トレーニングにおける中動態

このページでわかること

トレーニングにおける中動態を、6つの観点から解説します。

  • 中動態とは何か
  • 近位と遠位 ── 井上尚弥のパンチに見る中動態
  • 一本歯下駄のシーソートレーニング
  • 中動態が開く世界 ── トレーニングから在り方へ
  • 子どもという実践者 ── 「いつもありがとう、みんなありがとう」
  • 宇多田ヒカルに見る中動態的な在り方

監修:宮崎要輔(合同会社GETTAプランニング代表・一本歯下駄GETTA開発者)

GETTA TRAINING THEORY

トレーニングにおける中動態
── 能動でも受動でもない身体の在り方

すべてのトレーニングに中動態を見出すことが、選手の成長と在り方を変える

トレーニングにおいて最も重要なことは、どのトレーニングであっても中動態を見出せるかにある。

中動態とは何か

中動態について、ここではシンプルに「する」という能動でもなく、「される」という受動でもない「する」と「される」の間であり、その境界が溶け出し続ける動的であり静的な状態をさす。

近位と遠位 ── 井上尚弥のパンチに見る中動態

例えば、井上尚弥選手が右腕でパンチを撃つ時、彼は右腕の力ではパンチを撃たない。

もし彼が右腕の力で右のパンチを撃つものならば、そこには力みが生じ、動きは部位となり、相手にパンチは読まれる。

それを実際に行う場所からその発信源が近位であれば、部位での動きとなり、力みがはじまり、遠位であれば力みが消え、脱力が生まれ、予備動作や工程が省略される。

右腕のパンチを右腕を発信源にするならばそれは、近位であり、「する」という能動態となる。

そうではなく、背骨や鳩尾であったり、左半身の引きなどの遠位の中で、最も無意識の領域へと辿り着くと結果的にそれは中動態となる。

一本歯下駄のシーソートレーニング

一本歯下駄でのトレーニングで重要なトレーニングにシーソートレーニングがある。

このトレーニングは下駄をつま先側、踵側に前後交互にシーソーのように倒していくトレーニングとなっている。

初心者から上級者への変化 初心者は足首や膝でバランスと動きを生み出し、下駄の前後の動きは大きい。この時、意識は足首周辺にある。上級者になると下駄の前後の動きは微細になる。微細になればなるほどお腹や鳩尾の奥底を感じ取るようになる。

声かけの実際 ── 地面を貫くモグラのイメージ

このシーソートレーニングにおいての僕の声かけは、先ずは鳩尾から下駄の歯を地面に圧をかけてもらう。

その後その下駄の歯が地面を貫通してどんどん伸びていき、地面にいるモグラによって動かされて、それによって下駄が前後に動くイメージを持ってもらう。

これはポランニーの「暗黙知の近位項・遠位項」であり身体感覚の二重構造の身体の外の触覚より先の身体感覚でもある。モースが杖で論じ、市川浩がメスやナイフで論じた概念もここにある。

身体の奥へ ── エレベーターのイメージ

モグラによって動かされているをイメージできたら次は自身の身体の奥の感覚へと移行する。

例えば、お腹の中に左右それぞれエレベーターがあり、右のお腹のエレベーターが上に上がれば、左のお腹のエレベーターは下に下がる。左右のエレベーターが交互に上下するイメージをしてもらう。

すると下駄の前後のシーソーはモグラによって動かされるし、エレベーターによっても同時に動かされるという身体の外と奥部の二重の働きかけが起きていく。

360度の立体化 ── トカゲのイメージ

さらにこのエレベーターは背中側、脇腹側と360度に展開され、骨盤や鎖骨、首と上下にも展開されることでより立体的になっていく。

さらに背骨をトカゲが骨盤の高さから首元の高さまで上に這うイメージの結果、下駄が前後に動くイメージなど、何重もイメージを重ね合わせていく。

イメージの重層化が生む変容 足首で下駄を前後に動かしていた時は、その動きに、バランスを取ろうとする意識や筋肉の反応があったのに対して、何重もイメージを重ね合わせていった先には、バランスは取るものではなく、自ずと成立している状態であり、前後の動きは動かすものではなく、微細な振動であり、一本歯の歯から先やお腹の中を感じ取った結果起きているものへと変異していく。

