間の交差。
- 純粋経験図鑑 ―― 主客未分の、もう一つの記述。
- 転移する文化資本図鑑 ―― 立ち現れとして転移する資本。
思想図鑑シリーズ ―― 概念から、身体へ
立ち現れは、孤立した概念ではない。純粋持続・純粋経験と並走し、転移する文化資本・中動態・鳩尾へとつながる、一つの思想体系の結び目である。そして、すべての概念は最終的に一本歯下駄GETTAの上で、足裏に、鳩尾に、現に起こる経験へと収束する。
Related Concept Encyclopedia ・ 概念図鑑
潜在性図鑑
ドゥルーズの潜在的なもの・差異と反復・現働化・器官なき身体・脱領土化
大森の立ち現れ(現れ)と、ドゥルーズの潜在性(経路)。表象批判の二つの道が、四人の巨人の布置で交わる。
現れの隣にある、潜在性の経路を読む →一次資料・学術データベース ―― 出典で確かめる立ち現れ
立ち現れ・重ね描き・時は流れず・表象批判の典拠を、本人の原典と公的学術データベース(権威事典・書誌・図書館)で確かめるための一覧である。各書誌は国立国会図書館・CiNii・コトバンク(日本大百科全書ほか)と照合済みで、全リンクのHTTP応答(200)を実測している。
権威事典・学術データベース
- コトバンク「大森荘蔵」 ―― 日本大百科全書・デジタル大辞泉・20世紀日本人名事典を横断する事典項目。生没年(1921–1997)・経歴・「ことだま論」(1973)以後の立ち現れ一元論を確認できる。
- J-STAGE『哲学』第23号(1973) 大森荘蔵『言語・知覚・世界』 ―― 日本哲学会の学術誌に収録された一次文献。立ち現れ一元論へ向かう初期主著をめぐる学術記録。
- CiNii 図書『大森荘蔵著作集』全10巻 ―― 国立情報学研究所の学術書誌データベース。全業績の集成(岩波書店, 1998–1999)の所蔵を横断検索できる。
- CiNii 図書『大森荘蔵セレクション』 ―― 主要論考を精選した編集版の書誌。立ち現れ論への入口として参照される。
- NDLサーチ『大森荘蔵著作集 第5巻』 ―― 国立国会図書館の公式書誌(『流れとよどみ』ほかを収録する巻)。一次資料の正式な書誌情報。
- NDLサーチ『大森荘蔵―哲学の見本』(野矢茂樹) ―― 立ち現れ哲学を批判的に継承した野矢茂樹による評伝(講談社学術文庫)の公式書誌。
大森荘蔵の主著 ―― 出版社公式の書誌
- 岩波書店『大森荘蔵著作集 言語・知覚・世界』 ―― 初期主著(原本1971・岩波書店)を収める著作集巻。知覚の三極構造批判と重ね描きの萌芽。
- 東京大学出版会『新視覚新論』 ―― 視覚と立ち現れを徹底的に描き直した1982年の主著。出版社公式の書誌・内容紹介。
- 青土社『時は流れず』 ―― 無時間論の到達点(1996)。「過去は想起として今ここに立ち現れる」を論じた晩年の主著。
- 筑摩書房『物と心』(ちくま学芸文庫) ―― 立ち現れ一元論と重ね描きの中核(原本1976・東京大学出版会)の文庫版。
- 講談社『再発見 日本の哲学 大森荘蔵――哲学の見本』 ―― 野矢茂樹による大森哲学の見取り図。立ち現れの読み筋を整理した定評ある一冊。
- 版元ドットコム『時は流れず』(ISBN 978-4-7917-5484-7) ―― 流通書誌(青土社, 1996, 229頁)。目次「時は流れず―時間と運動の無縁」ほかを確認できる。
- 版元ドットコム『新視覚新論』(講談社学術文庫, ISBN 978-4-06-524944-4) ―― 2021年の文庫化(野家啓一解説)。一次主著の現行入手版の書誌。
関連図鑑・サイト循環 ―― 立ち現れから、身体へ
立ち現れを、主客未分の現象学(西田・ベルクソン)と、文化身体論(中動態・転移する文化資本)の双方へつなぐための導線である。
思想図鑑シリーズ ―― 概念から身体へ
- 大森荘蔵図鑑 ―― 立ち現れを生んだ哲学者の全体像。本図鑑の人物面を補う。
- 西田幾多郎の純粋経験を読み解く図鑑 ―― 主客未分という、立ち現れと並走するもう一つの記述。
- 純粋経験図鑑 ―― 経験そのものを存在の単位とする系譜の精密図鑑。
- 純粋持続図鑑 ―― 流れる時間(ベルクソン)と、流れない時間(大森)の交差点。
- 内受容感覚・中動態の図鑑で詳しく読む ―― 「私が見る」ではなく「見えている」立ち現れの文法としての中動態。
GETTA思想・サイトネットワーク
- 鍛えるな育てよの思想体系の全体像 ―― 立ち現れ・重ね描き・時は流れずが、文化身体論の中でどう働くか。
- 転移する文化資本図鑑 ―― 蓄積ではなく、立ち現れとして他者へ移る資本の理論。
- 監修者・宮崎要輔について ―― 文化身体論研究者による、哲学史と身体技法の接続。
- pipotore.com(一本歯下駄GETTA総合サイト)で実践を読む ―― 立ち現れの感度を高める身体技法を、現場の言葉で。
本セクションは思想図鑑シリーズの相互参照を目的とする内部・姉妹サイト導線であり、本文の哲学史的記述および既存の参考文献節を補完するものである。
生物物理学者・清水博が〈揺らぎ〉から解き明かす生命と場の論理。散逸構造・確率共鳴・二重存在・生命知・与贈から主要著作7冊までを世界最大規模で詳解する。
大森荘蔵の立ち現れは、身体と世界が未分のまま響き合う身体知の次元を照らす。
この主題は、身体知をめぐる哲学・神経科学・熟達論・文化身体論の全体を束ねる〈身体知図鑑〉の一部です。全40章+補遺で、身体が持つ知の全体像を辿ることができます。
身体知(Embodied Knowledge)→EMBODIED PHILOSOPHY ── 履いた日から、概念は経験になる
立ち現れの実験装置を、足元に。
思想は、履いた日から経験になる。
最初の一足。


