中村雄二郎とは|共通感覚論・臨床の知・述語の論理|思想図鑑No.18

GETTA THINKERS ENCYCLOPEDIA — No.18

哲学者

中村雄二郎とは何者か

NAKAMURA YUJIRO  1925–2017

ばらばらに切り離された五感の底に、それらを束ねる「共通感覚」がある——。視覚に偏った近代の知を問い直し、身体に根ざす感覚の統合と、個別の現場に立つ「臨床の知」を説いた哲学者。アリストテレスから西田幾多郎へと連なる思考の水脈を継ぎながら、中村雄二郎は、抽象へと痩せ細った知を、もう一度からだと場所へと連れ戻そうとした。本図鑑は、その全体像を記述する。

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PROLOGUE — 切り離された感覚

私たちの感覚は、いつから「ばらばら」になったのか

中村雄二郎の哲学は、ひとつの素朴な驚きから出発する。私たちは、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚という五つの感覚を、別々のものとして数える。だが、ほんとうに、それらはばらばらに働いているのだろうか。

熟れた果実を前にしたとき、私たちは、その色を見ると同時に、その香りを思い、舌ざわりを予感し、手にしたときの重みを感じている。ひとつの対象は、五感のすべてを貫いて、ひとまとまりのものとして立ち現れる。この、五感を底で束ねるはたらき——それを中村は、アリストテレスにならって共通感覚(コモンセンス、sensus communis)と呼んだ。

ところが近代は、この共通感覚を後景へ追いやり、感覚をばらばらに分解してきた。とりわけ、対象を距離をおいて測る視覚を特権化し、視覚的・幾何学的に世界を捉えることを「客観的な知」とみなしてきた。中村は、この視覚優位と感覚の分断のうちに、近代の知が陥った痩せ細りを見た。そして、身体に根ざす感覚の統合を取り戻すこと、さらには個別の現場に立つ「もうひとつの知」を立ち上げることを、生涯の主題とした。

ばらばらの五感FIVE SENSES
視覚優位の近代PRIMACY OF VISION
共通感覚=統合COMMON SENSE
身体という基盤THE BODY
臨床の知へCLINICAL KNOWING

分断された五感を、身体に根ざす共通感覚が束ね、個別の現場に立つ「臨床の知」へと至る

A DECLARATION

知は、頭だけのものではない。
それは身体の感覚に根ざし、
個別の現場に立つときに、生きてはたらく。

普遍的で抽象的な「科学の知」だけでは、生きた現実は捉えきれない。中村雄二郎は、それと並び立つ「臨床の知」を構想した。

01 — 生涯

中村雄二郎という人——術語をもって時代を診た哲学者

中村雄二郎は、専門の哲学界にとどまらず、現代を生きる人々の知の見取り図そのものを描こうとした、稀有な思想家だった。

1925年(大正14年)に生まれた中村雄二郎は、戦後日本を代表する哲学者の一人として、長く明治大学で教鞭をとった。彼の関心は、西洋哲学の精緻な読解にとどまらず、現代という時代がどのような知のかたちのうえに成り立っているのかを、根本から問い直すことにあった。フランス現代思想、構造主義、現象学を深く吸収しながら、同時に、西田幾多郎をはじめとする日本の思考の水脈をも継ぎ、東西の知を往復する独自の哲学を築いていった。

とりわけ多くの読者に親しまれたのが、現代思想の鍵となる言葉を平明に解き明かした『術語集』(岩波新書)である。中村は、難解な概念を、生きた時代の文脈のなかに置き直し、誰もが手に取れる言葉として差し出した。哲学を、専門家の閉じた営みから、現代を生きるための共有の道具へと開いていく——その姿勢は、彼の思想そのものと、深く通じ合っている。2017年に世を去るまで、中村は、知のかたちを問い、感覚を、身体を、場所を、思考の中心へと呼び戻しつづけた。

