ルース・セント・デニス
「神聖なる踊り手(Divine Dancer)」「ミス・ルース」と呼ばれた女神。
エジプトの神イシスのポスター一枚から人生を変え、
東洋の神話と宗教を西洋の舞踊に翻訳し、デニショーン舞踊学校から
マーサ・グラハム、ドリス・ハンフリー、チャールズ・ワイドマンを世界へ送り出した、アメリカン・モダンダンスの母。
「私たちは身体の中にいるのではない——身体が私たちの中にあるのだ、ということを、
鮮明で革命的な意味で認識しなければならない。」 — ルース・セント・デニス
三分でわかるルース・セント・デニス
ルース・セント・デニスは、イサドラ・ダンカンと並ぶ「アメリカン・モダンダンスの母」のひとり。彼女の歩んだ六十数年の舞踊人生は、三つの相に分けて理解できる。
ヴォードヴィルから神話へ(1879–1914)
ニュージャージーの農場で、医師の母から幼少期にデルサルトの身体表現法を仕込まれる。ニューヨークのヴォードヴィル舞台、デイヴィッド・ベラスコ劇団を経て、1904年バッファローのドラッグストアで一枚のポスター——「エジプト・ディーティーズ」煙草の広告に描かれた女神イシス——を見て稲妻のように覚醒。1906年『ラーダー』初演で世界の舞踊地図を塗り替える。
デニショーン帝国(1914–1931)
1914年、12歳年下のテッド・ショーンと結婚。1915年、ロサンゼルスにデニショーン舞踊学校設立。インド・エジプト・日本・スペイン・ネイティブアメリカン・ハワイ・ジャワ——あらゆる文化を統合した折衷主義の総合舞踊カリキュラム。マーサ・グラハム(1916入学)、ドリス・ハンフリー、チャールズ・ワイドマン、ルイーズ・ブルックスらを輩出。アジアツアー(1925-26)含む大規模巡業を世界中で展開。
神聖舞踊への帰還(1931–1968)
1931年デニショーン解散。ショーンとは別居しつつ離婚せず、互いに別の道を歩む。1931年「精神芸術協会(Society of Spiritual Arts)」設立、1947年「神聖舞踊教会(Church of the Divine Dance)」をハリウッドに開設、舞踊ミサを執行。1938年アデルフィ大学に米国大学初期の舞踊学科を設立。1966年87歳で最後の公演。1968年7月21日、89歳で永眠。生涯踊り続け、自伝のタイトルどおり「未完の生」のまま去った。
生涯のタイムライン
ニュージャージー農場のデルサルト体操から、ハリウッドの神聖舞踊教会まで——89年の旅程。
ニュージャージーに誕生
1月20日、ニューアーク近郊のイーグルウッド芸術家・知識人共同体に生まれる。父トマス・ラバン・デニス(発明家・機械工)、母ルース・エマ・ハル・デニス(医師)。両親は未婚。母エマは1872年に修士論文「Vis Medicatrix Naturae(自然の癒しの力)」で自然療法を主張した、当時希少な女性医師だった。
幼少期、デルサルト体操との出会い
医師の母が幼いルースにフランソワ・デルサルトの「社会体操と声楽文化」のシステムを直接指導。「頭部=精神、心臓=魂、四肢=生命」という心身対応の哲学が、終生の身体観の根を作る。1886年バーナム・サーカスの『ネロとローマの破壊』を観劇、神智学者メイベル・クックの『白蓮華の物語』を読む。
スティービンズの公演、ボンファンティのバレエ
アメリカ・デルサルト運動の旗手ジニーヴィーヴ・スティービンズの公演を観て決定的影響を受ける。イタリア人バレリーナ、マリア・ボンファンティにバレエを学ぶ。スカートダンスとソーシャルダンスにも親しんだ。
プロデビュー、最初のソロ
ニューヨーク・ワース美術館で「スカートダンサー」として職業デビュー。1日11回も公演する過酷な日々。1893年、母が制作した劇で初のソロを踊る。
ヴォードヴィル時代、デイヴィッド・ベラスコ劇団
ブロードウェイの大物プロデューサー、デイヴィッド・ベラスコの巡業劇団に雇われる。彼が「サン・デニス(Saint Denis)」という芸名を与え、後に「セント・デニス(St. Denis)」となる。劇場美学を学ぶ重要な時期。
バッファローのポスター事件
ベラスコの『マダム・デュ・バリー』巡業中、ニューヨーク州バッファローのドラッグストアで「エジプト・ディーティーズ」煙草の広告ポスターを見る。神殿で玉座に座るエジプト女神イシスの像。「私の人生はその瞬間に変わった」と後に書く。これがあらゆる東洋舞踊探究の起点となった。
独立、芸名「セント・デニス」確立
ベラスコ劇団を離れソロ・アーティストに。最初のヨーロッパ・ツアーを開始。図書館の本、コニーアイランドのインド人移民、写真、サイドショー、母の宗教書から、東洋イメージを集めて作品創作を始める。
『ラーダー』ニューヨーク初演
1月28日、ニューヨーク・シアターで『ラーダー(Radha)』正式公開初演。レオ・ドリーブのオペラ『ラクメ』の音楽による、インドの牛飼い娘とクリシュナ神の物語。コニーアイランドのヒンドゥー人三人をエキストラに、五感を象徴する道具に囲まれて踊った。同時に『コブラ(The Cobras)』『香煙(Incense)』を発表。彼女のソロ・ダンサーとしてのキャリアが幕を開ける。
三年間のヨーロッパ大成功ツアー
ロンドン、パリ、ベルリン、ウィーン、ミュンヘン——ヨーロッパで爆発的成功。特にウィーンとドイツで熱狂。『ノーチ』『ヨギ』を加える。ケルンのルートヴィヒ美術館には彼女の裸体ブロンズ像が現在も常設展示されている。
ハドソン劇場で『サロメ』
ブロードウェイのハドソン劇場で『サロメ』を踊る。「サロメ熱(Salomania)」が全米を席巻していた時代、批評家は「彼女はあらゆるサロメを超サロメ化した」と書いた。
ニューヨークの夜の主役、『エジプタ』初演
ニューヨーク劇場で「夜のメイン・スター」を務めた最初のソロ・ダンサーとなる。長く構想を温めてきた『エジプタ(Egypta)』を初演。エジプト史を踊りで再現する野心作。
マーサ・グラハム、運命の観劇
17歳のマーサ・グラハムがロサンゼルス・メイソン・オペラハウスでセント・デニスの『エジプタ』を観る。後に「人生が変わった瞬間」とグラハム自身が記す、20世紀舞踊史を決定づけた一夜。同年、デンバーで19歳のテッド・ショーンがセント・デニスの公演を観て同じく「芸術的恋愛」に陥る。
『O-Mika(オーミカ)』日本舞踊作品初演
日本の能を研究して創作した『O-Mika』を初演。日本伝統美の翻案として、太陽女神アマテラスの伝説を舞踊化。アメリカで上演された最初期の本格的「日本テーマ舞踊」のひとつ。
テッド・ショーンとの結婚
8月13日、12歳年下のショーンと結婚。結婚式の誓いから「従う(obey)」の語を削除させ、結婚指輪も拒否した。新婚旅行は二人の合同公演ツアー。サラトガ・スプリングスからサンフランシスコまで、ショーンの『短剣の踊り(Dagger Dance)』とセント・デニスのソロを携えて。
デニショーン舞踊学校設立
ロサンゼルスのセントポール通り600番地に「ルース・セント・デニス舞踊学校(Ruth St. Denis School of Dancing and Its Related Arts)」を開校。同年2月、ポートランドのチケット販売キャンペーンで「The Denishawn Rose Mazurka」という愛称が生まれ、これが正式名「デニショーン(Denishawn)」となる。
マーサ・グラハム入学
