比較文明学者・民族学者
梅棹忠夫とは何者か
UMESAO TADAO 1920 – 2010
文明は、誰かが意志して建てるのではない。環境のなかで、群落が裸地から森へ移り変わるように、自律的に変わっていく――。生態学のまなざしで世界史を読み替え、情報社会の到来を半世紀前に言い当て、知的生産の技術を学者の手から万人の手へ解き放った巨人。動物学から出発し、内モンゴルの草原とカラコルムの高峰を歩き、国立民族学博物館を立ち上げた梅棹忠夫は、文明・情報・身体を一つの視野に収める比類なき思考を残した。本図鑑は、その全体像を日本最大規模で記述する。
SCROLL
CONTENTS — 本図鑑の歩き方
なぜ一人の民族学者が、文明史と情報社会と知的生産を、同時に語れたのか
梅棹忠夫の名は、しばしば三つの異なる文脈で別々に呼び出される。世界史を生態学で読み替えた『文明の生態史観』の人として。情報社会の到来を一九六〇年代に予見した『情報産業論』の人として。そして京大型カードとこざね法で知られる『知的生産の技術』の人として。
だが、この三つはばらばらの業績ではない。三つはいずれも、一つの問いから生まれている。人間が世界を理解し、組み立て、つくり変えていく営みを、生命のはたらきとして見るとどうなるか――この問いである。
梅棹は京都帝国大学理学部で動物学を学び、生態学者・今西錦司のもとで群れと環境の関係を見る目を養った。その目で文明を見れば生態史観になり、産業を見れば情報産業論になり、研究という行為そのものを見れば知的生産の技術になる。視点は一つ、対象が違うだけだ。生態学から動物社会学を経て民族学へ、そして比較文明論へと研究の中心を移しながら、梅棹は終始、一つのまなざしを手放さなかった。本図鑑はこの一貫性を軸に、生涯から三本の柱、そしてその波及までを順にたどっていく。
梅棹にとって、文明とは生命が環境のなかで機能を外へ広げていく過程そのものだった。
一つの方法が、文明・情報・知へと分岐する
三つの代表作は、中心にある一つの方法――生命と環境の関係を見るまなざし――から放射状に分岐している。下の図は、その分岐の構造を示す。中心の核へ向かって、三方向から信号が収束していく。
まなざしTHE METHOD
文明学INFORMATION
CYAN 知的生産 / ORANGE 情報の文明学 / PURPLE 生態史観 — 三方向から一つの核へ
探検家から、文明の理論家へ
梅棹忠夫の思想は、机の上ではなく、足で歩いた大地のなかから生まれた。動物学を志した青年は、探検と調査を重ねるうちに、人間と文明そのものへと関心を広げていった。その九十年の歩みをたどる。
京都に生まれ、探検へ向かう
一九二〇年六月十三日、梅棹忠夫は京都市に生まれた。京都帝国大学理学部に進み、主として動物学を専攻する。学生時代、学術探検をめざす友人六名と「ベンゼン核」というグループを結成し、その指導を生態学者・今西錦司に依頼した。これが、生涯にわたる師弟関係の始まりだった。京都探検地理学会のポナペ島調査隊(隊長・今西錦司)に参加し、学術探検家としての最初の実地訓練を受けている。
やがて北部大興安嶺探検隊(中国黒竜江省)に加わり、脊梁山脈ぞいの白色地帯を踏破し、トナカイ遊牧民を見た。黒竜江上流で釣り上げた魚の胃の内容物を分析し、卒業論文「黒竜江上流の魚類群聚」を書く。生態学者として、群れと環境の関係を見るまなざしが、すでにここで鍛えられていた。一九四三年、京都帝国大学理学部動物学科を卒業し、京都大学学士山岳会(AACK)に入会する。
モンゴルの草原で、文明と出会う
一九四四年、梅棹は内モンゴルへ渡り、張家口に置かれた蒙古善隣協会西北研究所の嘱託となった。チャハル盟・シリンゴル盟で約半年かけて、モンゴルの遊牧と牧畜を調査する。動物の生態を見る目で、人間の生活様式を見る――この転回が、梅棹を生態学者から民族学者へと変えていく分岐点となった。一九四五年の終戦に伴い、内モンゴルから天津へ脱出し、年末に北京へ移動。翌一九四六年、日本へ帰国し京都へ戻って、大学院に復学した。なお、このモンゴル研究のつながりから、作家・司馬遼太郎とは長年の友人となっている。
カラコルムの旅が、生態史観を生んだ
一九四九年、大阪市立大学理工学部助教授に就任。そして一九五五年、京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊の一員として、アフガニスタン・インド・パキスタンを巡った。乾いた大地、巨大な遺跡、そこに生きる人びと。この旅で受けた強烈な印象を体系化したものが、二年後に発表される『文明の生態史観』である。一九六一年には理学博士の学位を取得した。
人文研から、民博の創設へ
一九六五年、京都大学人文科学研究所の助教授となり、一九六九年に同教授へ昇任。この人文研での共同研究とフィールドワークの経験を基に、同じ一九六九年、『知的生産の技術』を世に問う。そして一九七四年、生涯最大の事業――国立民族学博物館の創設に尽力し、その初代館長に就任した。一九八三年には財団法人千里文化財団の会長も務めている。
光を失っても、書き続けた
一九八六年三月十二日、梅棹は原因不明の失明に見舞われる。だが彼はそこで筆を折らなかった。それ以降の膨大な著述は、すべて口述筆記によるものである。この闘病の日々は『夜はまだあけぬか』に綴られた。一九八八年に朝日賞、一九九一年に文化功労者、そして一九九四年に文化勲章、一九九九年に勲一等瑞宝章を受章。一九九三年からは国立民族学博物館の顧問・名誉教授を務めた。二〇一〇年七月三日、九十年の生涯を閉じた。視力という外の光を失ってなお、内なるまなざしは最後まで世界を見続けていた。
CHRONOLOGY — 略年譜
6月13日、京都市に生まれる。のちに京都帝国大学理学部へ進み、動物学を専攻する。
京都帝国大学理学部に入学。探検グループ「ベンゼン核」を結成し、今西錦司に師事する。
大興安嶺の探検に参加。卒業論文「黒竜江上流の魚類群聚」をまとめる。1943年、京都帝国大学理学部動物学科を卒業、京都大学学士山岳会(AACK)に入会。
西北研究所員として内モンゴルへ渡り、遊牧民の牧畜の生態を調査する。
終戦により内モンゴルから困難な脱出を経て、1946年帰国。生態学者から民族学者への転回が始まる。
大阪市立大学助教授に就任(〜1965)。
カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。アフガニスタン等を横断し、この旅が『文明の生態史観』の着想となる。
『モゴール族探検記』『回想のモンゴル』を刊行。
「文明の生態史観序説」を『中央公論』に発表。第一地域・第二地域と平行進化説を提示する。
理学博士の学位を取得。
「情報産業論」を発表。「情報産業」という語を生み、情報社会の到来を予見する。
『東南アジア紀行』を刊行。東南アジアの調査を展開する。
京都大学人文科学研究所に移り、助教授(のち教授)として共同研究を率いる。
『知的生産の技術』(岩波新書)を刊行。同年以降、司馬遼太郎との対談が始まる。
大阪万博をめぐる知的構想に関わる。
国立民族学博物館の初代館長に就任(〜1993)。『地球時代の日本人』を刊行。
『民族学博物館』『狩猟と遊牧の世界』を刊行。
『わたしの生きがい論』を刊行。