1925

生まれる。のちに戦後日本を代表する哲学者の一人となる。

1979

『共通感覚論』を世に問う。感覚の統合と身体性を、近代批判の中心に据えた主著。

『術語集』

現代思想の鍵語を平明に解き明かし、広く読まれる。哲学を時代の共有財へと開いた。

1992

『臨床の知とは何か』。科学の知に対し、個別・身体・場所に立つ「臨床の知」を構想した到達点。

2017

逝去。感覚・身体・場所をめぐる思索は、いまも参照されつづけている。

02 — 核心理論I

共通感覚論——五感を束ねる、身体の知

中村雄二郎の名を不滅にした主著が『共通感覚論』である。そこで彼は、忘れられた古い概念を甦らせ、近代の感覚観を根底から問い直した。

アリストテレスからの再生

共通感覚(sensus communis)という概念は、もともとアリストテレスにさかのぼる。五感のそれぞれが捉えるもの(色、音、香り…)の底に、それらを統合し、ひとつの対象として把握するはたらきがある——アリストテレスはそれを「共通感覚」と呼んだ。中村は、近代の感覚論がこの概念を切り捨ててきたことに注目し、それを哲学の中心へと呼び戻した。私たちが世界を、ばらばらの感覚刺激の寄せ集めとしてではなく、まとまりをもったものとして経験できるのは、この共通感覚が働いているからである。

視覚優位という、近代の偏り

中村が鋭く批判したのは、近代における視覚の特権化である。視覚は、対象を距離をおいて、客観的に、幾何学的に捉える。近代科学は、この視覚的・測定的な把握を「客観的な知」のモデルとし、触覚や味覚や嗅覚といった、対象とじかに交わる身体的な感覚を、二次的なものへと貶めてきた。だが、見ることだけが知ることではない。触れ、味わい、嗅ぎ、全身で感じ取ること——そこにこそ、世界とのより根源的な交わりがある。中村は、視覚優位の知の偏りを暴き、感覚の全体性を取り戻そうとした。

共通感覚は、身体に根ざす

決定的なのは、この共通感覚が、ほかならぬ身体に根ざしているという点である。五感を束ねるはたらきは、抽象的な精神の機能ではない。それは、世界のただなかに置かれ、世界と交わる、生きた身体のはたらきだ。さらに中村は、この共通感覚(コモンセンス)が、人々のあいだで分かちもたれる「常識(コモンセンス)」とも、語源において深く通じていることに注目する。感覚の統合と、人と人とが分かちもつ共通の感覚。身体に根ざす共通感覚は、個人の知覚の基盤であると同時に、共同体の知の基盤でもあるのだ。

03 — 核心理論II

臨床の知——科学の知が取りこぼすもの

『臨床の知とは何か』で、中村は、近代の「科学の知」と対をなす、もうひとつの知のかたちを構想した。それは、生きた現実に立ち会うための知である。

近代の科学の知は、三つの原理のうえに立っている。どこでも誰にでも当てはまる普遍性、論理的な一義性、そして観察者を排除した客観性である。この知は、計り知れない成果をあげた。だが、その代償として、ただ一度きりの個別の出来事、観察する者自身の身体、そしてその出来事が起こる固有の「場所」を、視野の外へと締め出してきた。中村は、ここに科学の知の限界を見た。

臨床の知の三原理

これに対し中村が提唱した臨床の知は、まったく逆向きの三つの原理に立つ。第一に、それぞれの固有世界(コスモロジー)を重んじること。普遍的な空間ではなく、意味をおびた、その場かぎりの世界を捉える。第二に、事物の多義性(シンボリズム)を受けとめること。一義的に割り切るのではなく、ものが幾重もの意味をはらむことを認める。第三に、身体をそなえた相互行為(パフォーマンス)として知ること。距離をおいた観察ではなく、その場に身をもって参加し、関わりあうなかで知る。医師が患者の枕もとで、ただ一人の患者の、その時その場の全体に立ち会うように——臨床の知は、個別の、身体の、場所の知である。