22歳のマーサ・グラハムがデニショーンに入学。1923年まで在籍し、後に主要な振付作品『ソチトル(Xochitl)』『セレナータ・モリスカ』で主演。ルース自身は「彼女は寡黙だが、知的な質問をする生徒だった」と回想した。同年、エジプト・テーマの舞踊集を制作、グリフィス監督『イントレランス』にデニショーン・ダンサーが出演。
ドリス・ハンフリー入学
22歳のドリス・ハンフリーがデニショーンに入学、すぐにカンパニーに迎えられる。これによりデニショーンは20世紀モダンダンスの中核を占める三人——グラハム・ハンフリー・ワイドマン——のうち二人を擁することになる。
チャールズ・ワイドマン入学、ニューヨーク移転
19歳のチャールズ・ワイドマンが奨学金でデニショーンに入学。本拠をニューヨーク市に移転、全米十数都市に支部を持つに至る。「The Greater Denishawn」の構想が具体化していく。
ルイーズ・ブルックス入団、全米293都市ツアー
15歳のルイーズ・ブルックス(後の無声映画スター)が二季にわたりデニショーン・カンパニーに参加。1923年、グラハムが『ソチトル』で主演。1925年、全米293都市・100万人以上の観客を動員する大規模ツアーを敢行。
アジア大ツアー
日本、中国、インド、ビルマ、ジャワ、シンガポール、フィリピンを含む15か月のアジア・ツアー。これは現代舞踊史上初の本格的アジア巡業であり、欧米モダンダンスがアジアを直接視察した記念碑的旅。日本では舞妓・能・歌舞伎を実地調査、中国では京劇を観た。アメリカ舞踊と東洋の対話の真の出発点となる。
グラハム独立
マーサ・グラハムがデニショーンを離れ、ニューヨークで独自のカンパニーを設立。アメリカ・モダンダンスの第二世代の幕開け。続いて1928年、ハンフリーとワイドマンも独立し独自の活動を開始。
デニショーン解散
セント・デニスとショーンの破局によりデニショーン解散。カーネギーホール最終公演後、ルースは観客には謝意を述べたがテッドへの感謝を述べず、ショーンは深く傷ついた。学校の小道具・衣裳をデニショーン・ハウスの裏で焼却。「the cradle of American modern dance」は十六年の生命を終えた。二人は離婚はせず生涯互いに尊敬を保つ。
精神芸術協会の設立
ニューヨークで「精神芸術協会(Society of Spiritual Arts)」を設立。舞踊を礼拝の道具とすることを目指す。「リズミック・コアー(Rhythmic Choir)」と呼ばれる宗教的舞踊団も再編。マリア像になることを、かつて女神を体現したのと同じ仕方で目指したと評される。
詩集『蓮の光(Lotus Light)』刊行
ホートン・ミフリン社より詩集『Lotus Light』刊行。「Dance Divine」「Calling」などの精神的詩。彼女の宗教的・神秘主義的世界観の集約。
アデルフィ大学に舞踊学科設立
ニューヨーク州アデルフィ大学に米国大学最初期の舞踊プログラムを設立。これは現在も同大学パフォーミングアーツ学科の中核として続いている。「ダンスは大学で学ぶに値する芸術である」というメッセージを制度化した功績。
自伝『未完の生(An Unfinished Life)』刊行
ハーパー・アンド・ブラザーズ社より自伝『Ruth St. Denis: An Unfinished Life』刊行。幼少期から五十代までの人生を、彼女自身の言葉で語る。多分に自己美化を含むが、彼女が芸術と人生をいかに精神的に統合しようとしたかの一次資料。
ナタヤ学校共同設立
第二の学校としてナタヤ学校(Natya School)を共同設立、オリエンタル・ダンス指導に注力。長年カエンガ大通り西3433番地(ユニヴァーサル・シティ近く)の自身のスタジオで教え続けた。
ジェイコブズ・ピローでテッドと再会
テッド・ショーンが買い取ったマサチューセッツ州ベケットの「ジェイコブズ・ピロー(Jacob’s Pillow)」舞踊フェスティバルに招かれ、デニショーン解散後初めてショーンと共演。ハンフリー、ワイドマンらかつてのデニショーン仲間も集い、感動的な再会公演となった。
神聖舞踊教会設立
ハリウッドに「神聖舞踊教会(Church of the Divine Dance)」を設立。舞踊ミサと宗教儀礼を執行。「ダンスは礼拝である」という彼女の生涯の確信が、ついに教会という形を取った。
バリ島影絵芝居の8時間上演
9月16日、興行師レイモンド・D・ボーマンと組み、自身のスタジオでバリ島の影絵芝居(ワヤン・クリ)を8時間以上連続上演。米国初のワヤン・クリ完全上演。
テッドと金婚式の二重舞踊
ショーンとの結婚50周年(金婚式)を記念し、二人で『Siddhas of the Upper Air』を踊る。ゆっくりとした上昇のデュエット。ルース後年「テディは死ぬほど怖がっていた。私は何も考えなかったから怖くなかった。でも二人とも眼鏡なしでは何も見えなかったの」と笑った。
最後の公演、87歳
87歳で最後の舞台。米国モダンダンス史上最長の現役期間。生涯踊り続けた彼女の身体は、最後まで「未完」のままだった。
永眠
7月21日、ロサンゼルスのハリウッド長老教会病院で心臓発作のため永眠、享年89歳。テッド・ショーンは彼女の死を悼み「ルース・セント・デニスは何年も前にすでに不滅となった。本当のルース・セント・デニスは今も生きており、これからも生き続ける——真理のための勇敢な十字軍、美のために闘う建設的な力、人類全体を癒す力として」と書いた。
米国国立舞踊博物館 殿堂入り
国立舞踊博物館コーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニー記念殿堂に登録。「アメリカン・モダンダンスの母」としての地位が公式に確認された。
『ラーダー』百周年復元公演
9月29日、ボルチモア美術館で『ラーダー』百周年記念復元公演。ギリシアのアナスタシア・タマキス伯爵夫人の委嘱、ミノ・ニコラス監督。同時に『香煙』『孔雀の伝説』など初期ソロ作品も上演された。
セント・デニス舞踊思想の三本柱
体系的な理論書を残さなかったセント・デニスの思想は、彼女の自伝、詩、講演、未発表原稿、そして弟子たちの証言に散らばる。だが、それを貫く三つの主旋律は明確に取り出すことができる。
1. 「自己のなかの宇宙」——東洋の翻訳としての舞踊
伝記作家スーザン・シェルトンの卓抜な定式によれば、ダンカンが「宇宙のなかに自己を求めた(the Self in the Universe)」のに対し、セント・デニスは「自己のなかに宇宙を求めた(the Universe in the Self)」。インド、エジプト、日本、バビロン、バリ、ハワイ——彼女が舞台に呼び寄せた異郷は、外部への憧憬ではなく、自分の身体を媒介として宇宙を内側に呼び寄せる装置だった。「舞踊翻訳(dance translations)」と彼女自身が呼んだこの試みは、文化の正統性ではなく、身体を通じた精神的経験の交換を目指していた。
2. 「身体は精神の宿」——デルサルト的心身一元論
医師の母から受け継いだフランソワ・デルサルトの教えは、彼女の身体観の根である。デルサルトの体系では、身体は「頭部=精神」「心臓=魂」「四肢=生命」の三領域に対応し、姿勢のひとつひとつが内的状態を表現する。セント・デニスはこれをジニーヴィーヴ・スティービンズの公演で目撃し、「彫刻のようなポーズ」「物語と詩を描くパントマイム」として身体化した。彼女の有名な言葉——「私たちは身体の中にいるのではない、身体が私たちの中にあるのだ」——は、デルサルト的な身体観の極限の表現である。
