序破急(じょはきゅう)
身体に内在する、
時間の文法
JO-HA-KYU → 中動態の間(ま)
序でゆるやかに始まり、破で展開し、急で速やかに収束する。世阿弥の序破急は、単なる三部構成ではない。一つの動きから一日の番組まで、あらゆる階層を貫く時間の文法である。とりわけ、動きと動きのあいだの「間」――何もしていないように見えて、止まってもいない時間――に、能の生命がある。文化身体論はこの時間を、頭で測る拍子ではなく、身体の内側から立ち上がる中動態的な時間として捉える。
SCROLL
一つの動きから、一日の番組まで
世阿弥の演出論の核心に「序破急」がある。序でゆるやかに始まり、破で展開し、急で速やかに収束する。重要なのは、これがあらゆる階層に繰り返し現れる、という点だ。
序破急は、一曲の能の構造であると同時に、一日に演じられる五番の番組全体の構造でもあり、さらには一つの所作、一つの動きの中にもある。大きな時間にも、小さな時間にも、同じ序破急が貫かれている。全階層に同じ構造が現れる。世阿弥にとって、よい舞台とは、この序破急の呼吸が、あらゆる階層で自然に流れている舞台だった。逆に、序破急の崩れた舞台は、どこか息苦しく、観客の心が乗らない。
せぬ隙(ひま)こそ、面白い
序破急が記述するのは、機械的な拍子ではない。とりわけ「間」――動きと動きのあいだ、音と音のあいだの静止――は、能の生命線である。世阿弥は『花鏡』で、何もしない「せぬ隙」こそが面白い、と説いた。何もしていないように見えるその時間を、心でつなぎ続ける。動いていないのに、止まっていない。観客の心は、その「間」でこそ深く動く。
間は、能動でも受動でもない
世阿弥の「せぬ隙」を、文化身体論は中動態的な間(ま)として捉える。何もしていないように見えるその時間は、自分から動かしているのでも、外から動かされているのでもない。動かないことを、ひとりでに保ち続けている。能動態(動かす)でも受動態(動かされる)でもない、その中間にある時間の在り方である。下の図は、序破急という時間が、頭の拍子ではなく、身体の側から立ち上がる構造を示す。
中動態の間 / 持続 / 波動 — 三つが身体内在の時間へ収束する
TURNING POINT
時計で測る時間ではない。
身体から立ち上がる時間。
序破急は、外から刻む拍子ではない。動きの内側から、ゆるやかに始まり、展開し、収束していく、いのちの時間の文法である。
序破急は、いのちの時間である
頭で測る時間は、均等に刻まれる機械の拍子だ。一秒は、いつも同じ一秒。だが、身体が生きている時間は、そうではない。ゆるやかに立ち上がり、高まり、収束する。同じ長さでも、密度が違う。哲学者ベルクソンが持続と呼んだ、この均質でない生きた時間と、世阿弥の序破急は深く響き合う。序は持続の立ち上がり、破はその高まりと展開、急は収束。序破急とは、いのちが生きている時間の、形なのである。
それは波動でもある。自然のあらゆる運動が波の形をとるように、序破急も、立ち上がり・頂点・収束という波の構造を持つ。一つの波が小さな波を含み、大きな波の一部にもなる。序破急が一動作から一日の番組まで全階層を貫いていたのは、波が階層を貫いて現れるのと、同じ構造だ。
一本歯下駄GETTAの上にも、序破急がある
文化身体論の装置である一本歯下駄GETTAの上に立つと、身体の動きにも序破急が現れる。最初の静かなバランス取り(序)、動きが深まり展開していく時間(破)、そして終わりに向かう収束(急)。一本歯の上では、頭で拍子を数える余裕はない。身体が、足裏と鳩尾の感受から、ひとりでに時間の波を立ち上げる。せぬ隙――動かずに保つ一瞬――もまた、GETTAの上で立ち上がる。能動でも受動でもなく、身体が時間を生きる。世阿弥が舞台で磨いた序破急の呼吸が、装置の上で、誰の身体にも立ち上がる。
ここで明確にしておきたい。文化身体論は宮崎要輔が独自に築いた枠組みであり、世阿弥はその創始者でも祖でもない。世阿弥の序破急と、文化身体論の中動態的な間は、六百年の隔たりを越えて、別々に、しかし同じ時間――身体の側から立ち上がる、いのちの時間――を指し示す、並行潮流としての響き合いである。