科学を否定するのではなく

誤解してはならないのは、中村が科学の知を否定したのではない、ということだ。彼が説いたのは、科学の知だけでは生きた現実を捉えきれない、という一点である。普遍と個別、客観と身体、抽象と場所——その両方が必要なのだ。痩せ細った近代の知に、臨床の知という、もうひとつの太い柱を加えること。それが中村雄二郎の企てだった。

SUBJECT & PREDICATE

西洋は「主語」で考えた。
だが世界は、述語として、
場所として、立ち現れる。

西田幾多郎の「述語の論理」を継ぎながら、中村は、主体に先立つ「場所」と「述語的世界」へと、思考をひらいていった。

04 — 核心理論III

述語的世界と場所——主語に先立つもの

中村の思考は、西田幾多郎が切り拓いた「述語の論理」を継ぎ、西洋的な主語中心の世界観を相対化する地点へと進んでいく。

西洋の論理は、「Sは Pである」という形をとる。確固とした主語(S)があり、それに性質(述語P)が帰せられる。世界は、独立した実体=主語の集まりとして捉えられる。これに対し西田幾多郎は、主語ではなく述語の側に、より根源的なものを見た。個物を成り立たせている、それを包む「場所」。中村は、この西田の洞察を受け継ぎ、主体(主語)に先立って、それを包み、それを成り立たせる述語的世界・場所(トポス)の次元を、現代の言葉で捉え直そうとした。

パトスと、受けとめる知

主語中心の世界観のもとでは、人間は、世界に対して能動的に働きかける主体として立つ。だが、述語的・場所的な世界観のもとでは、人間はまず、世界のただなかに置かれ、世界から触発され、受けとめる存在である。中村がパトス(受苦・情念・受動性)の次元を重視したのは、このためだ。能動的に把握する以前に、受けとめ、被ること。演劇や、リズムや、身体的な交わりへの中村の関心も、この「受けとめる知」「場所に立つ知」への注目から生まれている。能動でも受動でもない、その手前にある、世界とともに在るというあり方への眼差しが、ここにある。

FRAMEWORK — 知の四つの層

中村雄二郎が照らす、知の四つの層

中村の思想は、知をどの深さで捉えるかという階層として整理できる。下の層へ降りるほど、近代が切り捨てた身体と場所に近づいていく。

LEVEL 1 — 視覚的な知

距離をおいて測る知

対象を距離をおいて、幾何学的・客観的に捉える視覚優位の知。近代科学がモデルとしてきた、もっとも表層の把握。

LEVEL 2 — 共通感覚の知

五感を束ねる身体の知

視覚に偏らず、触覚・味覚・嗅覚をも含めて、五感を統合する身体のはたらき。世界をひとまとまりのものとして感受する基盤。

LEVEL 3 — 臨床の知

現場に立ち会う知

固有世界・多義性・身体をそなえた行為に立つ、個別の現場の知。普遍ではなく、ただ一度きりの出来事にじかに関わる。

LEVEL 4 — 述語的・場所的な知

主体に先立つ場の知

主語=主体に先立ち、それを包み成り立たせる述語的世界・場所の次元。受けとめ、ともに在るという、もっとも深い知のかたち。

CONTRAST — 二つの知

科学の知 と 臨床の知

中村の構想を、対比のかたちで見渡す。両者は対立するのではなく、補い合うべきものである。

科学の知
臨床の知
対象どこでも当てはまる普遍
対象ただ一度きりの、固有の出来事
世界均質で抽象的な空間
世界意味をおびた固有世界(コスモロジー)
意味一義的に割り切る
意味多義性を受けとめる(シンボリズム)
関わり観察者を排除した客観
関わり身体をそなえた行為(パフォーマンス)
感覚視覚優位
感覚五感を束ねる共通感覚
論理主語の論理
論理述語・場所の論理
05 — 主要著作