3. 「舞踊は礼拝である」——神聖芸術への昇華
彼女の舞踊論の最終的な命題は宗教的である。ダンスは娯楽でも技巧の誇示でもなく、神聖との交感の場であるべきだとした。1931年「精神芸術協会」、1947年「神聖舞踊教会」の設立、リズミック・コアー、舞踊ミサ——これらすべては、舞台芸術を礼拝の身体行為へ回帰させる試みだった。批評家ジャネット・リン・ローズマンの『舞踊は彼女の宗教だった(Dance was her Religion)』は、ダンカン、セント・デニス、グラハムの三人を「神聖舞踊の振付家」として並置する。
— ルース・セント・デニス
セント・デニス舞踊の語彙
英語圏の主要研究書、彼女の自伝、講演録、デニショーン関連資料、そして米国・日本の論考から、セント・デニスの舞踊と人生を解読する鍵概念を厳選した。
舞踊翻訳
彼女自身が用いた自己定義。インド、エジプト、日本、バビロンといった異文化の宗教的・神話的世界を、自分の身体と西洋音楽・舞台技術によって「翻訳」する試み。文化人類学的な正統性ではなく、霊的経験の媒体としての翻訳が目的だった。
自己のなかの宇宙
伝記作家スーザン・シェルトンによる定式。ダンカンが「宇宙のなかに自己を求めた」のに対し、セント・デニスは「自己のなかに宇宙を求めた」。これは二人を分ける最も簡潔で深い区別であり、両者をモダンダンスの母と並び立たせつつ別の道を行く理由である。
エジプト・ディーティーズ
1904年バッファローのドラッグストアで彼女が見た煙草の広告ポスター。神殿の玉座に座る女神イシスの姿。この一枚が彼女の舞踊人生を決定づけた。「ある瞬間、私の人生は変わった」。20世紀舞踊史で最も有名な「広告との邂逅」。
五感の神秘舞踊
1906年初演『ラーダー』の核心。鈴(聴覚)、花(嗅覚)、ワイン(味覚)、宝石(視覚)、手のひらのキス(触覚)——五感を舞台上の象徴として配置し、それぞれを身体で順次「感覚」していく構造。観客は20分間沈黙の後に拍手喝采したと伝わる。
デルサルト・システム
フランソワ・デルサルト(1811-1871)の身体表現法。「頭部=精神」「心臓=魂」「四肢=生命」の対応原理に基づき、姿勢・身振りで内的状態を表現する。母エマ・デニスから幼少期に直接学んだ、彼女の身体観の遺伝子。
スティービンズの彫刻ポーズ
アメリカ・デルサルト運動を代表する女性指導者ジニーヴィーヴ・スティービンズ。1890年代のニューヨークで彼女の公演を観たセント・デニスは衝撃を受け、「彫刻のように静止し、詩と物語を描くパントマイム」を学んだ。これがセント・デニスの舞踊言語の祖型となる。
音楽視覚化
デニショーン期にセント・デニスが体系化した独自の振付法。音楽そのものを身体で「可視化」する試み。物語性を排し、楽曲の構造・旋律・リズムを直接動きに変換する。ドリス・ハンフリー振付『翔ぶ(Soaring)』はこの哲学の代表例。後の抽象モダンダンスの遠い先駆。
折衷主義
デニショーン教育法の根本原理。「あらゆる舞踊技法は有効であり教育的である(all dance techniques were valid and instructive)」とする立場。バレエ、東洋舞踊、スペイン舞踊、ネイティブアメリカン舞踊、ダルクローズ・ユーリトミックス、デルサルト体操——全てを統合的に教えた。
霊妙な存在感
ジェイコブズ・ピローのアーカイブが用いる表現。「ミス・ルースの公演はその際立った舞台存在感によって特別だった」。彼女のソロは衣裳・小道具・カリスマと、舞踊の神秘的力への深い信仰を必要とする。これゆえ正確な再現は極めて困難である。
オリエンタリズム批判
現代舞踊学では、セント・デニスの「東洋舞踊」は文化的に正確ではなく、エドワード・サイード以降の概念で言う「オリエンタリズム」(西洋による東洋の幻想化)の典型例とも論じられる。フィオレラ・ロペス論文『The West’s assumption of the East』(2018)等が代表的批判研究。同時に彼女が西洋人の眼差しを舞台上で実演した事実こそ、20世紀文化史の重要な記録でもある。
コブラ/ナーガ
1906年のソロ短編。腕をコブラに、両手の指輪を蛇の眼に見立てて踊った傑作。インド神話のナーガ(蛇神)信仰を、女性の腕と手の繊細な動きへと昇華。これが後にビルマ舞踊から学んだ「S字カーブの腕」と統合され、デニショーン舞踊の特徴的な手腕の動きを形成した。
手と腕の舞踊
インド古典舞踊の「ハスタ・ムドラー(手印)」、ビルマ舞踊の「S字カーブの腕」を吸収し、指の小さな投げるような動き、手首の小さな円運動を体系化。マーサ・グラハムを含む弟子たちは、この「手と腕からの表現」を継承し、それぞれの技法に組み込んだ。
ジャージー・ヒンドゥー
アメリカの一部の批評家が彼女に与えた揶揄的綽名。「ニュージャージー出身のヒンドゥー教徒もどき」の意味。米国観客が当初彼女のインド舞踊翻案を地元バーレスクのベリーダンサーと比較し、嘲った時代の歴史的記憶。
エジプタ
1910年初演の大作。長年構想してきた「エジプト史を一夜の舞踊で再現する」野心作。これを観たマーサ・グラハム少女が「人生を変える経験」をしたことで、20世紀後半の舞踊史を決定的に方向づけることになった。
O-Mika(オーミカ)
1913年初演の日本テーマ作品。日本の能を研究して創作され、太陽女神アマテラスの伝説を踊った。NYPLジェローム・ロビンス舞踊部門アーカイブには「O-Mikaの太陽女神の伝説」と題された写真が現存。米国での最初期の本格的「日本テーマ舞踊」。
ラーダー
1906年初演、彼女の出世作。インドの牛飼い娘ラーダーが、クリシュナ神の神秘体験を経て世俗を超越する物語。ドリーブ『ラクメ』の音楽による。彼女自身は「インド美術についての私の知識のすべての寄せ集め」と回想した。
七つの門のイシュタル
1923年初演。バビロニアの女神イシュタルが冥府の七つの門で衣をひとつずつ脱ぎ捨てる、メソポタミア神話を舞台化した大作。サロメ伝説と並行する女神の七つのヴェールの踊り。彼女の東洋探究の頂点のひとつ。
サロメ
1909年ハドソン劇場で踊った『サロメ』。「サロメ熱(Salomania)」の絶頂期、批評家は「彼女はあらゆるサロメをアウト・サロメイングした」と書いた。リヒャルト・シュトラウスのオペラと並ぶ、20世紀初頭サロメ像の代表表現。
海の精/白玉
『海の精』『白玉』など中国インスパイア作品群。1925-26年アジア・ツアー中に深化された連作。中国の女神・観音や白玉の精として、東洋的な静謐と女性原理を踊った。
アンコール・ワット
アジア・ツアー中にカンボジアのアンコール・ワット遺跡から霊感を得て創作した連作。「私は包囲された都市である(I am a beleaguered city)」というシェルトン伝記の章題は、晩年セント・デニスの心境とアンコール・ワット作品を重ねている。
バビロン
『七つの門のイシュタル』を含むバビロニア・テーマ群、そして1919年グリフィス映画『バビロンの陥落』への振付出演。古代メソポタミアは彼女の重要な創造領域だった。
テッドルース