序破急は、外から刻む拍子ではない。身体の内側から立ち上がる、いのちの時間の文法である。
序破急は、すべての時間を貫く
世阿弥の序破急は、一曲の構造にとどまらない。一日に演じられる五番の番組全体にも、一つの所作にも、さらには一年、一生にも、同じ序破急が貫かれている。世阿弥は、時間のあらゆる尺度に、この立ち上がり・展開・収束の波を見た。
その最も微小な現れが、謡の出だしを説いた一調二機三声(いっちょうにきさんせい)である。まず調子を整え(調)、気を充実させ(機)、そして声を出す(声)。注目すべきは、声(外に出る動き)の前に、機(内に充ちる気)が置かれていることだ。動きの前に、満ちる時間がある。これは序破急の「序」、そして「間」の、最も小さな単位である。
世阿弥はまた、勝負の時間も読んだ。男時・女時(おどき・めどき)――流れが来ている時と、来ていない時。女時には無理に攻めず耐え、男時を待て。時のめぐりは均一ではなく、満ち引きがある、という理解である。何もしない「せぬ隙」を心でつなぐ万能綰一心も、この非均一な時間を生きる技だった。なお、世阿弥以降の能舞台の様式変化と「序破急五段」の関係は、近年の研究でも論じられている。
身体の時間は、計られるのではなく、波として生きられる
時計は、時間を均一に刻む。一秒は、いつでも同じ一秒。メトロノームは、機械的に拍を打ち続ける。近代は、この均質で計測可能な時間を、時間の標準とした。だが、身体が生きている時間は、そうではない。ここに、序破急が照らす決定的なズレがある。
そのズレから、一つの命題が立つ。身体の時間は、計測されるのではなく、序破急という非均質な波として生きられる。ゆるやかに立ち上がり、高まり、収束する。同じ長さでも、密度が違う。哲学者ベルクソンが持続と呼んだ、この生きた時間を、世阿弥は六百年前に序破急として記していた。機械の拍子に身体を合わせるのではない。身体の内側から、時間の波がひとりでに立ち上がる。これが中動態的な時間――能動でも受動でもなく、生きられる時間――である。
一本歯下駄GETTAの上の序破急
このことは、一本歯下駄GETTAの上で、身体に直接起きる。一本歯の上に立つ一連の動きには、おのずと序破急が現れる。まず、静かに重心を探る時間――序。足裏が地面の微細な傾きを読み、鳩尾がゆっくりと中心を定めていく。次に、動きが深まり展開する時間――破。足裏の感受と鳩尾から湧く動きが絡み合い、身体が大きく動いていく。そして、収束する時間――急。一歩を踏み出し、あるいは着地して、波が閉じる。
とりわけ、一本歯の上で一瞬静止して保つ時間が、世阿弥のいう「せぬ隙」そのものだ。外から見れば、止まっている。だが足裏と鳩尾は、倒れないために微細に働き続けている。動いていないのに、止まってもいない。これは時計で計れる静止ではない。身体の内側で波がつながり続けている、序破急の「間」である。試合に臨む選手の一連の動き――構えの序、始動の破、爆発の急――にも、同じ波が流れている。GETTAは、身体が時間を波として生きることを、足裏と鳩尾から思い出させる装置である。
文化身体論は宮崎要輔が独自に築いた枠組みであり、世阿弥はその創始者でも祖でもない。序破急と中動態的な間は、六百年を越えて同じ時間――身体の側から立ち上がる、いのちの時間――を指す、独立した並行潮流である。
一日の能の番組も、一つの序破急である
序破急が「全階層を貫く」とは、具体的にどういうことか。その最も大きな現れの一つが、一日に演じられる能の番組――五番立――の構成である。
古来、正式な能の一日は、五つの種類の能を順に並べて構成された。神を主役とする脇能(神)から始まり、武将の修羅能(男)、優美な鬘能(女)、人間の情を描く狂乱物など(狂)、そして鬼や妖を主役とする切能(鬼)で締めくくる。この一日の流れ全体が、ゆるやかに荘重に始まり(序)、人間的な展開を深め(破)、速やかに高ぶって閉じる(急)――一つの巨大な序破急になっている。