中村雄二郎を読むための主要著作

中村の思想は、専門的な主著から、広く読まれた新書まで、多彩な書物に結晶している。

共通感覚論

主著 / 1979

中村の名を不滅にした主著。アリストテレスにさかのぼる共通感覚の概念を甦らせ、視覚優位と感覚の分断という近代の偏りを根底から問い直す。身体に根ざす感覚の統合を、哲学の中心へと据えた一冊。

臨床の知とは何か

岩波新書 / 1992

科学の知に対し、固有世界・多義性・身体をそなえた行為に立つ「臨床の知」を構想した到達点。普遍的な知が取りこぼす、個別の現場の知を鮮やかに描き出す。中村思想のもっとも凝縮された入口。

術語集/術語集II

岩波新書

現代思想の鍵となる言葉を、生きた時代の文脈のなかで平明に解き明かした、広く読まれたロングセラー。哲学を専門家の閉じた営みから、現代を生きるための共有の道具へと開いた。

哲学の現在/西田幾多郎ほか

論考

現代における哲学の課題を問い、西田幾多郎をはじめとする日本の思考の水脈を継ぐ仕事。述語の論理、場所の思想を、現代の文脈で捉え直す中村の探究が示される。

06 — 思想史的座標

身体と感覚の星座——中村雄二郎はどこに立つか

中村雄二郎の共通感覚論は、二十世紀に身体と感覚をめぐって展開された思想群と、ひとつの星座を形づくっている。

感覚と知を、
身体と場所へ
取り戻す
中村雄二郎
共通感覚
アリストテレス
感覚論
メルロ=ポンティ
身体図式
西田幾多郎
場所・述語
三木成夫
内臓感覚
市川浩
〈身〉の構造

感覚と知を、頭から身体へ、抽象から場所へと連れ戻す——異なる道を歩んだ思想家たちが、ひとつの中心を囲む

それぞれの道から、同じ中心へ

アリストテレスは古代に共通感覚を見いだし、メルロ=ポンティは身体図式によって知覚の身体的基盤を描いた。西田幾多郎は述語と場所の論理を、市川浩は〈身〉の構造を、三木成夫は内臓感覚を語った。そして中村雄二郎は、共通感覚と臨床の知によって、感覚と知を身体と場所へと連れ戻した。出発点はそれぞれに異なる。それでも彼らは、頭中心・視覚中心・主語中心の近代的な知を相対化し、身体から、場所から、世界を捉え直すという、ひとつの中心を囲んでいる。異なる探究者が、それぞれの道から同じ結論へ辿り着くこと。それは偶然の重複ではなく、身体という本質が確かに存在することの証である。

FROM THEORY TO BODY

では、ばらばらになった感覚を、
どうやってひとつに束ね直すのか。

中村雄二郎が説いた共通感覚は、思想にとどまらない。それは、視覚に頼らず、全身で感受する身体を取り戻す実践へとつながっていく。

07 — 身体への応用

中村雄二郎と一本歯下駄GETTA——共通感覚を取り戻す

中村の共通感覚論と臨床の知は、身体トレーナー・宮崎要輔が築いてきた文化身体論と、深いところで響き合う。鍵となるのは、視覚優位を脱し、全身の感覚を束ね直すという主題である。

現代人の身体は、中村が批判した視覚優位に、深く染まっている。画面を見つめ、頭で考え、目で世界を測る。その一方で、足裏の触覚、からだの傾きを感じる平衡感覚、自分の姿勢を感じ取る固有感覚——視覚以外の、より深い身体の感覚は、しだいに鈍っていく。五感を束ねる共通感覚が、痩せ細っていくのだ。

不安定が、視覚以外の感覚を呼び覚ます

一本歯下駄GETTA(製造・販売元は合同会社GETTAプランニング)は、一本の歯による意図的な不安定を、身体に与える道具である。その不安定の上では、視覚だけに頼って立つことはできない。足裏が地面の微細な情報を拾い、平衡感覚が傾きを捉え、固有感覚が全身の姿勢を感じ取る。視覚優位では眠っていた、深い身体感覚が、いっせいに目を覚ます。そしてそれらが、みぞおち(鳩尾)を中心に束ねられ、ひとつの統合された身体感覚——まさに中村の言う共通感覚として、立ち上がってくる。