彼女とテッド・ショーンの夫婦愛称。シェルトン伝記の章題のひとつ。「ルース・セント・デニス=テッド・ショーン」という二位一体の存在として、デニショーンの全期間を貫いた。離婚せず生涯互いを尊重した稀有な芸術家夫婦。
リズミック・コアー
デニショーン解散後、1930年代に再編した宗教的舞踊団。聖歌隊が声で礼拝するように、舞踊で礼拝する集合体。「マリア像になることを、かつて女神を体現したのと同じ仕方で目指した」とケリー・メイヨーは指摘する。
神聖舞踊教会
1947年ハリウッドに設立した教会。舞踊ミサと宗教儀礼を執り行った。米国宗教史と舞踊史が交差する稀有な制度的試み。「ダンスは礼拝である」という命題が、ついに教会という制度を獲得した瞬間。
アデルフィ大学舞踊学科
1938年設立。米国の大学に最初期に設けられた舞踊学科のひとつ。「ダンスは大学で学ぶに値する芸術である」というセント・デニスの確信を制度化した。現在もアデルフィ大学パフォーミングアーツ学科の中核。
ジェイコブズ・ピロー
マサチューセッツ州ベケットにテッド・ショーンが買い取った農場と、そこで創設された米国最古の舞踊フェスティバル。デニショーン解散後の二人の再会の地(1941)であり、現在も世界舞踊文化遺産。セント・デニスは生涯何度もここで踊った。
ナタヤ学校
1940年共同設立。「ナタヤ」はサンスクリット語で「舞踊」「演劇」「神聖な動き」を意味する。オリエンタル・ダンス専門の学校として、デニショーンの東洋舞踊探究を継承した。
未完の生
1939年自伝の題名。彼女の人生哲学そのものを表す一語。「完成」を拒み「途上」であり続けることを選んだ生き方。87歳で最後の公演、89歳で永眠——文字通り未完のまま舞踊界を去った。
手と腕の長寿
ルース89歳、グラハム96歳、ショーン80歳、ワイドマン73歳——デニショーン主要メンバーの驚異的な長寿は、手と腕を中心とする上半身の表現を生涯の鍛錬の核に置き、デルサルト原理に基づく心身統合的アプローチを実践した結果と分析される。「新鮮な空気、自由な身体、健康的な生活」を学校の哲学とした。
「身体が私たちの中にある」
セント・デニスの最も哲学的な命題。「私たちは身体の中にいるのではない、身体が私たちの中にあることを、鮮明で革命的な意味で認識すべきだ」。これはデカルト的身体観——精神が身体を所有するという発想——を反転させ、身体の方が広大で精神を内包する場であるとする身体存在論。20世紀身体論の隠れた源泉のひとつ。
残された言葉と動き
セント・デニスは半世紀以上にわたって創作と教育を続けた。代表的な振付・著作・遺産を四群に分けて見渡す。
Ⅰ. 初期ソロ(東洋翻訳期 1906–1914)
ラーダー
彼女の出世作。ヒンドゥー神話の牛飼い娘とクリシュナ神の物語。五感の象徴に囲まれて踊る神秘舞踊。1月28日ニューヨーク・シアター初演。
コブラ(蛇舞)
『ラーダー』と同時期初演の短編。腕をコブラに、両手の指輪を蛇の眼に見立てた傑作。今日も復元上演される代表ソロ。
香煙
同じく1906年のインド霊感ソロ。香炉を捧げ持ち、立ち上る香煙そのものに身を成す踊り。2006年ボルチモア美術館で復元上演。
ノーチ/ヨギ
ヨーロッパ・ツアー中に追加されたインド・テーマ・ソロ。ノーチ(インドの寺院舞踊)とヨーギ(修行者)の二作で、ウィーンとドイツでの大成功を支えた。
サロメ
ハドソン劇場初演。サロメ熱の絶頂期、批評家は「あらゆるサロメを超サロメ化した」と讃えた。20世紀初頭のサロメ像の代表。
エジプタ
エジプト史を踊りで再現する野心的大作。1911年ロサンゼルスでこれを観た17歳のマーサ・グラハムが「人生を変える経験」をした。
O-Mika(オーミカ)
日本の能を研究して創作。太陽女神アマテラスの伝説を舞踊化した、米国初期の本格的日本テーマ舞踊。NYPLに写真記録あり。
孔雀の伝説
インドの孔雀伝説からの霊感作。羽を広げる女性の優美と荘厳。2006年百周年記念に復元上演された。
Ⅱ. デニショーン期の代表作(1915–1931)
大地の耕作者
セント・デニスとショーンのエジプト・テーマ・デュエット。同年のエジプト舞踊集の中核。
七つの門のイシュタル
バビロニア神話、女神イシュタルが冥府の七つの門で衣を脱ぎ捨てていく大作。彼女の東洋探究の頂点のひとつ。
アンコール・ワット作品群
アジア・ツアー中、カンボジア訪問の霊感から創作。デヴァター(天女)の彫刻が動き出すような作品群。
白玉
中国・観音をテーマにしたソロ。アジア・ツアーで日中観音信仰を視察したのち深化された作品。
音楽視覚化シリーズ
物語性を排し、音楽そのものを身体で可視化する独自の振付法を体系化。後の抽象モダンダンスの先駆。
『イントレランス』振付
D.W.グリフィス監督の映画大作。デニショーン・ダンサーが古代バビロン場面で振付・出演。映画史上初の本格的舞踊振付プロジェクトのひとつ。
Ⅲ. 著作・詩集
舞踊の未来についての試論
『International Studio』誌1921年11月号掲載。デニショーン期の舞踊論を凝縮した重要論考。彼女の宗教的舞踊論の早期表明。
蓮の光
詩集。「Dance Divine」「Calling」など神聖舞踊への詩的瞑想。彼女の宗教的・神秘主義的世界観の集約。
未完の生(自伝)
幼少期から五十代までを彼女自身の言葉で語る自伝。多分に自己美化を含むが、芸術と人生をいかに精神的に統合しようとしたかの一次資料。
未発表霊性原稿
「世界平和のダンス(Dances of Universal Peace)」が引き継ぐ、霊的舞踊と身体の神秘主義に関するセント・デニスの未発表原稿群。多数が現在も出版継続中。
セント・デニスを育てたもの、解き放ったもの
医師の母から幼少期のデルサルト体操、そして煙草ポスターの女神まで——彼女に流れ込んだ多彩な源泉と、彼女から流れ出てモダンダンス全体を変えた波及を、二つの星座図として並べる。
セント・デニスを育てた源泉
- フランソワ・デルサルト19世紀フランスの声楽家・身体表現論者。「頭部=精神/心臓=魂/四肢=生命」の対応原理が、彼女の身体観の根。
- 母エマ・ハル・デニス(医師)幼少期からデルサルトを直接指導。1872年「Vis Medicatrix Naturae」修士論文の自然療法者。彼女の精神的・身体的世界観の最初の教師。
- ジニーヴィーヴ・スティービンズアメリカ・デルサルト運動の旗手。1890年代の公演を観て決定的衝撃。「彫刻のようなポーズ」の原型を伝えた。
- マリア・ボンファンティイタリア人バレリーナ。ニューヨークでバレエの基礎を彼女に教えた。
- デイヴィッド・ベラスコブロードウェイの大物プロデューサー。芸名「セント・デニス」を授け、劇場美学(光・道具・物語の統合)を伝授。
- エジプト・ディーティーズ煙草ポスター1904年バッファローのドラッグストアで見た一枚。女神イシスの像が彼女の人生を一瞬で変えた。20世紀舞踊史最も有名な「広告と運命」。
- 神智学/クリスチャン・サイエンス幼少期から学んだ精神主義思想。メイベル・クック『白蓮華の物語』を愛読。東洋哲学への扉が早くから開かれていた。
- バーナム・サーカスの『ネロとローマの破壊』1886年に観劇した壮大な舞台スペクタクル。後の彼女の大規模舞踊観の遠い母胎。
- サラ・ベルナールのメロドラマ演技悲劇的運命を主題化する演技スタイル。彼女の劇的舞踊像に影響。
- コニーアイランドのインド人移民『ラーダー』のエキストラ三人を提供。当時のインド系アメリカ人共同体は彼女の最初のインド研究の現場だった。
