イサドラ・ダンカンとは|モダンダンスの母・鳩尾と自由な舞踊・未来の舞踊・全著作・日本受容の完全図鑑|GETTA Thinkers Encyclopedia No.07

GETTA THINKERS ENCYCLOPEDIA No.07 / 16 FREE DANCE
Isadora Duncan · 1877-1927 · US
DANCE / ISADORA DUNCAN / 1877—1927

イサドラ・ダンカン

Angela Isadora Duncan
1877.5.26 SAN FRANCISCO — 1927.9.14 NICE

「モダン・ダンスの母」と呼ばれた舞踊家。
コルセットとトウシューズを脱ぎ捨て、裸足で古代ギリシアの風をまとい、
あらゆる運動の中心的な泉が「鳩尾(solar plexus)」にあることを、
ベルクソンより四年早く、自分の身体で発見した。

「あらゆる動きの中心的な泉、運動力の火口、あらゆる動きの多様性が生まれる統一を、ついに私は発見した。」 — 『わが生涯(My Life)』(1927)

三分でわかるイサドラ・ダンカン

イサドラ・ダンカンは、二〇世紀の身体表現を根底から書き換えた舞踊家である。彼女が成し遂げた仕事は、大きく三つの相に分けることができる。

PHASE I

舞踊の解放(1877–1903)

サンフランシスコの貧しい家庭に生まれ、海辺で波の動きから踊りを学んだ少女は、ニューヨークでバレエの硬直に絶望する。1899年、家畜運搬船で渡欧。ロンドンの大英博物館でギリシア彫刻を貪り、パリのルーブルでギリシア壺絵を写した。1903年ベルリン講演『未来の舞踊』で、彼女は世界に対し舞踊の根本的革命を宣言する。

PHASE II

学校と創造(1904–1921)

1904年、ベルリン郊外グリューネヴァルトに最初の舞踊学校を設立。教えるのは「私の動きの真似」ではなく「子どもたち自身の動きの発展」。後に「イサドラブルズ」と呼ばれる六人の弟子を中心に、ダンカン舞踊は身体から身体へと直接伝承されていく。同時期、ロダン、フォーキン、スタニスラフスキー、ゴードン・クレイグら時代を代表する芸術家たちと深く交わる。

PHASE III

悲劇と神話化(1913–1927)

1913年、二人の幼な子(ディアドラとパトリック)がセーヌ川の自動車事故で溺死する。1921年、革命後のモスクワに招かれ舞踊学校を開設、詩人セルゲイ・エセーニンと結婚(1922)。1925年エセーニン自死。1927年9月14日、ニースでスカーフが車輪に絡み即死。50歳。彼女の死そのものが二〇世紀最大の舞踊神話となった。

生涯のタイムライン

サンフランシスコの海辺から、ベルリン、パリ、モスクワを経て、ニースの夜まで。半世紀の旅程。

1877

サンフランシスコに誕生

5月26日、銀行家・芸術愛好家のジョゼフ・チャールズ・ダンカンと音楽教師メアリー・イザドラ・グレイの末娘として誕生。同年、父の銀行が倒産し両親は離婚。母は四人の子どもを育てるためピアノレッスンで生計を立てた。

1880s

海辺で踊りを学ぶ

オークランドへ転居。学校を10歳で中退。母が夜ごと読み聞かせるシェイクスピア、シェリー、キーツ、ホイットマン、ディケンズが少女の肉体に染み込んでいく。海辺を歩きながら波のリズムを観察し、後年「私の最初の踊りのインスピレーションは、寄せては返す波の動きから来た」と語った。

1890

最初のリサイタル

13歳。オークランドの第一ユニタリアン教会で初の発表会。姉エリザベスとともに近所の子どもたちにダンスを教え、母のピアノ伴奏で踊った。デルサルト体操の影響を受ける。