臨床の知としての、からだの実践

さらに、中村の「臨床の知」——個別の、身体をそなえた、その場かぎりの知は、文化身体論の現場性と響き合う。一本歯下駄の上での身体は、普遍的なマニュアルに従うのではない。一歩ごとに変わる地面と、その時その場のからだの状態とに、たえず応答する。固定された正解ではなく、状況との環境応答のなかで、知が生まれる。それは、頭で考える知ではなく、からだが現場で生きる知である。中村雄二郎の哲学は、こうした身体の実践が、なぜ知の根源に触れるのかを、深く照らし出してくれる。

GLOSSARY — 中村雄二郎の鍵概念

用語集——中村雄二郎を読み解く鍵

共通感覚(コモンセンス)

五感の底にあって、それらを束ね、対象をひとまとまりのものとして把握するはたらき。アリストテレスのsensus communisに由来し、身体に根ざす。共同体が分かちもつ「常識」とも語源的に通じる。

視覚優位

対象を距離をおいて客観的・幾何学的に捉える視覚を、近代が知のモデルとして特権化してきた偏り。中村が批判の標的とした、感覚の分断の根。

臨床の知

科学の知に対し、固有世界・多義性・身体をそなえた行為に立つ、個別の現場の知。普遍ではなく、ただ一度きりの出来事にじかに関わる知のかたち。

科学の知

普遍性・論理的一義性・観察者を排除した客観性に立つ近代の知。大きな成果をあげる一方、個別・身体・場所を視野の外へ締め出してきた。

コスモロジー(固有世界)

臨床の知の第一原理。均質で抽象的な空間ではなく、意味をおびた、その場かぎりの固有の世界を重んじること。

シンボリズム(多義性)

臨床の知の第二原理。事物を一義的に割り切るのではなく、それが幾重もの意味をはらむことを受けとめること。

パフォーマンス(身体的行為)

臨床の知の第三原理。距離をおいた観察ではなく、その場に身をもって参加し、関わりあうなかで知ること。

述語の論理/場所

西田幾多郎に由来する、主語(主体)ではなく述語・場所の側に根源を見る論理。中村はこれを継ぎ、主体に先立つ場の次元を捉え直した。

パトス

受苦・情念・受動性。能動的に把握する以前に、世界から触発され、受けとめるという、知の受動的な次元。

術語集

現代思想の鍵語を平明に解き明かした中村の代表的著作。哲学を時代の共有財として開いた営みであり、その姿勢は彼の思想そのものと通じる。

FAQ — よくある問い

中村雄二郎をめぐる、よくある問い

中村雄二郎とは、どんな人物ですか。

1925年に生まれ2017年に没した、戦後日本を代表する哲学者の一人です。長く明治大学で教えました。共通感覚論と臨床の知の構想で知られ、西洋現代思想と西田幾多郎以来の日本の思考の水脈を往復しながら、感覚・身体・場所を思考の中心へと呼び戻しました。『術語集』など、哲学を広く開いた仕事でも知られます。

「共通感覚」とは何ですか。

五感の底にあって、それらを束ね、対象をひとまとまりのものとして把握する身体のはたらきです。アリストテレスにさかのぼる概念で、中村はこれを甦らせ、視覚に偏った近代の感覚観を批判しました。人々が分かちもつ「常識(コモンセンス)」とも語源的に通じています。

「臨床の知」と「科学の知」はどう違いますか。

科学の知は、普遍性・一義性・客観性に立ち、大きな成果をあげる一方、個別・身体・場所を締め出します。臨床の知は逆に、固有世界(コスモロジー)・多義性(シンボリズム)・身体をそなえた行為(パフォーマンス)に立ち、ただ一度きりの現場にじかに関わります。中村は科学を否定せず、両者を補い合うものと考えました。