一つの所作にも、一曲にも、そして一日の番組全体にも、同じ序破急が貫かれている。小さな波が大きな波に含まれ、大きな波が小さな波を含む。世阿弥は、時間というものが、均一に刻まれるのではなく、入れ子状の波として重なり合って流れることを、能の構成そのものに刻み込んでいた。
時は流れない ── 立ち現れる時間としての序破急
哲学者・大森荘蔵は、「時は流れない」と論じた。時間は、川のように外を流れていく実体ではない。過去も未来も、いま・ここに立ち現れるものとしてある。私たちは時間の中に浮かんでいるのではなく、時間を立ち現わしながら生きている。
序破急は、まさにこの「立ち現れる時間」の構造である。序破急は、外から流れてくる拍子を身体が受け取るのではない。身体の内側から、立ち上がり・展開・収束の波が立ち現れる。大森が哲学の言葉で「時は流れず、立ち現れる」と論じたものを、世阿弥は序破急として能の身体に刻み、文化身体論は中動態的な時間――身体の側から立ち上がるいのちの時間――として記述する。哲学・能・身体論という別々の場所から、計測される時間ではなく生きられる時間という一点が、同じく指し示される。詳しくは大森荘蔵図鑑を参照。
『砧』── 打つ音と、音のあいだの時間
序破急と間を、一つの能で確かめる。世阿弥作の四番目物『砧』──世阿弥自身が「末の世にこの能の味わいを知る人はいないだろう」と述べたほどの自信作である。
九州芦屋の某の妻は、訴訟のため都に上り、三年経っても帰らぬ夫を待ち続ける。秋の夜、妻は砧(きぬた)を打って、遠い夫に思いを届けようとする(砧ノ段)。打つ音には序破急とリズムがある。だが、本当に効いているのは音そのものではない。音と音のあいだの「間」――打つたびに広がる静寂、そこに満ちる、待つ時間の重さである。世阿弥が「せぬ隙こそ面白い」と説いた、その間が、砧の音のあいだに張りつめている。
そして「三年」という時間は、時計で計れる三年ではない。帰らぬ夫を待つ妻にとって、それは引き伸ばされ、密度の変わった持続だった。砧は、計られる均質な時間ではなく、身体に生きられる時間――序破急という非均質な波として流れる時間――を、舞台の上に刻んだ。打つことと、待つこと。音と、間。能動と受動のあいだで、妻の身体が時間そのものを生きている。
序破急と間を読み解く鍵語
- 序破急(じょはきゅう)
- 序でゆるやかに始まり破で展開し急で収束する時間の文法。一動作から一生まで全階層を貫く。
- 間(ま)
- 動きと動きのあいだの静止。何もしないように見えて止まってもいない、能の生命線となる時間。
- せぬ隙(ひま)
- 何もしない時間。世阿弥はこれこそ面白いとし、心でつなぎ続けることを説いた。
- 一調二機三声
- 謡の出だし。調子を整え(調)、気を充実させ(機)、声を出す(声)。動きの前に満ちる時間がある。
- 万能綰一心
- あらゆる技を一つの心につなぐこと。せぬ隙を心でつなぐ技。
- 男時・女時(おどき・めどき)
- 勝負の流れが来ている時と来ていない時。時のめぐりの満ち引き。
- 持続(じぞく)
- ベルクソンの概念。均質に計測される時間ではなく、密度が変化する生きた時間。序破急と響き合う。
- 中動態
- 能動でも受動でもない在り方。身体の内側からひとりでに時間の波が立ち上がること。
- 波動
- 立ち上がり・頂点・収束という波の構造。一つの波が小さな波を含み、大きな波の一部にもなる。
序破急と間について、よくある問い
「序破急」とは何ですか?
「間(ま)」とは何ですか?
なぜ間は「中動態的」なのですか?
序破急とベルクソンの「持続」はどう関係しますか?
序破急と間を、さらに深く読むために
一次文献(世阿弥の能楽論)
研究書・論文
文化身体論の側から
学術データベース・基礎資料
※ 書誌情報は各版元・CiNii・J-STAGE等の公開情報に基づく。
四つの一点を、行き来する
世阿弥の概念と文化身体論が重なる四つの一点。序破急と間はその第四。残る三つと、世阿弥の全体像へ。
世阿弥とは何者か|思想図鑑 No.22 →