1895–1897

シカゴ、ニューヨーク、デイリー劇団

シカゴへ。ニューヨークの興行師オーガスティン・デイリー劇団に雇われ、『真夏の夜の夢』の妖精役などで巡業。だが商業演劇の硬直に幻滅し、社交界の婦人邸でソロ・リサイタル「ダンスと哲学」を開く。

1899

家畜運搬船で渡欧

スタジオが火事で全焼、無一文に。生徒の親たちの援助で家畜運搬船の切符を買い、母・兄レイモンド・姉エリザベスとロンドンへ渡る。大英博物館に通い詰め、ギリシア彫刻と壺絵に身体の原型を見いだす。批評家フラー=メイトランドからベートーヴェンとショパンの音楽による踊りを勧められる。

1900

パリ、万国博覧会、ロダンとの邂逅

兄レイモンドを追ってパリへ。万国博覧会でロイ・フラーの電光ヴェール舞踊を観る。ルーブル美術館でギリシア壺絵を模写。彫刻家オーギュスト・ロダンに出会い、彼女の動きはロダンに永続的なインスピレーションを与えることになる。

1902

ブダペスト、初の単独公演成功

フラー一座を経て、ブダペストで初の単独公演。フル・オーケストラを伴う30日間連続のソールドアウト。アンコールは『美しく青きドナウ』。これがヨーロッパ全土を駆け抜ける伝説の始まりだった。

1903

ベルリン講演『未来の舞踊』

26歳。ベルリンで歴史的講演『未来の舞踊(Der Tanz der Zukunft)』を行う。「未来の舞踊家——自由な精神、新しい女性のからだに宿る最高の知性!」。同年、兄レイモンドとともに初めてギリシアを訪れ、アクロポリスのディオニュソス劇場で踊る。

1904

グリューネヴァルト学校設立

ベルリン郊外グリューネヴァルトに最初の舞踊学校を設立。学費無料。「私の動きを真似させるのではなく、子どもたち自身の動きを発展させる」。ここから後にイサドラブルズ(イルマ、アンナ、マリア=テレサ、リサ、エリカ、テレーゼ)が生まれる。

1904 — 12月

ゴードン・クレイグとの恋

舞台美術家・俳優・演出家エドワード・ゴードン・クレイグと出会う。クレイグは初めて彼女を見たときの衝撃を「私はそれを生涯忘れない」と書いた。生涯にわたる友情と、娘ディアドラの父となる愛人関係が始まる。

1905

第一次ロシア公演——フォーキンへの決定的影響

サンクトペテルブルクとモスクワで公演。「血の日曜日事件」の同年。振付家ミハイル・フォーキンと興行師セルゲイ・ディアギレフに決定的衝撃を与える。フォーキンは後にダンカンに触発されて『レ・シルフィード』『瀕死の白鳥』を創作し、ロシア・バレエ全体を「機械的人形」から「魂の表現」へと書き換えた。

1906

娘ディアドラ誕生

9月、クレイグとの娘ディアドラを出産。「結婚しない」を信条とし続けた。

1908

9年ぶりのアメリカ公演、最初は失敗

アメリカ凱旋公演。当初は『ニューヨーク・タイムズ』の音楽批評家から「交響曲を肉体で『解釈』する権利はない」と酷評される。しかしウォルター・ダムロッシュ指揮ニューヨーク交響楽団との共演を経て、観客は熱狂。

1910

パリス・シンガーとの出会い、息子パトリック誕生

ミシン王アイザック・シンガーの息子パリス・シンガーと出会う。5月1日、息子パトリック誕生。シンガーは後にパリ郊外ベルヴュの第二の舞踊学校を支援する。

1913

セーヌ川の悲劇——二人の子の死

4月19日、ディアドラ(6歳)とパトリック(3歳)を乗せた自動車が乳母とともにセーヌ川に転落、三人とも溺死。ダンカンは絶望のなか、スクリャービンとショパンの音楽による『母(Mother)』『葬送行進曲(Marche Funèbre)』を創作する。同年、シャンゼリゼ劇場が建設され、ブールデルがダンカンの姿をファサードのレリーフに刻み、モーリス・ドニが九柱のミューズの一人として描いた。