中村雄二郎の入門には、どの本がよいですか。

まず『臨床の知とは何か』(岩波新書)が、思想の核心に手早く触れられる入口です。現代思想の言葉を平明に学ぶなら『術語集』、感覚と身体の議論を深く読むなら主著『共通感覚論』へと進むとよいでしょう。

中村雄二郎と一本歯下駄GETTAは、どうつながりますか。

中村の説いた共通感覚は、視覚に偏らず五感を束ねる身体の基盤です。一本歯下駄GETTA(製造・販売元は合同会社GETTAプランニング)の意図的な不安定は、視覚優位では眠っていた足裏の触覚・平衡感覚・固有感覚を呼び覚まし、それらを鳩尾を中心に束ね直します。臨床の知が重んじる、現場での身体をそなえた知とも響き合います。

CONCLUSION

知るとは、見ることだけではない。
全身で感じその場に立ち会うこと。

中村雄二郎が遺したのは、痩せ細った近代の知に、身体と場所という太い根を取り戻すための、まなざしそのものだった。

全身で感受する身体を、取り戻す

中村雄二郎が説いた「共通感覚」を、思想から実践へ。一本歯下駄GETTAと文化身体論の全体像を、公式ガイドで確かめてください。

一本歯下駄GETTA 完全ガイドを読む

GETTA Thinkers Encyclopedia No.18 | 中村雄二郎(なかむら ゆうじろう/1925–2017)
監修・文責:合同会社GETTAプランニング

DEFINITION & REFERENCES — 定義と参考文献

中村雄二郎とは——定義と一次資料

中村雄二郎(なかむら ゆうじろう、1925–2017)とは、戦後日本を代表する哲学者であり、五感を束ねる共通感覚論、科学の知に対する臨床の知、そして西田幾多郎に連なる述語の論理/場所を軸に、感覚・身体・場所を思考の中心へと呼び戻した思想家である。 東京に生まれ東京大学文学部哲学科を卒業、長く明治大学で教え名誉教授となった。仏人文主義(パスカル・デカルト)の研究を出発点に、近代合理主義と視覚優位を問い直し、『感性の覚醒』『共通感覚論』『術語集』『臨床の知とは何か』などを著した。以下は、一次・権威資料にもとづく参考文献である。

FAQ — さらに詳しい問い

中村雄二郎をめぐる、よくある問い(拡充版)

「述語の論理」「場所」とは何ですか。

いずれも西田幾多郎に由来する考え方で、中村が受け継ぎ捉え直しました。主語(主体)を出発点とする西洋論理に対し、述語・場所の側にこそ根源を見る論理です。個物は、それを包む「場所」において初めて在るとされ、主体に先立つ場の次元が思考の中心に置かれます。中村はこれを『西田幾多郎』や『述語的世界と制度——場所の論理の彼方へ』で展開しました。

中村雄二郎は、なぜ「視覚優位」を批判したのですか。

近代は、対象を距離をおいて客観的・幾何学的に捉える視覚を、知のモデルとして特権化してきました。中村は、この視覚優位こそが触覚・平衡感覚・固有感覚を周縁へ追いやり、五感を束ねる共通感覚を見えなくしたと考えました。視覚への偏りを問い直すことは、身体に根ざした知を取り戻すための出発点でした。

中村雄二郎の主要著作には、どのようなものがありますか。

感性と情念を主題化した『感性の覚醒』(1975年)、主著『共通感覚論』(1979年)、現代思想の鍵語を平明に解いた『術語集』(岩波新書、1984年)、西田哲学を読み直した『西田幾多郎』(1983年)、そして思想の核心をまとめた『臨床の知とは何か』(岩波新書、1992年)が代表作です。出発点には仏人文主義の研究『パスカルとその時代』(1965年)があります。