- 図書館・サイドショー・写真専門的訓練を欠いた彼女の研究素材。これが彼女の作品の「正統性のなさ」と「想像力の自由」の両方を生んだ。
- ロイ・フラー/イサドラ・ダンカン先行する二人の女性モダンダンス・パイオニア。彼女らが切り開いた道を、セント・デニスは異なる方向(東洋・神秘主義)へと延ばした。
セント・デニスが解き放ったもの
- マーサ・グラハム(1894–1991)17歳で『エジプタ』観劇。1916年デニショーン入学、1923年まで在籍。20世紀最大のアメリカ舞踊家。「コントラクション/リリース」技法はセント・デニスから引き継いだ「内面から動く」原理の発展形。
- ドリス・ハンフリー(1895–1958)1917年デニショーン入学。「フォール・アンド・リカバリー」技法を発展。ハンフリー=ワイドマン舞踊団を1928年設立。
- チャールズ・ワイドマン(1901–1975)1920年奨学金で入学。キネティック・パントマイム創出。ハンフリーとの長期協働。
- ホセ・リモンハンフリー=ワイドマンを通じて二代目に流れ込んだ血脈。『ムーア人のパヴァーヌ』『裏切り者』の作者。
- テッド・ショーン(1891–1972)夫であり共同創設者。ジェイコブズ・ピロー創設、ネイティブアメリカン舞踊の探究、男性舞踊団Ted Shawn and His Men Dancersを率いた。
- ルイーズ・ブルックス15歳でデニショーン入団。後に無声映画の伝説的スター(『パンドラの箱』1929)に。デニショーンと映画文化の接点。
- ジャック・コールデニショーン出身。後にハリウッド・ダンスの父と呼ばれる。ジャズダンスとオリエンタル要素の統合者。
- マーク・モリスデニショーン血脈の現代継承者のひとり。音楽性とユーモアにグラハム経由のセント・デニスの遺伝子。
- バーシャー・ド・ロチルドグラハムの教え子。1965年バットシェバ舞踊団設立、これがオハッド・ナハリンに連なる現代イスラエル舞踊の祖。
- アデルフィ大学・米国大学舞踊学科群1938年設立のアデルフィ舞踊学科は、米国全大学に舞踊学科が広がる先鞭となった。
- ジェイコブズ・ピローショーンが買い取った農場が世界最古の舞踊フェスティバルへ。現代舞踊の聖地として継続。
- 「世界平和のダンス(Dances of Universal Peace)」セント・デニスの霊性舞踊の遺産を直接引き継いだ国際組織。彼女の未発表原稿の多くを今も出版継続。
「アメリカン・モダンダンスの揺籃」とその血脈
デニショーン舞踊学校(1915–1931)
1915年、ロサンゼルスのセントポール通り600番地に開校。アメリカ初の本格的舞踊学校・カンパニー。「the cradle of American modern dance(アメリカン・モダンダンスの揺籃)」「the only dance school to which parents could safely send daughters(親が娘を安心して送れる唯一の舞踊学校)」と評された。1916年以降ニューヨーク本部も含め全米十数都市に支部を展開。1925年の全米293都市・100万人ツアー、1925-26年の15か月アジア・ツアーなど、20世紀前半最大規模の舞踊組織だった。
カリキュラムは「あらゆる舞踊技法は有効である」という折衷主義に基づき、裸足でのバレエ動作、世界各地の民俗舞踊(インド・日本・中国・スペイン・エジプト・ネイティブアメリカン)、ダルクローズ・ユーリトミックス、デルサルト体操、ヨガ瞑想、音楽視覚化、ハワイアンフラ、日本刀舞踊、芸術論、文学読書まで含む総合教育。12週集中プログラムは$500、寝食・芸術工芸・ヨガ・読書指導込み。
三つの星——デニショーンが生んだモダンダンスの核
20世紀後半のあらゆるモダンダンスは、デニショーンを通過して血脈を引いている。最も重要な三人が、ここから世界へ羽ばたいた。
マーサ・グラハムは1916年、22歳でデニショーン入学。1923年まで在籍し、ショーン振付『ソチトル』で主演。1926年独立。彼女の有名な「コントラクション/リリース」技法は、セント・デニスが教えた「動きは内面から生まれる」「身体は精神の宿である」原理を、骨盤を中心に再体系化したものとされる。21世紀の今もマーサ・グラハム舞踊団は世界中に支部を持ち、グラハム・テクニックは舞踊基礎訓練の標準。
ドリス・ハンフリーは1917年、22歳でデニショーン入学。「フォール・アンド・リカバリー(落下と回復)」技法はセント・デニスの「波動的身体感覚」の発展形。ハンフリー=ワイドマン舞踊団を1928年に設立、その後ホセ・リモン舞踊団の芸術監督として系譜を伝えた。著書『The Art of Making Dances(振付の技法)』は今も振付家のバイブル。
チャールズ・ワイドマンは1920年、19歳で奨学金入学。ハンフリーと協働し、後に「キネティック・パントマイム」を創出。ユーモアと身体表現の統合者。1936年作『リンチタウン』は、彼が幼少期に目撃したリンチを舞踊化した重要作。
驚異的な長寿の血脈
デニショーン主要メンバーの長寿は舞踊史の特異な現象である。ルース・セント・デニス(89歳)、マーサ・グラハム(96歳、97歳まで現役振付)、テッド・ショーン(80歳、死去まで教鞭)、チャールズ・ワイドマン(73歳、死去まで指導)。ドリス・ハンフリーのみ63歳で癌により早逝した。これは「新鮮な空気、自由な身体、健康的な生活」を学校哲学とし、デルサルト原理に基づく心身統合的アプローチを生涯の鍛錬としたデニショーン教育法の、一種の生理学的検証ともいえる。
日本のルース・セント・デニス受容史
日本でのセント・デニス受容は、彼女自身の1925年来日、伊藤道郎を介した間接受容、現代の舞踊学術研究、そして近年のデニショーン血脈(マーサ・グラハム→グラハム・テクニック)を通じた継承と、四つの層を成して進んできた。
『O-Mika』——日本との最初の対話
1913年、セント・デニスが日本の能を研究して創作した『O-Mika』を初演。太陽女神アマテラスの伝説を舞踊化した、米国における最初期の本格的「日本テーマ舞踊」。NYPLジェローム・ロビンス舞踊部門アーカイブに『O-Mikaの太陽女神の伝説』題の写真が現存。
伊藤道郎、ベルリンでの邂逅
日本人舞踊家・伊藤道郎(1893-1961)はベルリン時代、イサドラ・ダンカン公演を観てダルクローズ学校に入学。デニショーンが1925-26年に来日した際の伊藤道郎との接触は、日本のモダン舞踊国際化の早期重要接点だった。伊藤は後にロサンゼルス・ハリウッドでも舞踊活動を行い、セント・デニスの環境と直接交差している。
デニショーン日本巡業
15か月の大規模アジア・ツアーの一環として日本訪問。日本では舞妓・能・歌舞伎を実地調査し、セント・デニスは日本伝統美の中核に直接触れた。これは欧米モダン舞踊が日本舞踊と直接対話した最初期の事例で、後に日本のモダンダンス草創期に重要な影響を残す。
石井漠・伊藤道郎ら日本モダンダンス第一世代
石井漠(1886-1962)の「舞踊詩」、伊藤道郎の創作舞踊は、デニショーンとほぼ同時代に日本でモダン舞踊を切り開いた。両者ともデルサルト系譜の影響を受け、セント・デニスと並行する日本独自の「東洋的モダン舞踊」を創出。
マーサ・グラハム来日とグラハム・テクニック普及