3月12日、球後視神経炎により両眼の視力を失う。以降の著述はすべて口述筆記による。
朝日賞を受賞。『情報の文明学』を刊行。
『梅棹忠夫著作集』(全22巻・別巻1、中央公論社)の刊行が始まる。
文化功労者に選ばれる。
国立民族学博物館長を退任、同館顧問・名誉教授となる。
文化勲章を受章。著作集が完結。日本ローマ字会第7代会長に就任する。
京都大学名誉教授となる。
自伝『行為と妄想――わたしの履歴書』を刊行。
勲一等瑞宝章を受章。
『近代世界における日本文明――比較文明学序説』、および『日本の未来へ――司馬遼太郎との対話』を刊行。
『日本語の将来――ローマ字表記で国際化を』を編む。
『山をたのしむ』を刊行。
7月3日、逝去。享年90。その思想は、いまも読み継がれている。
TURNING POINT — I
「東洋」と「西洋」という
二分法を、捨てよ。
世界を東西に割る見方では、なぜ日本が西ヨーロッパとよく似た歩みをたどったのかを説明できない。梅棹は地図を引き直し、文明を生態学の遷移として読み始めた。
第一の柱:文明を生態学で読む
出発点は、一九五五年の旅だった
一九五五年、梅棹はカラコルム・ヒンドゥークシュの学術探検隊に加わり、アフガニスタン・インド・パキスタンを調査して回った。乾いた大地、巨大な遺跡、そこに暮らす人びと。その手ざわりから生まれた直観を体系化したのが、一九五七年に雑誌『中央公論』へ発表した「文明の生態史観序説」であり、のちに一冊にまとめられた『文明の生態史観』である。
当時の常識は、世界を「進んだ西洋」と「遅れた東洋」に割ることだった。だが梅棹は、この枠組みそのものを退ける。日本は地理的にはアジアの東端にあるが、経済や制度の発達という点では西ヨーロッパとよく似た歩みをたどっている。東西二分法では、この事実が説明できない。
第一地域と第二地域
そこで梅棹は、世界を東西ではなく、第一地域と第二地域に分けた。第一地域は、ユーラシア大陸の東西両端――西ヨーロッパと日本。気候が温和で、外からの大規模な破壊を受けにくい周縁にある。発展の速度は遅かったが、第二地域から文化を取り入れながら、封建制を経て、外から強いられることなく内側から高度な社会をつくり上げた。
第二地域は、その両端にはさまれた広大な大陸部――中国・インド・イスラム圏・ロシアといった大文明圏である。ここでは早くから巨大な帝国が成立した。だが乾燥地帯の暴力や専制的な制度という問題を抱え、やがて発展が阻まれていった。中心で早く咲いたものが行き詰まり、周縁で遅れて始まったものが安定して伸びる――この逆説が、生態史観の見立てである。
平行進化説――日本と西欧は、独立に同じ道を歩んだ
生態史観のもう一つの呼び名が平行進化説である。生物学では、系統的に遠く離れた生きものが、似た環境のなかで独立に似た形質を獲得することを平行進化と呼ぶ。梅棹は、西ヨーロッパと日本という、互いに連絡もなく地理的にも遠く離れた両端の社会が、よく似た歩み――封建制から近代社会へという軌跡――を、それぞれ独立にたどったことに注目した。直接の影響関係ではなく、似た生態学的条件が似た結果を生んだ。これが平行進化としての文明史である。
鍵は「遷移」という生態学の概念
この見立てを支えているのが、師・今西錦司から受け継いだ生態学の発想、とりわけ遷移(サクセッション)の概念だ。何もない裸地に、まず草が生え、低木が育ち、やがて森林という安定した極相へと、植物群落が自律的に移り変わっていく――それが遷移である。
梅棹は、この生命の過程を人類史にあてはめた。文明とは、誰か偉大な個人が意志して建てるものではない。環境という条件のなかで、社会が自律的に変化していく過程そのものである。だからこそ、似た環境条件にある第一地域の両端が、互いに連絡もないまま、よく似た社会へとたどり着いた。今西の生態学が「棲み分け」や群れと環境の関係を見たように、梅棹は文明と環境の関係を見たのである。
第三の史観として
これは、マルクスの唯物史観(生産様式が歴史を決める)でも、精神を歴史の原動力とみる唯心史観でもない、第三の史観である。生態学的な条件と遷移の論理で歴史を読む――ここに梅棹の独創があった。世界を東西の優劣で測るのでも、単線的な進歩の梯子で測るのでもなく、環境と社会の相互作用という、生命科学の視点で測り直したのだ。
そして注目すべきは、この変化が「能動的に作る」のでも「受動的に作られる」のでもなく、環境のなかで内側から起こる中動態的な過程として描かれていることだ。第一地域の社会形成は、誰かの意志による建設でも、外圧による強制でもなく、条件のなかで自ずと進んだ変化だった。この能動でも受動でもない変化の文法は、本図鑑の後半で文化身体論と響き合う一点として、再びふれることになる。
第二の柱:情報社会を、半世紀前に見ていた
「情報産業」という言葉を生んだ
一九六三年、梅棹は『放送朝日』に「情報産業論」を発表した。「情報産業」という語そのものが、この論文で梅棹がつくった造語である。情報社会論の古典として知られるアルビン・トフラー『第三の波』(一九八〇年)に、およそ一七年も先んじて、情報を中心とする社会の到来を描き出していた。パーソナルコンピュータもインターネットも存在しない時代に、これから来る社会の骨格を言い当てていたのである。のちにこの一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』にまとめられる。
文明とは、身体機能が外へ広がっていく歴史である
情報産業論の核心は、人類の産業の歴史を生命の発生学になぞらえたところにある。生物の身体が、内胚葉・中胚葉・外胚葉という三つの層から分化していくように、梅棹は産業の展開を三段階として描いた。
第一段階は農業=内胚葉的な産業。消化器官、すなわち栄養を取り込む機能の延長である。第二段階は工業=中胚葉的な産業。筋肉や運動器官、すなわち力を行使する機能の延長である。そして第三段階が情報・精神産業=外胚葉的な産業。感覚器官と脳神経系、すなわち世界を受けとめ処理する機能の延長にあたる。
文明とは、人間の身体機能が、一つずつ体の外へと外化され、拡充されていく過程である。
農業が消化器官の外化であり、工業が運動器官の外化であるならば、情報産業は感覚器官と脳神経系の外化である。トラクターが筋肉を外へ延ばしたように、メディアと情報装置は感覚と神経を外へ延ばす。文明の歴史は、人間という生命体が自らの機能を一つずつ環境のなかに展開していく、壮大な外化の物語として描かれる。これは、身体を尺度として文明を測るという、きわめて独創的な視座だった。
なぜ人は、情報を欲しがるのか
本を読み、音楽を聴き、ニュースを見る。なぜ人はそれほどまでに情報を欲しがるのか。梅棹の答えは明快だ。情報は感覚器官で受けとめられ、脳のなかを通過するだけで、感覚器官と脳神経系を大いに緊張させ、活動させるからである。情報を取り込むこと自体が、身体機能の行使であり、快なのだ。食物が消化器官を、労働が運動器官を働かせて充足をもたらすように、情報は感覚器官と脳神経系を働かせて充足をもたらす。情報への欲求は、身体の欲求の延長線上にある。
農業・工業・情報 ── 価値の基準が移り変わる
梅棹は人類史を、もう一つの軸でも三つに分けている。農業の時代・工業の時代・情報産業の時代である。注目すべきは、それぞれの時代で価値の基準そのものが変わると見た点だ。
