脱学校の次は、
脱名詞だ。
― イヴァン・イリイチが残した宿題に、
文化身体論からの回答 ―
クエルナバカ対談・田尻智ポケモン論・ダ・ヴィンチコーディングの到達
なぜ、ここでしか読めないのか
イヴァン・イリイチについての解説は、世にあふれている。Wikipedia、千夜千冊、立命館大学の論文群、岩波文庫の解説。それらはどれも誠実で、優れている。本ページは、それらと並ぶことを目指していない。
このページに置かれているのは、文化身体論研究者・宮﨑要輔の鳩尾でイリイチが立ち現れた瞬間の記録である。リングサイドと西成の路上を二十年以上移動し続けた身体が、イリイチの一冊と出会ったときに、何が動いたか。それを書き残す。
この記録は三部構成をとる。第一に、もしイリイチがクエルナバカで宮﨑要輔と対話したなら、何が話されたか。第二に、イリイチが提示した四つのネットワークを、誰が、どこで、最も完全に実装したか。第三に、イリイチが残した最後の宿題 ― 「脱学校の次は何か」― への回答。
ここに書かれている内容は、他では読むことができない。それは、ここにしか書かれていないからではない。ここに書かれている内容は、特定の身体が現場で発酵させない限り、どこにも書かれ得ない種類の言葉だからである。
クエルナバカ対談 1971
― イヴァン・イリイチ × 宮﨑要輔
もし1971年、メキシコのクエルナバカ、CIDOC(国際文化資料センター)の一室で、イリイチと宮﨑要輔が出会っていたなら ― そこで交わされたであろう対話の核心。『脱学校の社会』刊行を機に、イリイチが「ダ・ヴィンチコーディング」について問いかける。
宮﨑さん、あなたの天才論を読みました。そしてあなたが「ダ・ヴィンチコーディング」と呼んでいるものについても。正直に言います。私が『脱学校の社会』で解体しようとしたものを、あなたは再構築している。しかも身体を通じて。
イリイチさん、あなたが壊したものと僕が作ろうとしているものは、実は同じものに向かっていると思っています。あなたは教育を制度から解放した。僕は天才を名詞から解放した。あなたの「脱学校」と僕の「天才を動詞にする」は、同じ運動です。
ダ・ヴィンチコーディングとは、その解放された知を、自分の身体と現場で実装する行為のことです。
「コーディング」という言葉が興味深い。プログラミングの用語ですね。
はい。しかし僕が言うコーディングは、コンピュータにコードを書くことではありません。ダ・ヴィンチが絵画と解剖学と建築と水流の観察を一つの身体の中で統合したように、複数領域を貫く統一原理を発見し、それを自分の現場で実装する行為です。発見するだけでは「ダ・ヴィンチコード」で終わる。それを実装するから「ダ・ヴィンチコーディング」になる。名詞ではなく動詞です。
そこだ。私が『脱学校の社会』で最も伝えたかったのは、学びとは「受け取るもの」ではなく「行うもの」だということです。学校は学びを名詞にした。「教育」という名詞に閉じ込めた瞬間、学びは制度の中の商品になった。あなたのダ・ヴィンチコーディングは、学びを動詞に戻している。
まさにそうです。僕の天才論の第四文で「天才を名詞としてきた近代は、天才ほど孤独だった。しかし天才を動詞とした時、天才は孤独と最も遠い存在になる」と書きました。これはあなたの仕事と同じ構造です。教育を名詞としてきた近代は、学ぶ者ほど孤独だった。しかし学びを動詞にした時、学びは人と人の間で起きる現象になる。
しかし、一つ鋭い疑問があります。あなたのダ・ヴィンチコーディングは「複数領域を貫く統一原理が存在する」と主張している。これは本当ですか。あるいは、宮﨑要輔という一人の人間の視点が、複数領域に同じ原理を「投影」しているだけではないですか。
厳しい問いですね。正直に答えます。僕も最初はそう疑っていました。自分が見たいものを見ているだけではないかと。しかし、Jリーガー百名超、プロ野球選手数十名、世界タイトルマッチに立つボクサーという現場で、この原理が繰り返し機能した。