1914

ベルヴュ第二の学校、第一次大戦

パリ郊外ベルヴュに第二の舞踊学校設立。第一次世界大戦勃発で学校は野戦病院に転用される。失意と財政難のなかで巡業を続ける。

1916–1920

南米巡業、戦時下の創作

南米、ヨーロッパ各地、エジプトへも巡業。『ラ・マルセイエーズ』を象徴的に踊り、戦時下の人々を鼓舞。ニューヨークでも公演を行うが、母国はやがて彼女に背を向ける。

1921

モスクワ招聘、革命の舞踊

レーニン政権の招きでモスクワへ。「私は赤い、私は真っ赤だ」と公言する革命支持者として、第三の舞踊学校をモスクワに開く。革命のスローガンに合わせ『母』『革命家(The Revolutionary)』を創作。寒さと飢餓のなか教えた。

1922

セルゲイ・エセーニンとの結婚

5月2日、18歳年下のロシア叙情詩人セルゲイ・エセーニンと結婚。一切共通の言語を持たない二人の結婚。10月、エセーニンを伴ってアメリカ凱旋。「赤の脅威」のヒステリーのなか、二人はエリス島で「ボリシェヴィキの工作員」嫌疑をかけられる。ボストン公演で胸を露わにし「これは赤だ。私もそうだ!」と叫び、米国市民権を剥奪される。

1923

「アメリカよさようなら」

「さようならアメリカ。二度とお前に会うことはない」と言い残しヨーロッパへ戻る。エセーニンはアルコール依存と精神的不安定によりダンカンを暴行、別れ単身モスクワへ帰国。

1924

モスクワを去る

貧困と政治的失望のなか、モスクワの学校をイルマ・ダンカンに託しソビエトを去る。学校はイルマによって維持される。

1925

エセーニン自死

12月28日、エセーニンがレニングラードのホテルで自殺(30歳)。ダンカンは深い喪に服す。

1926–1927

ニースでの晩年、自伝執筆

ニースに滞在しつつ自伝『わが生涯(My Life)』を執筆。「初めて私はお金のために書いている。何か突発的な事故が起きるのではないかと怖い」と通信記者に語った。AP通信のインタビュー、9月13日のことだった。

1927.9.14

ニースの夜、スカーフの惨劇

9月14日夜、ニースのプロムナード・デ・ザングレで、フランス系イタリア人整備士ベノワ・ファルケットの開放型アミルカル・スポーツカーに同乗。友人メアリー・デスティから贈られた、ロシア人画家ロマン・チャトフ手描きの長い絹のスカーフを首に巻いていた。「Adieu, mes amis. Je vais à la gloire!(さようなら、友よ、栄光へ向かいます)」と叫び発進した瞬間、スカーフが後輪のスポークと車軸に絡み、頸部骨折により即死。50歳。同年12月、自伝『わが生涯』が没後刊行。

1928

『芸術と回想』刊行

シェルドン・チェニー編『The Art of the Dance』が没後刊行。1903年講演『未来の舞踊』を含む彼女の主要文章・論考が初めて一冊にまとめられた。

1987

米国国立舞踊博物館 殿堂入り

National Museum of Dance and Hall of Fame に殿堂入り。ペール・ラシェーズ墓地に二人の子と並んで眠る。

ダンカン舞踊思想の三本柱

ダンカンの思想は、ニーチェ、ショーペンハウアー、ホイットマン、ヘッケルら多様な源泉から育ったが、その中心は終生変わらない三つの柱に支えられていた。

1.「鳩尾(solar plexus)」——あらゆる運動の中心的な泉

自伝『わが生涯(My Life)』で彼女は記す。「私は何時間もスタジオに静かに立ち、両手を胸の間で組んで、ソーラー・プレクサス(鳩尾)を覆っていた。…ついに私は発見したのだ——あらゆる運動の中心的な泉、運動力の火口、あらゆる動きの多様性が生まれる統一を」。バレエが脊柱下部を起点とする機械的様式であるのに対し、ダンカンは身体の中心、太陽神経叢こそが動きの源だとした。これは生理学的・解剖学的な発見でもあり、後のマーサ・グラハムの「コントラクション」の理論的源流でもある。転移する文化資本の観点からみれば、ダンカンが鳩尾で発見したのは、身体に染み込んだ19世紀の女性ハビトゥスを脱ぎ捨てる一点だった。