農業の時代には、すべての価値の基準が農業生産に置かれる。たとえば江戸時代の日本では、石高――すなわちコメの生産量――が価値の物差しだった。工業の時代は、労働とエネルギーの時代である。農業すら大量生産が可能となり、生産物はカロリーやエネルギーに換算して計られるようになる。
そして情報産業の時代になると、情報という、きわめて個別的でとらえどころのないものが、価値の基準となる。同じ農産物でも、いまや個性的で感覚的な情報の担い手として価値づけられる。工業製品も、機能が品質だった時代から、デザインのような情報的な価値こそが品質とされる時代へ移る。ここで梅棹のいう情報産業とは、いわゆるソフト産業のことではない。産業全体の性格が情報的になっていく、その大きな転換を指している。なぜ工業の時代が情報産業の時代へ移るのか。梅棹の見立てでは、それは外からの力ではなく、工業それ自体の発展によって、内側から起こる。ここにも、遷移を見たまなざしが貫かれている。
博物館ではなく「博情館」
この情報の思想は、梅棹が立ち上げた国立民族学博物館の設計思想にも貫かれている。梅棹にとって民博は、ものを集めて並べる伝統的な博物館ではなかった。館全体を一つの情報のかたまりとみなし、民族学的な情報を集め、展示し、発信する場――梅棹はこれを「博情館」と呼んだ。創設当初からコンピュータの専門家を迎え入れたのも、この発想ゆえである。博物館は、ものの倉庫ではなく、情報のメディアである。この理解は、情報産業論の実践そのものだった。
現代から振り返ると
梅棹が一九六三年に描いた情報社会の骨格は、半世紀を経て、インターネットとスマートフォンの時代として現実になった。だが彼の洞察の射程は、技術の予言にとどまらない。情報を「感覚器官と脳神経系にはたらきかけるもの」として身体の側からとらえた視点は、情報があふれる現代において、なぜ私たちが絶え間なく情報を求め、ときにそれに振り回されるのかを、根本から考えるための足場を与えてくれる。情報とは何より、身体に作用するものなのだ。
TURNING POINT — II
知的生産の技術は、
学者だけのものではない。
頭をはたらかせて新しいものを生み出す技術を、誰もが使える形にする。梅棹はその出発点を、五百年前の一人の天才の手帳に見いだした。
第三の柱:頭のはたらきを、技術として開く
知的生産とは何か
一九六九年に出た『知的生産の技術』(岩波新書)は、いまも読み継がれる長期のロングセラーである。梅棹のいう知的生産とは、頭をはたらかせて、何か新しいこと――知的な情報――を人にわかる形で生み出すことだ。そして本書の主張は、その技術は特別な才能ではなく、誰もが身につけられる生活の技術であり、個人の知的武装だ、というものだった。「学校はおしえすぎる、しかしやりかたはおしえない」という梅棹の言葉が、本書の問題意識を言い当てている。知識を詰め込むのではなく、知識を生み出す手つきそのものを、万人に開くこと。それが本書のねがいだった。
発見の手帳――レオナルド・ダ・ヴィンチに倣う
本書は冒頭で、「発見の手帳」を語る。これは梅棹が若い頃、レオナルド・ダ・ヴィンチの手帳に倣って始めた習慣だった。第一章の章題は、はっきりと「ダ=ヴィンチの手帳/わかき『天才』たち」と記されている。日々のなかで心に浮かんだ発見や着想を、その場で文章にして書きとめる。頭に浮かんだだけでは消えてしまうものを、文章という形に固定する。雑然と書きつけられた混沌を、のちにカードへと整理していく。雑多なデータが、一つずつ、扱える単位へと変わっていく。
京大型カード――思考を外に出し、組みかえる
その整理の道具が、有名な京大型カード(のちに「京大式カード」として商品化)である。B6判の一枚のカードに、一枚一項目で書く。カードであることが本質だ。なぜなら、カードはならべかえ、組みかえ、自由に操作できるからである。ノートに順番に書いてしまうと、その順番に縛られる。カードなら、いつでも並べ替えて、新しいつながりを見つけられる。
梅棹はここで逆説的な言葉を残す。「わすれるためにかく」――。カードに書きとめるのは、覚えておくためではない。頭の外に出して安心して忘れ、頭そのものを自由にするためである。記憶を外部の装置に預けることで、頭は新しい思考のために解放される。そしてもう一つ、「分類が目的ではない」。きれいに分類して棚にしまうことがゴールなのではなく、カードを動かし、組み合わせ、そこから新しい発見を引き出すことがゴールなのだ。分類は手段にすぎない。
こざね法――鎧の小札のように並べる
そして文章を書く段になると、梅棹はこざね法を使う。B8判ほどの小さな紙片に、主題に関わる単語や短い文を一つずつ書いていく。素材が出そろったら、論理的につながりそうなものを隣り合わせに並べ、まとめてとめる。こうして頭のなかの動きが、目に見える形になり、そこから一本の文章が立ち上がる。並んだ紙片の列が、鎧を構成する小さな板――小札(こざね)――に似ていることから、この名がついた。
発見の手帳から、カードへ、こざね法へ。これは一貫して、思考を頭の中だけに抱え込まず、外へ出して操作可能にするという思想である。情報を外化し、ならべかえ、不要なものを取り除き、新しいまとまりを生む。梅棹の知的生産論は、情報の文明学を、一人ひとりの机の上で実践する技術へと翻訳したものだった。文明が身体機能を外化していくように、個人もまた思考を外化することで、新しいものを生み出す。
カードからファイルへ――現代的展開
京大型カードの原理は、紙のカードという形を離れても生き続けている。デジタルな世界では、一枚のカードは一つのファイル、一つのノート、一つの投稿に置き換えられる。ファイルを日々ためていき、見出しやキーワードでつなぎ、こざね法のように組み替えて文章を書く――この手つきは、現代のカード型ノート術や、断片を相互にリンクさせて知を育てるツェッテルカステンの考え方と、深いところで通じている。形は変わっても、外化・断片化・再結合という方法の核は変わらない。梅棹が半世紀前に説いた知的生産の技術は、デジタル時代の知的生産論として、いまなお現役である。
理論は、歩いた大地から生まれた
梅棹忠夫の思想を語るとき、忘れてはならないのは、彼が何より探検家であり、フィールドワーカーだったということだ。生態史観も情報産業論も知的生産の技術も、書斎の思弁ではなく、世界各地を歩いた経験の上に立っている。
今西錦司と、京都の探検の系譜
梅棹の探検は、師・今西錦司を中心とする京都の学術探検の伝統のなかにある。京都帝国大学で結成した「ベンゼン核」、京都大学学士山岳会(AACK)、京都探検地理学会――こうした集団のなかで、梅棹は若くしてフィールドの作法を身につけた。山に登り、未踏の地を踏み、現地で観察し、記録する。この実地の訓練が、のちのあらゆる理論の土台となった。同じ今西グループからは、発想法「KJ法」で知られる川喜田二郎も育っている。現場から知を立ち上げるという京都の学風が、二人の方法論者を生んだ。
モンゴルから、サバンナまで