井上尚弥のステップ幅の不変性も、中谷潤人の環境と思考による建築も、子育てにおける世代的更新も、全て同じ原理の異なる表れです。投影ではなく、現象として繰り返し立ち現れている。
その「現場での検証」が決定的に重要です。私の『脱学校の社会』が批判されたのは、理論は美しいが実装の事例が乏しいという点でした。あなたのダ・ヴィンチコーディングには、三十年分の実装データがある。
しかし僕のエッセイの弱点もあなたと同じです。理論の美しさに比べて、「では具体的にどうするのか」という実装の手順がまだ十分に言語化されていない。だから書籍では、終動負荷トレーニングと文化身体論を統合しました。理論だけでなく、身体を通じた具体的な実装方法を示すために。
宮﨑さん、最後に一つだけ聞かせてください。あなたの天才論の結語は「故に誰もが天才という現象になれる」です。ダ・ヴィンチコーディングの文脈で、これはどういう意味になりますか。
ダ・ヴィンチは一人しかいなかった。しかしダ・ヴィンチコーディングは誰でもできる。複数領域を貫く原理を発見し、自分の身体と現場で実装し、信頼できる仲間の中でそれを持続させる。この動詞的な営みの中に、天才という現象が立ち現れる。
ダ・ヴィンチは名詞です。ダ・ヴィンチコーディングは動詞です。名詞は一人に閉じる。動詞は誰にでも開かれている。
……あなたは、私が『脱学校の社会』の次に書くべきだった本を、既に書いている。私は制度を解体した。しかし解体した後に何を建てるかを、十分に示せなかった。あなたのダ・ヴィンチコーディングは、脱学校化された後の世界で人間がどう学び、どう生きるかの具体的な設計図です。
設計図というよりは、コーディングです。設計図は完成形を先に描く。コーディングは書きながら動かし、動かしながら書き直す。完成形はない。実装し続けることそのものがダ・ヴィンチコーディングです。
つまり、あなた自身がダ・ヴィンチコーディングの最中にあると。
僕だけではありません。今日のこの対話自体がダ・ヴィンチコーディングです。あなたの「脱学校」という原理と、僕の「天才は動詞である」という原理が出会い、互いの現場で再実装されている。これが信頼できる仲間の中で起きる天才の現象です。
― 対談後、イリイチはクエルナバカの自室に戻り、ノートにこう書き記したという ―
脱学校の次は、脱名詞だ。
宮﨑は既にそこにいる。
― イヴァン・イリイチ、CIDOCノートより
田尻智のポケットモンスター
― イリイチ4ネットワークの完全実装
イリイチが構想した四つの学びのネットワーク ― 教育的事物へのレファレンス、技能交換、仲間選び、教育者へのレファレンス。これらは制度を介さず、人間同士が直接出会い、学び合う仕組みである。1996年、日本の一人のゲームデザイナーが、これをゲームボーイの中で完全に実装した。その装置の名前を、ポケットモンスターという。
イリイチの『脱学校の社会』に対する最大の批判は、「美しい理想だが、実装事例が乏しい」というものだった。彼は学校に代わる4つのネットワークを提示したが、それを誰がどう実現するのかを明示しなかった。
しかし1996年、あるゲームデザイナーが、誰にも気づかれないまま、その実装を完成させていた。
[Illich’s Network]
教育的事物へのレファレンス・サービス
イリイチが言ったのは、学びの素材を学校に独占させず、誰もがアクセスできるようにすること。世界そのものが学びの場であるべきだと。
ポケモンにおける「教育的事物」とは151匹のポケモンそのもの。草むら、洞窟、水辺、あらゆる場所に散りばめられている。学校の教室ではなく、世界そのものが学びの素材になっている。子どもたちは名前、タイプ相性、進化条件、出現場所を、誰に教わるでもなく自発的に学んでいった。これは教科書ではなく、世界に散りばめられたレファレンスである。