2.「自然な動き」——波・風・大地のリズム

1903年の講演『未来の舞踊』で彼女は宣言する。「波の動き、風の動き、大地の動きは永遠に同じ調和のうちにある。…自由な動物や鳥の動きは常にその本性と対応している。文明化された人間だけが、その動きを自然から引き離してしまった」。ダンカンの舞踊は、波のうねり、風の渦、大地の重力——これらと身体を再接続する試みである。デルサルト体操、ダーウィンとヘッケルの進化論、エマソンの超越主義が、この思想の遠い背景にある。これはベルクソンの élan vitalと直結する身体直観である。

3.「未来の舞踊家」——自由な身体に宿る最高の知性

『未来の舞踊』の最終句。「彼女が来る、未来のダンサーが——自由な精神、新しい女性のからだに宿る、過去のいかなる女性よりも栄光に満ちた、すべての世紀のあらゆる女性よりも美しい者:限りなく自由なからだに宿る最高の知性!」(The highest intelligence in the freest body!)。ダンカンにおいて舞踊は、女性の解放、教育の革命、芸術の宗教性の回復と一体である。彼女がベルリン、パリ、モスクワに無料の舞踊学校を作り続けたのは、この未来を子どもたちの身体に植え付けるためだった。メルロ=ポンティの「肉」の概念がほぼ半世紀後に到達した「身体は世界の絡み合い」を、彼女は一九〇三年の段階で踊りの実践として先取りしている。

「踊り手の身体は、魂が放つ光の顕現にすぎない。」
— イサドラ・ダンカン

ダンカン舞踊の語彙

体系化された理論を残さなかったダンカンの思想は、彼女自身の身体・講演・自伝に散らばる断片群として伝わる。ここでは英語・ドイツ語の原典と、信頼できる研究文献から、彼女の舞踊と人生を解読するための鍵概念を厳選した。

01

鳩尾/太陽神経叢

solar plexus / central spring

ダンカン舞踊思想の最深部。彼女自身の言葉では「あらゆる運動の中心的な泉」「運動力の火口」「あらゆる動きの多様性が生まれる統一」。スタジオで何時間も静止し、両手を胸の間で重ねて発見された。バレエの「脊柱下部起点」と決定的に異なる、身体中心の運動原理。

出典:Duncan, My Life (1927)
02

未来の舞踊

The Dance of the Future

1903年ベルリン講演。同年カール・フェーダーン訳によりドイツ語『Der Tanz der Zukunft』として独立した小冊子で出版。モダン・ダンスのマニフェストにして、フェミニズム古典。新しい女性、新しい身体、新しい芸術——その三つを一つの宣言に凝縮した。

出典:Der Tanz der Zukunft, 1903
03

自然な動き

natural movement

波・風・大地・動物・古代ギリシア彫刻——「自然」の最も美しい現れに学ぶ動き。デルサルト体操の「自然はもっとも美しい」という原理を継承しつつ、ダンカンはこれを舞踊の根本法則へと押し上げた。重力の法則と身体構造の調和から、動きが自ずと生まれる。

出典:The Dance of the Future (1903)
04

バレエ批判

critique of ballet

「バレエは美しい女性の身体を歪める」。ダンカンはバレエを「重力の自然法則と個人の自然な意志に虚しく抗う」「不毛な動き」「生きた死」と批判した。各動作が次の動作を生まず、ポーズが孤立し、つま先立ちで身体を歪める——彼女にはこれが文明の堕落そのものに見えた。