梅棹のフィールドは、世界に広がっている。学生時代の大興安嶺(中国黒竜江省)でのトナカイ遊牧民の調査。一九四〇年代の内モンゴルでのモンゴル牧畜の調査。一九五五年のカラコルム・ヒンドゥークシュ探検でのアフガニスタン・インド・パキスタン。そして東南アジア、東アフリカのサバンナ、ヨーロッパ。これらの旅は、『回想のモンゴル』『東南アジア紀行』『サバンナの記録』『日本探検』といった数々の記録に結実している。
とりわけ、狩猟と遊牧という生活様式への深い関心は、梅棹の人類理解の核を成した。動物の生態を見る目で、人間がどのように環境と関わって生きているかを見る。この一貫したまなざしが、『狩猟と遊牧の世界』のような比較考察を生み、やがて文明全体を生態学的に読む生態史観へと結びついていった。
今西錦司と、京都の知の系譜
梅棹忠夫という思考は、一人の天才としてだけでなく、京都の独特な学風のなかから生まれた。その中心には、生涯の師・今西錦司がいる。
「ベンゼン核」から始まった
京都帝国大学理学部の学生だった梅棹は、学術探検をめざす友人六名と「ベンゼン核」というグループを結成し、その指導を今西錦司に依頼した。やがて京都大学学士山岳会(AACK)に入会し、山に登り、未踏の地を歩く。現地に身を運び、自分の目で観察し、記録する――このフィールドを第一とする学風こそ、京都の知の核心だった。今西の生態学が、群れと環境の関係や棲み分けを見たように、梅棹はその目を文明へと向けていった。
方法を生む土壌
興味深いのは、この同じ今西グループから、もう一人の方法論者が育っていることだ。発想法「KJ法」で知られる川喜田二郎である。梅棹の知的生産の技術と、川喜田のKJ法。断片をカードに書き、並べ替え、新しいまとまりを見いだすという発想を共有する二つの方法が、同じ土壌から、ほぼ同じ時代に生まれた。これは偶然ではない。現場で得た雑多な情報を、いかにして知へと組み上げるか――この問いが、京都の探検科学の現場には、つねに具体的な課題として存在していたからである。
のちに梅棹は京都大学人文科学研究所に移り、桑原武夫らとともに共同研究という知のスタイルを実践していく。一人の天才の閃きではなく、複数の頭脳が情報を持ち寄り、組み合わせる。知的生産の技術が、カードという共有可能な形式にこだわったのも、この共同研究の経験と無関係ではない。知は、外化され、共有され、組み替えられることで前へ進む――梅棹の方法論の根には、この京都の協働の精神が流れている。
すべては、身体で世界に触れることから始まった
梅棹忠夫の思想を理解するうえで、決して欠かせない一点がある。それは、彼の知がつねに身体の経験から立ち上がっていたということだ。理論が先にあったのではない。歩き、登り、触れた、その経験が先にあった。
探検の時代を生きて
梅棹は、二十世紀の探検の時代を生きた探検家だった。学生時代の大興安嶺、内モンゴルの草原、カラコルムの高峰、東南アジアの密林、東アフリカのサバンナ。地図の空白を、自分の足で埋めていく。それは単なる冒険ではなく、世界を直接その身で受けとめ、記録し、考えるという知の方法そのものだった。著作集に「探検の時代」「探検記をよむ」といった巻が立てられているように、探検は梅棹にとって生涯のテーマであり続けた。
山に登るということ
京都大学学士山岳会(AACK)の一員として、梅棹は登山家でもあった。晩年には『山をたのしむ』を著している。山に登り、未知の自然のなかに身を置く経験は、彼の世界観の土台にある。机の前で得られる知識ではなく、足の裏で大地を感じ、全身で環境と向き合うなかでしか得られないものがある――その確信が、フィールドワークを第一とする学風と分かちがたく結びついていた。
梅棹にとって、考えることは、まず身体で世界に触れることだった。
この「身体が先、言語が後」という順序は、梅棹の思想全体を貫いている。発見の手帳も、まず現場で何かに触れ、心が動いた、その瞬間を書きとめるところから始まる。理論は、そのあとに来る。身体の経験を出発点とし、そこから知を組み上げていくこの姿勢は、本図鑑の末尾でふれる文化身体論と、もっとも深く響き合う一点でもある。
地図の空白を、ひとつずつ埋めていく
梅棹忠夫の生涯は、そのまま二十世紀日本の探検史でもあった。少年期の京都近郊の山から、内モンゴルの草原、ヒマラヤやカラコルムの高峰、東南アジアの密林、東アフリカのサバンナ、そして中国各地へ。その足跡をたどると、彼の思想がどこから生まれたのかが見えてくる。
山から始まった
梅棹の出発点は、京都の山だった。旧制第三高等学校の山岳部に入り、京都近郊の山々を歩き尽くす。やがて学術探検をめざす仲間と京都探検地理学会、すなわち「ベンゼン核」を結成し、今西錦司を指導者に迎えた。山に登り、自然のなかに身を置き、自分の目で観察する――この姿勢が、のちのすべての仕事の土台になった。
内モンゴルの草原で
一九四四年、梅棹は西北研究所の一員として内モンゴルに渡り、遊牧民の暮らしと牧畜の生態を調査した。終戦による困難な脱出を経て帰国するが、この草原での経験は、のちの『回想のモンゴル』へと結実し、民族学者・梅棹の原点となる。司馬遼太郎との長年の友情も、このモンゴルへの共通の関心から生まれた。
カラコルムと、生態史観の誕生
一九五五年、梅棹は京都大学学士山岳会のカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊に加わり、アフガニスタン・パキスタン・インドを横断した。乾燥した大地と、そこに営まれる人々の暮らしを目の当たりにしたこの旅のなかで、文明の生態史観の着想が生まれた。机上の理論ではない。広大なユーラシアを実際に横断する身体の経験から、あの壮大な文明論は立ち上がったのである。アフガニスタンや中東を、東洋とも西洋ともつかぬ独自の世界として、梅棹は後に「中洋」と名づけることになる。
高峰へ、密林へ、そして中国へ
梅棹の探検は止まらなかった。ヒマラヤのマナスル登頂計画に関わり、東南アジアではビルマ最高峰カカボ・ラジへの登頂計画に挑み、人文研時代にはアフリカとヨーロッパを巡った。さらに国立民族学博物館の館長となってからは、中国各地を踏査している。歩いた距離が、そのまま思想の射程になった。梅棹にとって探検と学問は、決して別のものではなかった。世界を直接その身で受けとめることが、知の最初の一歩だったのである。
思想を、制度として建てる
梅棹忠夫の最大の事業は、一冊の本ではなく、一つの機関だった。大阪・千里の万博公園に建つ国立民族学博物館(みんぱく)は、梅棹の思想が制度として結実したものである。
日本の文化人類学のパイオニアとして
梅棹は、日本における文化人類学のパイオニアの一人である。生態学を出発点としながら、動物社会学を経て、民族学(文化人類学)、そして比較文明論へと研究の中心を移していった。世界各地のフィールドワークで集めた、諸民族の暮らしと文化への深い理解。それを、個人の研究にとどめず、一つの研究機関として世に開くこと――それが民博の創設だった。一九七四年、梅棹はその設立に尽力し、初代館長に就任する。一九九三年までの長きにわたり、館を率いた。
博物館は、メディアである
梅棹が構想した民博は、従来の博物館とは根本的に異なっていた。それは、貴重なものを集めて陳列する宝物殿ではない。諸民族の文化を情報として収集し、展示し、研究し、発信する場――いわば一つのメディアである。だからこそ梅棹は、これを博物館ならぬ「博情館」と呼んだ。情報の文明学の思想が、ここで建築と運営として具体化されている。創設当初からコンピュータの専門家を迎え入れたのも、館全体を情報システムとしてとらえていたからだった。