セント・デニスの直接弟子マーサ・グラハムが日本のモダン舞踊に与えた影響は決定的。1955年初来日以降、グラハム・テクニックは日本舞踊教育に深く浸透。これによりセント・デニス→グラハム→日本という間接的継承の道筋が定着。
日本舞踊学術研究での位置づけ
『現代美術用語辞典』(artscape)はデニショーンを独立項目で詳述。学術論文(藩麗・頭川昭子「マーサ・グラームのフロアー・テクニックとインド・ヨーガとの関連」2000年など)でセント・デニスの位置が体系化されている。早稲田大学・お茶の水女子大学・大阪芸術大学を中心に研究が継続。
artscape『現代美術用語辞典』
artscape芸術用語辞典は「デニショーン」を独立項目で詳述:「ルース・セント・デニスとテッド・ショーンが主宰した、ダンスのカンパニー兼学校。学校は1915年にロサンジェルスで開校し、マーサ・グレアム、ドリス・ハンフリーなど、多くの主要なモダン・ダンスの振付家やダンサーが輩出された」。
note・現代解説の充実
市之澤直樹「5分で読めるダンス史シリーズ:オリエンタリズムの台頭者ルース・セント・デニス」(2025)など、現代の若い舞踊研究者・実践者によるネット上の体系的解説が充実。「神秘的な身体」「Delsart system」の現代的位置づけが論じられている。
日本グラハム舞踊団・教育機関
マーサ・グラハム経由でのセント・デニス遺伝子は、日本の現代舞踊教育の中核に流れ続けている。お茶の水女子大学、東京女子体育大学、桜美林大学などの舞踊・身体表現プログラムは、デニショーン血脈の現代日本における継承の場のひとつ。
セント・デニスの言葉
自伝、詩、講演、未発表原稿、ジェイコブズ・ピロー資料から——彼女の舞踊と人生を貫く閃光を選ぶ。
私たちは身体の中にいるのではない——身体が私たちの中にあるのだということを、鮮明で革命的な意味で認識すべきだ。
— Ruth St. Denis, spiritual writings
舞踊は宗教的体験であり、礼拝の身体形式である。芸術と霊性は分離してはならない。
— An Unfinished Life (1939)
私の踊りは、私自身が舞踊翻訳と呼ぶものです——自分が異郷文化に感じた精神を、私の身体を通して伝えるのです。
— The Art of the Dance
あの瞬間、ドラッグストアのポスターを見たとき、私の人生は変わった。神殿の玉座に座る女神イシスが、私を呼んだのだ。
— Egyptian Deities cigarette poster, Buffalo 1904
『ラーダー』は、私がインド美術について知っている全てのものの寄せ集めでした。
— On Radha (1906)
マーサは寡黙だったけれど、知的な質問をする生徒だった。彼女は何かを掴もうとしていた。
— On young Martha Graham at Denishawn
舞踊の芸術は、ただ一つの体系で包み込めるほど小さくはない。
— Denishawn pedagogy guide
テディは死ぬほど怖がっていた。私は何も考えなかったから怖くなかった。でも二人とも眼鏡なしでは何も見えなかったの。
— On Golden Wedding Anniversary dance, 1964
ルース・セント・デニスは何年も前にすでに不滅となった——真理のための勇敢な十字軍、美のために闘う建設的な力、人類全体を癒す力として。
— Ted Shawn on her death, 1968
彼女は宇宙のなかに自己を求めたのではない。自己のなかに宇宙を求めた踊り手だった。
— Suzanne Shelton, Divine Dancer (1981)
どこから読み始めるか
セント・デニス研究は、彼女自身の自伝・詩集から始まり、決定的伝記、デニショーン研究、フェミニズム・オリエンタリズム再評価へと広がる。日英で辿る最良の五段階。
百科事典項目から始める
初めに英語版Wikipedia「Ruth St. Denis」、日本語版「ルース・セント・デニス」、Britannica項目を読む。さらにartscape『現代美術用語辞典』の「デニショーン」項目で、彼女と学校の位置づけを把握。これだけで全体地図が頭に入る。
自伝『未完の生(An Unfinished Life)』へ
1939年Harper社刊の自伝。彼女自身の声で人生を聞く一次資料。Internet Archiveで一部閲覧可能。残念ながら完訳の日本語版は出ていないが、英語原典は研究用入手可能。
シェルトン伝記『Divine Dancer』で立体化
Suzanne Shelton『Divine Dancer: A Biography of Ruth St. Denis』(Doubleday, 1981 / 後にUniversity of Texas Press版『A Biography of the Divine Dancer』2003)。彼女の日記・手紙・弟子たちのインタビューに基づく決定的伝記。Internet Archiveでも閲覧可能。
デニショーン研究を深める
Jane Sherman『The Drama of Denishawn Dance』(Wesleyan, 1979 / 改訂版2005)。元デニショーン団員シャーマンによる、振付・演出・教育法の内側からの記録。Walter Terry『Miss Ruth: The “More Living Life” of Ruth St. Denis』(1969)も、長年の友人による正式伝記として重要。
フェミニズム・オリエンタリズム視点へ
Janet Lynn Roseman『Dance was her Religion: The Sacred Choreography of Isadora Duncan, Ruth St. Denis, and Martha Graham』(Hohm Press, 2004)で三人の神聖舞踊系譜を総合的に。フィオレラ・ロペス論文『Ruth St. Denis’s Radha (1906): the West’s assumption of the East』(2018)でオリエンタリズム批判の最新研究へ。Paul A. Scolieri『Ted Shawn』(Oxford UP, 2020)はデニショーン家父長制の重要再考。
さらに読むための資源
日本語・英語の主要資料を精選。学術論文、百科事典、公式アーカイブ、デニショーン継承組織への信頼できる入口を一覧する。
百科事典・基礎情報(日英)
- Wikipedia “Ruth St. Denis”(英語)——最も詳細な英語版項目
- Wikipedia「ルース・セント・デニス」(日本語)——年譜・著作・受容史
- Britannica “Ruth St. Denis”——百科事典の基本項目
- Britannica “Denishawn School of Dancing and Related Arts”
- Encyclopedia.com “Ruth St. Denis”——Encyclopedia of World Biography 項目
- New World Encyclopedia “Ruth St. Denis”
- artscape『現代美術用語辞典』「デニショーン」(日本語)
- Wikipedia “Denishawn school”(英語)