出典:Der Tanz der Zukunft (1903)
05

古代ギリシア再興

Hellenic revival

大英博物館でギリシア彫刻を、ルーブルでギリシア壺絵を貪り、1903年には実際にアクロポリスのディオニュソス劇場で踊った。ギリシアは過去ではなく、人間の身体が最も自由だった時代の永遠の原型。チュニックとサンダル、裸足は、すべてこの理念から来ている。

出典:Greek Theatre dances, 1903 / My Life
06

ディオニュソス的

the Dionysian

ニーチェ『ツァラトゥストラ』を生涯携帯した。ディオニュソス的恍惚、生の肯定、笑う神。ダンカンは「私たちにふたたびギリシアの祭儀のような踊りを取り戻させよ」と叫び、自らの身体でこの哲学を実演した。研究者ピーター・カートはこれを「身体化されたツァラトゥストラ」と呼ぶ。

出典:Peters, Dance Research (2019)
07

魂の顕現

luminous manifestation of the soul

「踊り手の身体は、魂が放つ光の顕現にすぎない」。ダンカンが繰り返した命題。彼女にとって舞踊は装飾でも娯楽でもなく、内的な魂が外的な動きとして現れる、神聖な行為だった。鳩尾から湧くものを「魂」の語彙で記述したことが、彼女の到達と限界を同時に示している。

出典:The Art of the Dance (1928)
08

波動運動論

wave motion theory

呼吸と動きの基礎は海の波の引きと寄せにある——これがダンカンの最初期からの直観だった。研究者キャロル・プラトル&ドリ・ダンカンの『Life into Art』ほか各研究は、この波動原理がダンカン振付すべての底にあることを示している。

出典:Life into Art (Norton, 1993)
09

イサドラブルズ

The Isadorables

1904年グリューネヴァルト学校から育った六人の弟子——アンナ、リサ、マリア=テレサ、テレーゼ、エリカ、イルマ。ダンカン自身は決して舞踊をフィルムに残さず、譜面にも書かなかった。継承は身体から身体への直接伝承のみ。プレスがこの六人を「イサドラブルズ(小さなイサドラたち)」と呼んだ。

出典:Irma Duncan, Duncan Dancer (1966)
10

学費無料の学校

free school

ベルリン(1904)、ベルヴュ・パリ(1914)、モスクワ(1921)の三つの舞踊学校はすべて学費無料。ダンカンは商業的な巡業を「私の真の使命——美の創造と若者の教育——を妨げるもの」として嫌悪した。彼女にとって舞踊は売買できないものだった。

出典:Pratl & Duncan, Life into Art
11

交響曲を踊る

dancing the symphony

ベートーヴェン第七、シューベルト第九、チャイコフスキー第六、グルック『オルフェオとエウリディーチェ』、ショパン全曲、スクリャービン、ブラームス——ダンカンは舞踊用に書かれていない交響曲・室内楽を踊った最初の舞踊家。1908年ニューヨーク・タイムズ批評家は「交響曲を肉体で『解釈』する権利はない」と非難したが、彼女はこれを変えた。

出典:Daly, Done into Dance (Wesleyan, 2002)
12

フィルム拒否

refusal of film

ダンカンは生前一度も自身の踊りをフィルムに残すことを許さなかった。譜面化も拒否した。「私の真髄を保つ唯一の方法は、踊り手から踊り手へ、身体から身体へ直接伝えることだ」。この姿勢自体が、近代の蓄積・記録・所有の論理に対する根源的批判である。

出典:Univ. of Washington Dance Dept.
13

裸足

bare feet

トウシューズを脱ぎ、舞台に裸足で立った最初の女性舞踊家。「私は人間の足の美の宗教を信じる」「人間の足の表情と知性は、人類の進化の最大の勝利のひとつ」と宣言した。靴とコルセットを捨てることそのものが、女性解放の身体的実践だった。