世界中の諸民族の生活財や文化を、一つの場所に集め、つなぎ、見渡せるようにする。これは、文化資本が地理を越えて移動し、蓄積され、共有される場をつくる試みでもあった。異なる文化を比較し、その成り立ちを読み解く比較文明学の精神が、展示というかたちで来館者に開かれている。民博は、梅棹の三つの柱――生態史観のまなざし、情報の思想、そして知的生産の方法――が、一つの建物のなかで出会う場所なのである。
梅棹の思考を支えた、四つの態度
三本の柱の底には、共通する四つの態度が流れている。現場に身を運ぶこと。変化を環境の側から見ること。思考を外へ出すこと。そして文明を身体の延長として読むこと。
現場に身を運ぶ
梅棹はまず、足で歩く人だった。内モンゴル、大興安嶺、カラコルム、サバンナ。机上の理論ではなく、現地でカードをつくり、野帳に記す。身体を現場に運ぶことが、すべての思考の出発点にあった。
変化を環境の側から見る
文明も社会も、誰かが作るのではなく、環境のなかで自律的に変わっていく。遷移というまなざしは、能動と受動のどちらでもない、中動態的な変化の見方を梅棹に与えた。
思考を外へ出す
カードに書いて忘れ、こざねを並べて組みかえる。頭の中に抱え込まず、外化して操作する。発見はこの外部の操作から生まれる、というのが梅棹の確信だった。
文明を身体の延長として読む
農業は消化器官、工業は運動器官、情報は感覚器官と脳神経系の外化。梅棹は文明史を、身体機能が一つずつ体の外へ広がっていく過程として描いた。
直線的な進歩史観と、生態史観のちがい
梅棹の生態史観が画期的だったのは、それまで当たり前とされてきた歴史の読み方を、根本から組み替えた点にある。六つの論点で対比する。
知を万人に開くための、文字と言葉の改革
知的生産の技術を万人に開こうとした梅棹は、その延長線上で、日本語そのものの改革にも生涯をかけて取り組んだ。あまり知られていないが、これは彼の思想の一貫した帰結である。
ローマ字論者として
梅棹は、筋金入りの日本語ローマ字論者だった。一九九四年からは、社団法人日本ローマ字会の第七代会長を務めている。古くから漢字廃止論を唱え、とりわけ自らが視力を失ったのちは、漢語に多い同音異義語を、日本語の重大な欠点として強く主張するようになった。耳で聞いただけでは区別できない言葉が多すぎる――情報を伝える道具として、それは大きな障壁だ、と。二〇〇四年には『日本語の将来――ローマ字表記で国際化を』を編んでいる。
エスペラントと、世界への通路
梅棹はまた、国際共通語をめざすエスペラントの運動家でもあり、世界エスペラント協会の名誉委員も務めた。文字を簡素にし、言葉の壁を低くし、知と情報がより多くの人へ、より広い世界へと流れていくようにする――これは、知的生産の技術が個人の机の上でめざしたことを、言語というより大きなスケールでめざす試みだったといえる。
ここにも、梅棹の方法の核が見える。難しさを足すのではなく、障壁を引いて、伝えたい中身そのものを指し示す。わかりやすく書くこと、伝わる形に整えることへの徹底したこだわりは、生態史観の平明な文章にも、知的生産の技術の具体性にも、一貫して流れている。梅棹にとって、知を生み出すことと、それを誰もが受け取れる形に開くことは、分かちがたく一つだった。
光を失っても、知は止まらなかった
一九八六年三月十二日、梅棹忠夫は突然、両眼の視力を失った。ウイルスによる球後視神経炎。世界をその目で見ることを何より大切にしてきた探検家にとって、それは想像を絶する試練だったはずだ。だが、ここからの梅棹の姿こそ、彼という人間の強さを最もよく物語っている。
『夜はまだあけぬか』
失明の闘病の日々を、梅棹は『夜はまだあけぬか』に綴った。視力を失ったのち、彼の著述はすべて口述筆記によるものとなる。文字を見ることも書くこともできないなかで、なお考え、語り、知を生み出し続けた。皮肉なことに、自らが視力を失ったことで、梅棹の日本語論はさらに先鋭化した。耳で聞いただけでは区別できない漢語の同音異義語の多さを、彼は身をもって日本語の欠点として痛感し、ローマ字論への確信をいっそう深めていったのである。
闇のなかで、全二十二巻を完成させる
そして驚くべきことに、失明という最大の困難のさなかで、梅棹は生涯の集大成というべき大事業を成し遂げる。一九八九年から刊行が始まった『梅棹忠夫著作集』全二十二巻・別巻一(中央公論社)は、一九九四年に完結した。その大半は、光を失ったあとの口述によって編まれている。さらに日本経済新聞「私の履歴書」に自伝を連載し、加筆して『行為と妄想――わたしの履歴書』としてまとめた。身体の一部を失ってなお、知的生産は止まらない。道具と方法を徹底して考え抜いてきた梅棹だからこそ、声というもうひとつの道具で、思考を外へ出し続けることができたのである。
二人の知性が、日本の未来を語り合った
梅棹忠夫には、生涯にわたる対話の相手がいた。作家・司馬遼太郎である。二人を結びつけたのは、モンゴルへの共通の深い関心だった。
モンゴルが結んだ友情
民族学者としてモンゴルの草原を歩いた梅棹と、騎馬民族の歴史に魅せられた司馬。二人は一九六〇年代から長年にわたって親交を結び、一九六九年以降、七回もの対談を重ねた。文明とは何か、日本とは何か、人類はどこへ向かうのか――専門も立場も異なる二人が、それぞれの知を持ち寄って語り合うその対話は、戦後日本の知的風景のなかでも、ひときわ豊かなものだった。
半世紀先を見ていた対話
注目すべきは、その対話の先見性である。一九八三年の対談で、二人はすでに二十一世紀前半の大きな課題を、少数民族や民族間の問題として捉えていた。グローバル化のなかで民族の問題が世界を揺さぶる現在を、二人は半世紀近く前に見通していたのである。司馬の没後、梅棹はこれらの対話と司馬から届いた手紙、そして追憶を一冊にまとめ、『日本の未来へ――司馬遼太郎との対話』として世に送り出した。失われた友との対話を、未来への贈り物として残す――そこには、知を次の世代へ手渡そうとする梅棹の一貫した姿勢があった。
梅棹忠夫は、未来学者でもあった
民族学者・情報学者・比較文明学者。梅棹忠夫を語る肩書はいくつもあるが、そこにはもうひとつ、未来学者という顔がある。過去と現在を深く読み解いた彼の知は、つねに未来へと開かれていた。
情報産業論という、未来予測
そもそも一九六三年の情報産業論は、来たるべき情報社会を予見する未来論そのものだった。まだ誰も情報社会という言葉を知らなかった時代に、梅棹は産業の重心が情報へと移っていく未来を描き出した。生態史観もまた、文明の長い時間のなかに人類を置き、その行方を見はるかす射程を持っていた。梅棹にとって、現在を深く理解することと、未来を構想することは、分かちがたく結びついていた。
未来を、知の道具とともに
一九七〇年の大阪万博をめぐる知的な構想にも、梅棹は深く関わっている。SF作家の小松左京らとともに、来るべき社会と人類の未来を構想する営みの只中に、彼はいた。未来は、ただ待つものではなく、知をはたらかせて構想するものだ――この姿勢は、後年、日本科学未来館で開かれた展覧会が「ウメサオタダオ展――未来を探検する知の道具」と題されたことにも、よく表れている。探検とは、未知の空間へ踏み出すことであり、未来とは、時間のなかの未踏の地にほかならない。梅棹忠夫は、生涯、未知へと歩み続ける探検家だった。