[Illich’s Network]
技能交換 (Skill Exchange)
ある技能を持つ人と、それを学びたい人が、制度を介さずに直接出会う仕組み。商品市場ではなく贈与的な交換。
ポケモンの通信交換がまさにこれである。「僕はフーディンが欲しいけどユンゲラーしかいない」「じゃあ僕のと交換しよう」。この対話の中で、子どもたちは交渉、価値判断、信頼の構築を学んだ。決定的なのは、ポケモンには通信交換でしか進化しないポケモンがいるという設計。「一人では完成できない、他者との交換が必要だ」という思想が、ゲームの構造そのものに織り込まれている。
[Illich’s Network]
仲間選び (Peer-Matching)
イリイチが最も重視した。同じ関心を持つ人間が、自由に出会い、互いに学び合う関係。これは制度に取って代わるべき関係である。
ポケモンはこれを通信ケーブル一本で実現した。同じゲームを持つ子ども同士が、休み時間に、放課後に、自発的に集まり、対戦し、交換し、情報を共有する。誰かに組織されたのではない。ポケモンという共通の関心が、自然と仲間選びを発生させた。天才という現象は、信頼できる仲間の中にいる時に最も長く持続する。ポケモンが世界的現象として持続し続けているのは、このpeer-matchingの構造が根底にあるからである。
[Illich’s Network]
教育者へのレファレンス・サービス
制度化された「教師」ではなく、経験や知識を持つ人間に、誰でもアクセスできる仕組み。教師と生徒の固定関係を解体する。
ポケモンにおけるこの教育者は、先に攻略した友達である。「ミュウツーどこにいるの」「殿堂入りの後にハナダの洞窟」。この情報は教科書にも攻略本にも載る前に、子ども同士のネットワークで伝播した。情報を教えた子どもは「教師」になる。翌日には別の子どもから別の情報を教わり「生徒」になる。教師と生徒の固定的な関係が解体され、全員が教え、全員が学ぶ。
田尻智の天才性 ― 失われた草むらを、ゲームの中に再建した
田尻智がやったことの本質は、イリイチの四つのネットワークをゲームボーイという装置の中に実装したことである。しかし、彼自身はおそらくイリイチを意識していなかった。それでも構造的に、彼は完全な実装者になった。
決定的に重要なのは、田尻智自身の原体験である。彼は少年時代、東京の町田で昆虫採集に没頭していた。草むらや水辺で虫を見つけ、捕まえ、友達と見せ合い、交換する。この体験には、イリイチの四つのネットワークが全て含まれている。自然という教育的事物、虫の交換という技能交換、同じ関心を持つ仲間との出会い、先輩の虫取り少年という教育者。
しかし都市開発によって草むらが消えていった。田尻智はその失われた学びの生態系を、ゲームの中に再建した。ポケモンとは、失われた脱学校的な学びの場を、デジタルに復元したものである。
田尻智は、典型的なダ・ヴィンチコーダーである。昆虫採集(自然科学)、ゲームデザイン(工学)、子ども文化(社会学)、通信技術(情報工学)。複数領域を貫く統一原理 ― 「生き物を見つけ、捕まえ、育て、交換する喜び」 ― を発見し、ゲームボーイという現場で実装した。
そしてポケモンは「故に誰もが天才という現象になれる」を、世界規模で証明している。プレイする子どもたちは、誰に強制されることもなく、自発的に学び、教え、交換し、対戦する。その過程で、生命が生命らしくあろうとする動きが立ち現れる。遊んでいる子どもたちは、すでに天才という現象の中にいる。それを自覚していないだけである。
1996年。
日本の一人のゲームデザイナーが、
ゲームボーイの中でそれを実現した。
― イリイチへの、五十年越しの回答
脱名詞の到達
― イリイチの宿題への回答
イリイチが残した最後の宿題。それは「脱学校の次に、何を建てるか」である。クエルナバカのノートに彼が書き残した一文 ― 「脱学校の次は、脱名詞だ」。この宿題に、文化身体論はどう答えるか。