これがトレーニングにおいての中動態の入り口となる。

中動態が開く世界 ── トレーニングから在り方へ

トレーニングを中動態としてできるようになるとトレーニングというものが、単に筋肉やバランス、動きの向上ではなくなる。

自我、自意識(エゴ)による「私がやっている(能動)」が消え去り、環境や場との境界が溶け出す。世界の「空」を感じ自身も土管的な「空」になっていく。すると結果的に自分を生かしているすべてのものへの感謝や信頼が生じていく。

そしてトレーニングや競技動作、日常の動作や動き、所作が中動態ではあっても、それが在り方にまでいかないとそれは、一時の一瞬の輝きという現象に留まる。在り方にまでいけるかが大きな難関として未だに僕の前には存在している。

子どもという実践者 ── 「いつもありがとう、みんなありがとう」

現象ではなく、常時になるために重要なことの実践者は子どもだと思う。僕は7歳になる娘や5歳の息子から生活を通してそのヒントを教えてもらっている。

いつもありがとう、みんなありがとう

── 5歳の息子が語った「思い出」の定義

5歳の息子が「思い出」の定義として話してくれたこの言葉こそが中動態的在り方においてのいち側面だと確信を持っている。

つまりは、選手が選手らしく成長していくためには、どのトレーニングにおいても中動態を深めることと同時並行で「いつもありがとう、みんなありがとう」という中動態的な在り方で生きていけるルートに乗れるかが競技人生を左右させていく。

宇多田ヒカルに見る中動態的な在り方

そういうことを日々考えている中、先日偶然的に宇多田ヒカルのライブ映像をみていると彼女は、「いつもありがとう、みんなありがとう」で生きている風に彼女のMCから感じとることができた。

もしかしたら宇多田ヒカルが特別なのではなく、宇多田ヒカルに限らず、一部のアーティストは中動態的な在り方にいるのかもしれない。という仮説を今置いている。

「みんな」の二つの意味

どういうことかというと「みんな」という言葉の使い方が宇多田ヒカルはあきらかに違う。「いつもありがとう、みんなありがとう」で生きるためには、先ずは「みんな」の定義を子ども時代の「みんな」に戻すことができるかが僕ら大人には重要になってくる。

そんな中で多くの大人の使う「みんな」ではなく、多くの子どもの使う「みんな」で宇多田ヒカルは生きている。

大人の「みんな」は責任を薄めるための道具になりやすい。 「みんながそう言っている」のように、実際には数人のことを不特定多数のようにしていたり、責任を誰かへ転嫁する他人事であったり、場からの切断が「みんな」という言葉にある。

子どもの「みんな」 対して子どもの「みんな」は人だけではない。「みんなでつくりあげる保育園という空間」「みんなでいたあの夕暮れ」のように、空間も、時間も全部「みんな」の中に入っている。そこには、場を丸ごと含めた感謝があり、世界への信頼が溶け込んでいる。

これは西田幾多郎の「場所」に近い感覚だと思う。 個と個が関係するのではなく、場所そのものが生きている。

音楽の世界で起きていることをスポーツにも──

それが現在、一本歯下駄GETTAインストラクターみんなで
取り組んでいる次のトレーニング領域です。

この記事の監修者

宮崎要輔

合同会社GETTAプランニング代表 / 一本歯下駄GETTA開発者

文化身体論提唱者。「鍛えるな醸せ」を核心原理とし、一本歯下駄GETTAを通じた体幹トレーニング・身体教育の革新を推進。進化思考に基づく身体知の体系化と、トレーナー資格認定制度を設計。