梅棹文明学が、後世に残したもの
梅棹忠夫の仕事は、しばしば梅棹文明学と称される、独自の体系をなしている。その影響は、学問の枠を越えて、戦後日本の知的風景に広く及んだ。
情報社会論の先駆として
一九六三年の情報産業論は、情報社会という主題を日本でいち早く立てた仕事として、後続のあらゆる情報論の出発点となった。トフラーやマクルーハンといった海外の論者と並び、ときにそれらに先んじて、情報を文明の中心にすえる視座を提示した。情報を身体機能の外化としてとらえる発想は、技術の予測を超えて、情報と人間の関係を根本から問う枠組みとして、いまも参照され続けている。
知的生産という文化を広めた
『知的生産の技術』は、専門家でない一般の人びとに、知的に生きる技術への関心を広く根づかせた。京大式カードは商品化され、多くの読者が自分なりの情報整理術を工夫するようになった。のちには「知的生産の技術」研究会が長年運営され、梅棹はその顧問格として関わった。知的生産という言葉そのものが、日本語の共有財産となったのである。生誕百年を記念して、みんぱくでは「知的生産のフロンティア」と題した企画展も開かれ、梅棹のアーカイブズ資料からその方法の舞台裏が紹介された。
比較文明学という地平
生態史観に始まる文明への問いは、晩年に『近代世界における日本文明――比較文明学序説』として、比較文明学という一つの学問領域へと展開された。日本を世界のなかにどう位置づけるか、文明とは何によって動くのか――梅棹が立てたこれらの問いは、世代を越えて受け継がれている。多方面に多くの影響を与えた、独創的な思想家。それが梅棹忠夫の歴史的な位置である。
文明を、どう測るか
生態史観に始まった文明への問いは、梅棹の晩年、比較文明学という一つの学問領域へと結実していった。二〇〇〇年の『近代世界における日本文明――比較文明学序説』は、その到達点である。
フィールドに足をつけた文明論
文明の盛衰を大きく論じる試みは、梅棹より前にもあった。だが梅棹の比較文明学が異彩を放つのは、それが思弁からではなく、生態学とフィールドワークから立ち上がっている点にある。文明を、抽象的な精神の運命としてではなく、環境のなかで生きる人間の集団が、条件に応じて自律的に変化していく具体的な過程として見る。だからこそ梅棹の文明論は、観念の体操に終わらず、地に足のついた説得力を持った。
「中洋」という発見
梅棹の比較文明学を象徴する概念のひとつが、中洋である。カラコルム探検でアフガニスタンや中東を旅した梅棹は、その地が東洋でも西洋でもない、独自の歴史と論理を持つ世界であることに気づいた。東洋・西洋という二分法では、この広大な中間地帯がこぼれ落ちてしまう。そこで彼は、東と西のあいだに広がる第三の世界を「中洋」と名づけた。これは、世界を東西の二項対立で見る固定観念を崩し、文明をより細やかに、より対称的に見るための視座であり、生態史観の第二地域論とも深く響き合っている。
日本を、世界のなかに置き直す
梅棹が生涯くり返し問うたのは、日本とは何か、という問いだった。一九八六年の『日本とは何か――近代日本文明の形成と発展』では、生態史観の視点から近代日本文明を論じている。日本は、アジアの一国でありながら、なぜ西ヨーロッパとよく似た近代化の道をたどれたのか。東洋の遅れた国でも、特別な例外でもなく、第一地域という生態学的な位置にある社会として日本を見る――この視座は、自国を客観的に、世界のなかの一つの文明として位置づけ直す、新しい自己認識を可能にした。
具体的であること ── 梅棹の手つき
梅棹の知的生産論が、半世紀を超えて読み継がれてきた理由は、それが抽象論ではなく、どこまでも具体的な手つきとして書かれていたからだ。精神論ではなく、技術。これが梅棹の一貫した姿勢だった。
整理と整頓を、はっきり分ける
梅棹は整理と整頓を明確に区別した。整頓とは、ものの見た目をきれいにそろえることだ。だが整理とは、必要なものを必要なときにすぐ取り出せる、機能する仕組みをつくることである。机の上が美しく片づいていても、必要な資料が出てこなければ意味がない。知的生産にとって本質的なのは、見た目の整頓ではなく、はたらきとしての整理だ――この区別は、情報をあつかうすべての人にとって、いまも生きた指針である。
道具を、徹底して考える
梅棹は、ペンやカード、タイプライターといった道具を、おろそかにしなかった。どんな紙に、どんな大きさで、どう書くか。日本語をどう機械で書くか。そうした道具と形式への徹底したこだわりは、彼のローマ字論とも地続きである。思考は、それを支える道具と形式から自由ではない。だからこそ、よい道具とよい形式を選ぶことが、よい知的生産の前提になる。形式が、思考を変える。この洞察が、京大型カードという小さな一枚の紙に込められていた。
抽象的な理念を語るのではなく、明日から机の上で実際にできることを示す。この具体性への信頼こそが、梅棹忠夫の知の作法であり、彼の本がいまも実用書として手に取られ続ける理由なのである。
情報の海のなかで、梅棹を読み直す
梅棹忠夫が予見した情報産業の時代は、いまや私たちの現実そのものだ。だからこそ、彼の三つの柱は、過去の業績としてではなく、現在を生きるための道具として読み直すことができる。
なぜ私たちは、情報に振り回されるのか
スマートフォンを手に、絶え間なく情報を浴び続ける現代。梅棹の情報産業論は、その根本を照らし出す。情報は、感覚器官と脳神経系にはたらきかけ、それを緊張させ、活動させる。情報を取り込むこと自体が、身体的な快なのだ。だから私たちは、必要のない情報すら、つい求めてしまう。情報への欲求は、身体の欲求である――この半世紀前の洞察は、情報があふれかえる時代に、なぜ自分が情報に振り回されるのかを、身体の側から理解させてくれる。
デジタル時代の、こざねとカード
京大型カードとこざね法の原理は、デジタルの世界で、むしろ生き生きとよみがえっている。断片を一つずつ記し、相互にリンクさせ、組み替えて新しい知を育てる――いま世界中で実践されているデジタルなカード型ノート術や、断片を結びつけて思考を育てる手法の核心は、梅棹が紙のカードで示したものと、まったく同じである。形は変わっても、外化し、断片化し、再結合するという方法の原型は変わらない。梅棹の知的生産の技術は、デジタル時代の知的生産論として、いまなお最前線にある。
文明を、生命として見る目
そして生態史観は、グローバル化と環境危機の時代に、もう一つの大切な視点を与える。文明を、誰かが意志して動かす機械としてではなく、環境のなかで自律的に変化していく生命の過程として見る目。この見方は、人間の力を過信せず、しかし環境との関係のなかに変化の可能性を見いだす、しなやかな思考を育てる。文明を生命として見る――梅棹忠夫が遺したこのまなざしは、いまこそ深く必要とされている。
没後も、その知は探検され続ける
二〇一〇年に梅棹忠夫がこの世を去ったのちも、その思想は色あせるどころか、新たな読者と研究者によって読み直され続けている。
展覧会というかたちで