- Wikipedia “Ted Shawn”(英語)
原典テキスト(英語)
- St. Denis, Ruth. Ruth St. Denis: An Unfinished Life. New York: Harper & Brothers, 1939(自伝)
- St. Denis, Ruth. Lotus Light. Boston: Houghton Mifflin, 1932(詩集)
- St. Denis, Ruth. “An Essay on the Future of the Dance: Ruth St. Denis’s Prophecy.” International Studio Vol. 74, No. 296 (Nov. 1921)
- Shawn, Ted. Ruth St. Denis: Pioneer and Prophet. 1920(夫による初期評伝)
主要研究書(英語)
- Shelton, Suzanne. Divine Dancer: A Biography of Ruth St. Denis. Doubleday, 1981(Internet Archive)——決定的伝記
- Shelton, Suzanne. Ruth St. Denis: A Biography of the Divine Dancer. University of Texas Press, 2003(American Studies Series版)
- Sherman, Jane. The Drama of Denishawn Dance. Wesleyan University Press, 1979 / 2nd ed. 2005
- Terry, Walter. Miss Ruth: The “More Living Life” of Ruth St. Denis. 1969(公認伝記)
- Terry, Walter. The Legacy of Isadora Duncan and Ruth St. Denis. 1959
- Roseman, Janet Lynn. Dance was her Religion: The Sacred Choreography of Isadora Duncan, Ruth St. Denis, and Martha Graham. Hohm Press, 2004
- Scolieri, Paul A. Ted Shawn: His Life, Writings, and Dances. Oxford University Press, 2020——デニショーン男性視点研究の決定版
- Sherman, Jane. Soaring: The Diary and Letters of a Denishawn Dancer in the Far East, 1925-1926. Wesleyan University Press, 1976——アジア・ツアーの一次記録
学術論文・PDF(オープンアクセス)
- Lopes, Fiorella. “Ruth St. Denis’s Radha (1906): the West’s assumption of the East” (ResearchGate, 2018)
- Somerville, Kristine. “The Logic of Dreams: The Life and Work of Ruth St. Denis.” The Missouri Review, 2013
- Mayo, Kelly. Studies on St. Denis’s later religious works (Society of Spiritual Arts research)
- 藩麗、頭川昭子「マーサ・グラームのフロアー・テクニックとインド・ヨーガとの関連」『身体運動文化研究』7巻1号、2000年
- 小川原春恵「マーサ・グラハムとグラハム・テクニックについて」『東京女子体育大学記要』第15号、1980年
- 白須尋子「コンテンポラリーダンス論」『東京学芸大学紀要』第5部門、48号、1996年
公式アーカイブ・継承組織
- Jacob’s Pillow “Modern Dance Pioneer Ruth St Denis”——テッド・ショーン創設の世界舞踊フェスティバル公式
- University of Denver: Suzanne Shelton Buckley Papers on Ruth St. Denis——シェルトン伝記の研究資料アーカイブ
- NYPL “Ruth St. Denis in the Legend of the Sun Goddess from O-Mika”——ニューヨーク公共図書館ジェローム・ロビンス舞踊部門デジタル・コレクション
- New Jersey Women’s History “Ruth St. Denis”——出身州公式の伝記資料
- University of Pittsburgh Dance Studies “Ruth St. Denis (1877-1968)”——大学舞踊研究公式項目
- Repertory Dance Theatre “Ted Shawn”——ショーンとデニショーンの公式研究情報
- Dance Teacher Magazine——現役舞踊指導者向け、セント・デニス特集記事多数
関連解説(信頼できるウェブ資料)
映像・関連作品
- 『Ruth St. Denis: Solo Dances』(記録映像)——彼女の代表ソロのフィルム記録
- 映画『The Fall of Babylon』(1919)——D.W.グリフィス監督。彼女の振付出演
- 映画『The Lily and the Rose』(1915)、『Look Your Best』(1923)——彼女出演作品
- 映画『Intolerance』(1916)——グリフィス、デニショーン・ダンサー出演
- 『The Art of the Solo』——モダンダンス開拓者ソロ作品集の上演プログラム
- 2006年9月29日ボルチモア美術館:『ラーダー』百周年復元公演(ミノ・ニコラス監督)
ルース・セント・デニスについて、もっと知るために
ルース・セント・デニスとは誰ですか?
1879年ニュージャージー州ニューアーク生まれ、1968年ハリウッド没のアメリカの舞踊家・振付家・教育者。「アメリカン・モダンダンスの母」のひとり。インド、エジプト、日本など東洋諸国の宗教的・神話的世界を舞踊化し、1915年にテッド・ショーンと共にデニショーン舞踊学校を設立。マーサ・グラハム、ドリス・ハンフリー、チャールズ・ワイドマンら20世紀モダンダンスの中核を輩出した。89歳で永眠。
セント・デニスの代表作は何ですか?
1906年ニューヨーク・シアター初演の『ラーダー(Radha)』が代表作。インドの牛飼い娘ラーダーとクリシュナ神の物語を、五感(聴覚・嗅覚・味覚・視覚・触覚)の象徴を散りばめて踊った。同時期に『コブラ(The Cobras)』『香煙(Incense)』も創作。後の代表作に『エジプタ(Egypta, 1910)』『O-Mika(オーミカ, 1913)』『七つの門のイシュタル(1923)』など。
「エジプト・ディーティーズ」のポスターとは何ですか?