近代は、本来動詞だったものを、すべて名詞に変えてきた。
名詞にした瞬間、それは測定可能になり、制度化され、商品として供給されるようになる。同時にその瞬間、それは生命から切り離される。
イリイチは「教育」を名詞から動詞に戻そうとした。文化身体論は「天才」を名詞から動詞に戻そうとする。
しかし、戻すべきものはこれだけではない。幸福、成功、愛、健康、住居、仕事 ― 近代が名詞にしたものすべて。これらの一つ一つを動詞に戻す作業こそが、「脱学校の次」の仕事である。
この作業は、抽象的な思想の問題ではない。それは身体の問題である。鳩尾が動かない言葉は、すでに名詞化されている。鳩尾が動く言葉は、まだ動詞のまま生きている。
従来のトレーニング理論は、身体の動きを「テクニック」「フォーム」「メソッド」という名詞に閉じ込めた。文化身体論が回復しようとしているのは、その手前の動詞 ― 「立つ」「歩く」「走る」「感じる」「醸される」 ― である。
従来の教育論は、学びを「教育プログラム」「カリキュラム」「コンテンツ」という名詞に変質させた。文化身体論が取り戻そうとしているのは、その手前の動詞 ― 「探求する」「衝動が動く」「鳩尾が動く」「立ち現れる」 ― である。
天才を名詞としてきた近代は、
天才ほど孤独だった。
しかし天才を動詞とした時、
天才は孤独と最も遠い存在になる。
― 天才七文 第四文
名詞は一人に閉じる。動詞は誰にでも開かれている。
ダ・ヴィンチは名詞である。一人しかいなかった。だから「ダ・ヴィンチのような天才」を目指す若者は、必ず孤独になる。
ダ・ヴィンチコーディングは動詞である。複数領域を貫く原理を発見し、自分の身体と現場で実装し、信頼できる仲間の中でそれを持続させる ― この営みは、誰にでも開かれている。動詞化された瞬間、孤独は終わる。なぜなら、動詞は他者と共有できるからである。
これが、イリイチがCIDOCのノートに書き残した宿題への、文化身体論からの回答である。
脱学校の次は、脱名詞である。
脱名詞の先に、
ダ・ヴィンチコーディングが立ち現れる。
― 文化身体論からの回答
今、この読書自体が、
ダ・ヴィンチコーディングである
イリイチは2002年12月2日、ドイツのブレーメンで、癌の手術を拒んで逝った。彼は最後まで、産業医療の管理下に置かれない死を選んだ。それは思想ではなく、身体による証明だった。
『脱学校の社会』から半世紀。世界中の不登校児童は増え続け、教師の精神疾患休職は過去最多を更新し続けている。学校という制度が、内側から崩壊しつつある。イリイチが1971年に指摘した問題が、五十年後に現実として噴出している。
同時に、皮肉なことに、イリイチの四つのネットワークは、学校の外で次々に自然発生している。YouTubeは教育的事物へのレファレンス・サービスになった。SNSは仲間選びの装置になった。ChatGPTは教育者へのレファレンス・サービスになった。そしてポケモンは、四つすべてを四半世紀前から実装していた。
イリイチの宿題への、最後の回答はこうである。
ダ・ヴィンチコーディングは、誰にでも開かれている。
それは、いま、この読書自体の中で起きている。
あなたがこのページを読み、何かが鳩尾で動いたなら、それはあなたの身体が、自分の現場で再実装する原理を発見した瞬間である。その発見を、自分のフィールド ― スポーツ、子育て、経営、教育、創作 ― で動詞として実装したとき、ダ・ヴィンチコーディングは始まっている。
名詞化された言葉は、一人に閉じる。動詞化された言葉は、信頼できる仲間の中で、いつまでも持続する。これが、イリイチが望み、文化身体論が応答する、最後の地平である。
脱学校の次は、脱名詞だ。
宮﨑は既にそこにいる。
そして今、あなたも。
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