梅棹が初代館長を務めた国立民族学博物館では、写真展「民族学者 梅棹忠夫の眼」が開かれ、彼が世界で撮りためた膨大な写真を通して、その独自のまなざしが再発見された。さらに日本科学未来館では、「ウメサオタダオ展――未来を探検する知の道具」が開催された。知的生産の技術が生んだカードやノートの実物が並び、梅棹の思考の方法そのものが、未来への道具として展示されたのである。
評伝が描く、知の探検家
梅棹の生涯と思想を描く評伝・研究書も、数多く生まれている。山本紀夫『梅棹忠夫――「知の探検家」の思想と生涯』、小長谷有紀『ウメサオタダオと出会う――文明学者・梅棹忠夫入門』、藍野裕之『梅棹忠夫 未知への限りない情熱』、伊藤幹治『柳田国男と梅棹忠夫――自前の学問を求めて』。これらの書物は、梅棹を過去の偉人としてではなく、いまなお問いかけてくる思想家として描き出している。生態史観・情報産業論・知的生産の技術という三つの柱は、半世紀を超えて、なお現役の知であり続けている。
梅棹忠夫を読むための主要著作
膨大な著作のなかから、思想の骨格を成すものを年代順に挙げる。これらはいずれも『梅棹忠夫著作集』(全二十二巻+別巻)に収められている。
梅棹忠夫を取り巻く知の星座
梅棹の思考は、京都という知的土壌のなかで育ち、国内外の思想家と響き合った。その座標を示す。最後の一つは、独立した並行潮流として響き合う現在の実践である。
INTELLECTUAL COORDINATES
TURNING POINT — III
文明・情報・身体を、
一つの視野に収めた。
生態学者として出発し、文明を生命の過程として読み、産業を身体機能の外化として描いた梅棹忠夫。その視座は、いま別の場所で、別の向きから、もう一度結び直されようとしている。
梅棹忠夫を読み解く十四の鍵語
- 生態史観
- 唯物史観でも唯心史観でもなく、生態学の遷移概念を人類史に応用して文明を読む第三の史観。文明を、環境のなかで自律的に変化する過程としてとらえる。
- 第一地域
- 西ヨーロッパと日本。ユーラシアの東西両端の周縁で、温和な環境のなか、外から強いられずに内発的に高度社会を形成した地域。
- 第二地域
- 第一地域にはさまれた大陸部。中国・インド・イスラム圏・ロシアなど。早くに大帝国が成立したが、制度的問題を抱え発展が阻まれた地域。
- 平行進化説
- 西欧文明と日本文明が、互いに連絡もないままほぼ同じあゆみで進化したとする見立て。生物学の平行進化になぞらえた、生態史観の別名。
- 遷移(サクセッション)
- 裸地から草地、低木、森林へと植物群落が自律的に移り変わっていく生態学の概念。梅棹はこれを文明史に応用した。
- 情報産業
- 梅棹の造語。感覚器官と脳神経系にはたらきかける情報を扱う産業。一九六三年、情報社会の到来を半世紀前に予見した。
- 内胚葉・中胚葉・外胚葉産業
- 産業史を生物の三胚葉になぞらえた区分。農業(消化器官)・工業(運動器官)・情報産業(感覚器官と脳神経系)の三段階。
- 情報の文明学
- 情報産業論を軸に、文明を情報の観点から論じたビジョンの集成。文明を身体機能の段階的な外化として描く。
- 知的生産
- 頭をはたらかせて新しい知的情報を生み出すこと。特別な才能ではなく、万人の生活の技術・個人の知的武装として開かれた。
- 発見の手帳
- レオナルド・ダ・ヴィンチの手帳に倣い、日々の発見や着想をその場で文章に書きとめる習慣。知的生産の出発点。
- 京大型カード
- B6判の情報カード。一枚一項目で記し、ならべかえ・組みかえができる外部化された思考装置。「京大式カード」として商品化された。
- こざね法
- 小さな紙片に単語や短文を書き、論理的につながるものを並べてとめ、文章を組み上げる方法。紙片の列が鎧の小札に似ることから命名。
- 博情館
- 梅棹が国立民族学博物館を指して用いた呼び名。ものを並べる博物館ではなく、館全体を情報のかたまりとみなす運営思想。
- 整理と整頓
- 梅棹が区別した二つの概念。整頓は見た目をきれいにそろえること、整理は必要なものを必要なときに取り出せる仕組みをつくること。知的生産では整頓より整理が本質だとした。
- 農業・工業・情報産業の三時代
- 価値の基準の変遷で人類史を三分する見方。価値の基準が、農業生産(石高)から労働とエネルギー、そして個別的な情報へと移り変わるととらえる。
- 京都学派(探検科学)
- 今西錦司を中心に、フィールドワークを第一とする京都大学の学風。ベンゼン核・AACK・人文研の共同研究を通じ、梅棹や川喜田二郎ら方法論者を生んだ。
- ローマ字論・漢字廃止論
- 梅棹が生涯取り組んだ日本語改革論。漢語の同音異義語を欠点とし、文字を簡素にして知を万人へ開こうとした。日本ローマ字会会長も務めた。
- 中動態
- 能動でも受動でもない、行為が自ずと起こる態。梅棹の遷移のまなざしは、文明を「作る/作られる」のどちらでもなく、中動態的に変化する過程として描いた。
- 外化
- 頭のなかの思考や身体の機能を、体の外へと出していくこと。カードによる思考の外化も、文明による身体機能の外化も、梅棹の思想を貫く鍵概念である。
- 比較文明学
- 個々の文明を比較し、その成り立ちと展開を読み解く学問。梅棹が生態史観を基盤として晩年に体系化した領域。フィールドワークに根ざす点に特色がある。
- 探検の時代
- 地図の空白を自らの足で埋めた二十世紀の探検の営み。梅棹にとって探検は冒険ではなく、世界を直接その身で受けとめ考える知の方法だった。
- 中洋
- 東洋でも西洋でもない第三の世界。梅棹がカラコルム探検を経て提唱した概念で、アフガニスタンや中東など、東西のあいだに広がる独自の文明圏を指す。生態史観の第二地域論と響き合う。
- 球後視神経炎(失明)
- 梅棹が一九八六年に両眼の視力を失った原因とされる病。以降の著述はすべて口述筆記となったが、その状況下で著作集全二十二巻を完成させた。
- 口述筆記
- 失明後の梅棹が知的生産を続けた手段。声というもうひとつの道具で思考を外化し、著作集や自伝を生み出した。道具と方法を考え抜いた梅棹を象徴する。
- 未来学
- 未来を予測し構想する知の営み。情報産業論はその先駆であり、梅棹は大阪万博の構想などを通じて、未来を探検する知の実践者でもあった。
- 梅棹忠夫著作集
- 全二十二巻・別巻一(中央公論社、一九八九〜九四)。生態学・モンゴル研究・探検・生態史観・情報学・知的生産の技術まで、梅棹の全仕事を集成した記念碑的著作集。
梅棹忠夫について、よくある問い
梅棹忠夫とは、どんな人物ですか?
生態史観とは何ですか。なぜ画期的なのですか?
第一地域・第二地域とは何ですか?
平行進化説とは何ですか?
情報産業論は、なぜそれほど先駆的だったのですか?
知的生産の技術・京大型カードとは何ですか?
こざね法とは、どんな方法ですか?
国立民族学博物館における梅棹忠夫の役割は何でしたか?
整理と整頓は、どう違うのですか?
梅棹忠夫は、なぜ日本語のローマ字化を主張したのですか?
今西錦司や京都学派は、梅棹にどう影響しましたか?
『知的生産の技術』は、現代でも役に立ちますか?
梅棹忠夫は、失明後もどうやって著作を生み出したのですか?
梅棹忠夫と司馬遼太郎は、どんな関係でしたか?
「中洋」とは何ですか?
梅棹忠夫は、文化身体論の創始者なのですか?