1904年、ベラスコ巡業中にニューヨーク州バッファローのドラッグストアで彼女が見た煙草の広告ポスター。神殿の玉座に座るエジプト女神イシスの像が描かれていた。彼女はこの一枚の前で稲妻のような覚醒体験をし、自伝で「私の人生はその瞬間に変わった」と書いた。20世紀舞踊史で最も有名な「広告との邂逅」。
デニショーン舞踊学校とは何ですか?
1915年セント・デニスとテッド・ショーンがロサンゼルスに設立した、アメリカ初の本格的舞踊学校・カンパニー。「アメリカン・モダンダンスの揺籃(the cradle of American modern dance)」と呼ばれ、マーサ・グラハム、ドリス・ハンフリー、チャールズ・ワイドマン、ルイーズ・ブルックスら20世紀の主要舞踊家を輩出。バレエ、東洋舞踊、ダルクローズ・ユーリトミックス、デルサルト体操、ヨガ瞑想を統合した折衷主義カリキュラム。1931年に解散。
イサドラ・ダンカンとどう違うのですか?
両者ともアメリカン・モダンダンスの母と呼ばれ、神秘主義と動きの自由を共有しつつ、決定的な違いがある。伝記作家スーザン・シェルトンによれば、ダンカンは「宇宙のなかに自己を求めた(Self in the Universe)」のに対し、セント・デニスは「自己のなかに宇宙を求めた(Universe in the Self)」。ダンカンが古代ギリシアと自然を源泉としたのに対し、セント・デニスは東洋(インド・エジプト・日本)の神話と宗教を源泉とした。さらにダンカンが学校を貧弱な財政で短命に終わらせたのに対し、デニショーンは16年存続して20世紀後半舞踊の中核人材を輩出した点も大きく異なる。
マーサ・グラハムとの関係は?
17歳のグラハムが1911年ロサンゼルス・メイソン・オペラハウスでセント・デニスの『エジプタ』を観たことが、舞踊家への運命を決めた。1916年22歳でデニショーン入学、1923年まで在籍。ショーン振付『ソチトル(Xochitl)』『セレナータ・モリスカ』で主演。1926年に独立し自身のカンパニー設立。グラハムの「コントラクション/リリース」技法は、セント・デニスから学んだ「動きは内面から生まれる」原理の発展形である。
テッド・ショーンとの関係は?
1911年デンバーで19歳のショーンがセント・デニスの公演を観て「芸術的恋愛」に陥り、1914年に12歳年下のショーンと結婚。1915年デニショーン共同設立。1931年デニショーン解散と同時に別居するが離婚はせず、生涯互いに尊敬を保つ。1941年ジェイコブズ・ピローで再会公演。1964年金婚式に二人で『Siddhas of the Upper Air』を共演。彼女の死(1968)に際しショーンは「ルース・セント・デニスは何年も前にすでに不滅となった」と讃辞を捧げた。
セント・デニスはどのように亡くなりましたか?
1968年7月21日、ロサンゼルスのハリウッド長老教会病院にて、心臓発作のため89歳で永眠。前年(1966年)、87歳でなお最後の公演を行っていた。生涯にわたり踊り続け、自伝のタイトル『未完の生(An Unfinished Life)』のごとく、永遠に未完のまま舞踊界を去った。彼女の長寿(89歳)はデニショーン主要メンバー(グラハム96歳、ショーン80歳、ワイドマン73歳)の長寿パターンの一例で、デルサルト原理に基づく心身統合的アプローチの生理学的検証ともされる。
日本ではどう受容されてきましたか?
1913年作品『O-Mika』はアマテラスの伝説を踊った米国初期の本格的日本テーマ舞踊。1925-26年デニショーンのアジア・ツアーで日本の舞妓・能・歌舞伎を実地調査。日本側では石井漠、伊藤道郎ら最初期モダン舞踊家が同時代に並行する活動を展開。戦後はマーサ・グラハム来日(1955)以降、グラハム・テクニック経由でセント・デニスの遺伝子が日本舞踊教育に深く浸透した。artscape『現代美術用語辞典』のデニショーン項、note等の現代解説、お茶の水女子大学・大阪芸術大学等の学術研究で受容が継続している。
「オリエンタリズム」批判をどう受け止めるべきですか?
エドワード・サイード以降の現代舞踊学では、セント・デニスの東洋舞踊翻案は文化人類学的に正確ではなく、西洋による東洋の幻想化(オリエンタリズム)の典型例と論じられる。フィオレラ・ロペスの2018年論文『The West’s assumption of the East』が代表的批判研究。同時に重要なのは、彼女の作品が西洋人の眼差しが20世紀初頭にどのように東洋を捉えたかを舞台上で実演した文化史的記録であり、その複雑な遺産を現代において批判的に継承することが求められている、という両面的視点である。
ルース・セント・デニスの独自理論を網羅クリック展開
15項目の核心概念を、各カードクリックで詳細展開できます。
一次資料(原著・主要論文)への参照リンク完備。
ルース・セント・デニス 一次資料・国際的研究リソース集
Wikipedia・Britannica・公式財団・大学アーカイブ・Internet Archive・CiNii・J-STAGE・PhilPapers・WorldCat等の国内外の権威リソース20件を集約。
📚 GETTA Thinkers Encyclopedia ─ 思想図鑑シリーズ全16巻
同時代を生きた思想家たちが、いかに〈身体〉〈学び〉〈文化〉〈遊び〉を再定義したか──各図鑑は独立しつつ相互に照らし合う。
文化資本/ハビトゥス/界No.02 アンリ・ベルクソン
純粋持続/生命の躍動No.03 マルセル・モース
贈与論/身体技法No.04 メルロ=ポンティ
身体図式/知覚の現象学No.05 大森荘蔵
立ち現われ一元論/重ね描きNo.06 ジル・ドゥルーズ
差異と反復/器官なき身体No.07 イサドラ・ダンカン
鳩尾/自由な舞踊No.08 イヴァン・イリイチ
脱学校/コンヴィヴィアリティNo.09 ジャン・ピアジェ
発生的認識論/4段階No.10 エリク・H・エリクソン
アイデンティティ/8段階No.11 ロジェ・カイヨワ
遊びの四類型/対角線の科学No.12 市川浩
〈身〉/錯綜体/身分けNo.13 バックミンスター・フラー
宇宙船地球号/テンセグリティNo.14 マーサ・グラハム
コントラクション/181作No.15 ルース・セント・デニス
デニショーン/神聖舞踊No.16 西田幾多郎
純粋経験/場所の論理/絶対無
本シリーズが共有する一つの問い
〈身体〉が、文化が、学びが、遊びが、近代の枠組みのなかでどのように分節され、どこで歪められ、いかに再び動詞化されうるのか。
GETTA Thinkers Encyclopedia は、この一つの問いを16の星座から照らす編集方針で構成されています。
文化身体論研究者
いま、あなたが必要なのはどの一足か?
歩行のクセを解くプロセスは、3段階で進む。
あなたの今いる段階に合うモデルから始めてください。