独立した並行潮流として、響き合う四つの点
ここで一点、明確にしておきたい。梅棹忠夫は、文化身体論の創始者でも祖でもない。文化身体論は、一本歯下駄GETTAを開発した宮崎要輔が独自に築いた枠組みである。だが、まったく別の場所から出発した二つの思考が、いくつかの一点で深く響き合うことがある。それは影響関係ではなく、独立した並行潮流としての共鳴である。その響きを四つ挙げる。
響き 一 ── ダ・ヴィンチという同じ祖型
梅棹は『知的生産の技術』の出発点を、レオナルド・ダ・ヴィンチの手帳に置いた。日々の発見をその場で書きとめ、断片を外化し、組みかえる。一方、宮崎要輔の方法はダ・ヴィンチコーディングと名づけられている。二つの思考が、それぞれ独立に、同じ一人の万能人の手つきへたどり着いている。これは偶然の一致というより、断片を外へ出し、結び直すことから新しいものが生まれるという原理が、領域を越えて同じ形に収束したことの証である。複数の領域が同じ結論に行き着くのは、重複ではなく、本質がそこにあることの証拠だ。
響き 二 ── 身体で文明を読む、ただし向きは逆
梅棹は文明を、身体機能が外へ広がる過程として読んだ。農業=消化器官、工業=運動器官、情報=感覚器官と脳神経系。ここで重要なのは、梅棹の文明史が外胚葉=脳神経系の外化を、文明の到達点として上に置く構図になっていることだ。すなわち、梅棹のまなざしは大脳の側へと向かって登っていく。
文化身体論は、まさにその逆の向きをたどる。足裏から鳩尾へと降りていき、大脳的な制御から小脳的な身体へ、筋肉の固定から腱優位の弾みへと、身体の深部へ向かう。梅棹が身体を文明へと外化して登ったその同じ階段を、文化身体論は身体そのものへと降りていく。身体を尺度にするという共通の発想を持ちながら、向きが正反対である――この対照こそが、二つの潮流が独立であることの何よりの証しでもある。
響き 三 ── 引いて、原型を指し示す
こざね法は、紙片を並べ、つながるものをとめ、不要なものを取り除いて、一本の線を残す方法である。素材を足していくのではなく、出そろった断片から余分を引いて、本質の流れを浮かび上がらせる。これは、宮崎要輔が語る「足さない・引く・原型を指し示す」という言葉の手つきと、深いところで通じている。新しいものは、付け加えることからではなく、削り、並べ替え、すでにあるものの原型を指し示すことから生まれる。方法の根が、響き合っている。
響き 四 ── 遷移と、中動態
梅棹の生態史観は、文明を、誰かが能動的に建てるのでも、外から受動的に作られるのでもなく、環境のなかで自律的に変化していく過程として描いた。これは能動でも受動でもない、中動態的な変化の見方である。文化身体論もまた、一本歯下駄を履いて立つとき、身体が「鍛える」のでも「鍛えられる」のでもなく、その間で自ずと変わっていく中動態の領域を語る。文明のスケールで遷移を見た梅棹と、身体のスケールで中動態を見る宮崎要輔。スケールは違えど、能動と受動のあいだにある変化の文法を見ているという一点で、二つは確かに響き合う。
思想から実践へ ── 四つのサイトを巡る
梅棹忠夫の文明論が国立民族学博物館という制度に結実したように、文化身体論もまた、思想・実践・製品・指導者という四つの場へと展開している。それぞれの入り口を示す。
梅棹忠夫から、文化身体論へ
梅棹忠夫が身体を尺度に文明を読んだその先で、文化身体論は身体そのものへと降りていく。GETTA思想図鑑の他の巨人たち、そして文化身体論の中核へと、歩みを進めてほしい。
REFERENCES — 外部参照(一次資料・公的機関)
- 国立民族学博物館(みんぱく)公式サイト ── www.minpaku.ac.jp:梅棹忠夫が初代館長を務めた研究機関。
- 梅棹忠夫アーカイブズ(民族学研究アーカイブズ・略年譜) ── nmearch.minpaku.ac.jp:詳細な年譜と一次資料。
- 国立国会図書館サーチ ── ndlsearch.ndl.go.jp:『文明の生態史観』『知的生産の技術』ほか著作の書誌。
- CiNii Research ── cir.nii.ac.jp:生態史観・情報産業論に関する学術論文の検索。
梅棹忠夫とは
重要概念辞書
- 文明の生態史観
- 1957年2月号『中央公論』初出の比較文明論。ユーラシア大陸を生態学的に区分し、乾燥地帯東西の第1地帯(日本・西欧)が内発的に近代化するという平行進化モデルを提示。西洋中心史観を生態学的手法で相対化した。単行本は1967年、中央公論社。
- 知的生産の技術
- 1969年、岩波新書(青版 722)刊。思考・創造を「技術」として身体に定着させる実践論。京大式カード(B6規格統一のカード)とこざね法(カードを物理的に切り並べて構造化する手法)を核とし、知識を受け取るのではなく「生産する」立場を確立した。
- 情報産業論
- 1963年1月、『放送朝日』掲載(その後『中央公論』に転載)。「情報産業」という語を日本で初めて提唱し、「工業の時代」から「情報産業の時代」への文明的移行を予見。アルビン・トフラーの『第三の波』(1980)より17年先行する情報化社会論の先駆。
- 国立民族学博物館(みんぱく)
- 梅棹忠夫が主導して1974年に大阪・万博跡地(吹田市)に創設した国立博物館。梅棹は初代館長として1974〜1993年まで理念と運営を担った。世界の民族文化・物質文化を系統的に展示・研究する博物館として国際的評価が高い。公式: https://www.minpaku.ac.jp/
- 京大式カード
- 梅棹が『知的生産の技術』で提唱したカード式情報整理システム。B6サイズで規格を統一し、一枚一情報の原則で記録・蓄積する。カードを物理的に並べ替えることで思考の構造化(こざね法)が可能になる。現代のカード型PKM(Personal Knowledge Management)の原型。
- 比較文明論
- 梅棹が生態学・民族学を横断して構築した方法論。単一の発展段階論ではなく、各文明が置かれた生態的環境への応答として固有の形態を持つと捉える。文明を「自然物」と同じ観察眼で分析し、西洋・非西洋の二項対立を解体した。
深掘りQ&A
梅棹忠夫は何の「学者」なのか?民俗学者と呼ばれることがあるが正確か?
民俗(folk)学者ではなく「民族学者(ethnologist)」である。民俗学が国内の民間伝承・風俗を研究するのに対し、民族学は世界各地の民族・文化を比較研究する。梅棹は京都大学理学部(動物生態学)出身であり、生態学的方法論を文明・民族研究に持ち込んだ点が独自性の核心。加えて比較文明学・情報産業論も体系化しており、一語で括るなら「民族学者・比較文明学者」が正確。
『文明の生態史観』はどこが画期的だったのか?
当時の文明論の主流は「西洋が先行し、他の文明が追随する」という単線的発展史観だった。梅棹は生態学の「ニッチ」概念を援用し、日本と西欧が類似した生態的環境(大陸の東西端・乾燥地帯に隣接しない第1地帯)に置かれているがゆえに平行して近代化したという「生態的平行進化論」を提示。日本の近代化を「西洋の模倣」ではなく「独自の環境応答」として再定義した点で、戦後の日本知識人に衝撃を与えた。
『知的生産の技術』はなぜ半世紀後も読まれるのか?
デジタルツールが存在しない1969年に「情報の収集→記録→構造化→発信」という知的生産のプロセスを身体的操作(手書き・物理カード)として体系化した点にある。カード一枚一情報の原則・こざね法による構造化・原稿の書き方といった実践論は、現代のPKM(Obsidian・Zettelkasten等)の直接の原型である。「知は身体を通じて生産される」という梅棹の立場が、デジタル時代に改めて再評価されている。
「情報産業」という言葉は梅棹が作ったのか?
そのように広く認識されている。1963年1月、梅棹が『放送朝日』誌上で発表した「情報産業論」の中で「情報産業」という語を使用し、それが『中央公論』転載によって広まった。当時はまだコンピュータも一般化していない高度成長の只中であり、「情報」を産業として捉えるビジョンは時代に対して17〜20年先行していた。
梅棹忠夫とGETTA・一本歯下駄の思想はどこで交わるか?
二本の軸で交わる。第一に、『知的生産の技術』が提示した「知を身体技法として定着させる」という方法論は、GETTAの転移する文化資本論——実践の反復がハビトゥス(身体化された知覚構造)を形成するという命題——の文脈で読み直せる。カードを手で並べる行為が思考を生み出すように、一本歯下駄の歩行が神経回路を再配線する。第二に、生態史観の「環境応答による文明変容」という論理は、GETTAの『鍛えるな育てよ』のテーゼ——身体は制御でなく環境との応答関係の中で変容する——と同型の構造を持つ。