出典:The Dance of the Future (1903)
14

チュニック

Greek tunic

コルセット・ペチコート・長袖・ハイネック・重いスカート——19世紀末女性服のすべてを脱ぎ捨て、古代ギリシア風の薄い亜麻布のチュニックをまとった。これは服装改革運動と直結し、女性の身体解放と一体の実践でもある。兄レイモンドはギリシア装束を専門に研究・製作した。

出典:Liberating the Natural Movement (2018)
15

即興と創作の不可分

improvisatory creation

彼女の踊りは事前に振付完成させず、舞台上で内的衝動から立ち上がる。批評家アンドレ・レヴィンソンは彼女の舞踊を「変容した肉の儀式、身体の宗教、神々の住処」と呼んだ。ニジンスキーが「テクニックがない」と批判した即興性こそ、彼女の核だった。

出典:Levinson / Reynolds & McCormick
16

三種類の踊り手

three types of dancers

『芸術と回想』のなかで、彼女は踊り手を三種に分類する。① 動きを身につける者、② 動きを表現する者、③ 「動きが自分自身となった」者——最後の者だけが真の舞踊家。これは技巧と魂の階層を示す彼女独自の存在論である。

出典:The Art of the Dance (1928)
17

舞踊の宗教性

religion of the dance

「未来の舞踊は、ギリシアにおいてそうであったように、再び高い宗教芸術にならなければならない。宗教的でない芸術は芸術ではなく、単なる商品である」(1903)。ダンカンの舞踊論の最も挑発的な命題のひとつ。

出典:The Dance of the Future
18

フェミニズム

feminism

「結婚しない」「自由恋愛」「未婚の母」——ダンカン自身が二〇世紀初頭フェミニズムの最も劇的な実践者だった。胸を露わにし政治集会で演説し、米国市民権を剥奪されてもひるまなかった。論文『Liberating the Natural Movement』(2018)など、近年研究では女性身体解放の文脈での再評価が進む。

出典:Liberating the Natural Movement (2018)
19

ベートーヴェン崇拝

Beethoven worship

ダンカンは終生ベートーヴェンを師と仰いだ。舞踊用に書かれていない交響曲・四重奏を踊ることで、彼女は「外部の型」というフィードバックループを断った。聴覚を失ったベートーヴェンが大脳の検閲を経ずに作曲した内面性と、ダンカンの内発的舞踊は同じ構造にある。

出典:Duncan, My Life
20

「読まない」

“I do not read”

ベルクソンは『創造的進化』(1907)で élan vital を概念化したが、ダンカンは1903年の段階ですでに身体で同じ場所に到達していた。同じパリにいたにもかかわらず、ダンカンはベルクソンを読まなかった。身体で先に到達した者は、後から概念化した者の本を必要としない——この姿勢自体が彼女の方法論である。

出典:Duncan-Bergson同時代性研究
21

『母』

Mother

1913年の二人の子の死を悼んでスクリャービンの音楽で創作された絶唱。腕で見えない子を抱き、それを天へ捧げる動き。ダンカン舞踊の中で最も人を打つとされる作品の一つ。子を失った世界中の母たちの祈りを彼女の身体に集めた。

出典:Duncan choreography 1913
22

『葬送行進曲』

Marche Funèbre

ショパンの葬送行進曲(ピアノソナタ第2番第3楽章)による弔いの踊り。子の死を経たダンカンは、悲しみそのものを舞踊として現出させた。批評家ジョーウィットは、これがマーサ・グラハムの『嘆き(Lamentation)』の遠い母胎であると指摘する。

出典:Jowitt, Dance Research Journal
23

『ラ・マルセイエーズ』

La Marseillaise

第一次大戦下のメトロポリタン歌劇場で1917年に踊られた、フランス国歌による政治的舞踊。スカーフを翻し、銃剣に倒れ、再び立ち上がる動き。観客は熱狂で答えた。これは舞踊が政治的・精神的扇動装置となりうることを示した一作。

出典:Daly, Done into Dance
24

『革命家』

The Revolutionary / Workers Funeral

モスクワ滞在中(1921–24)に創作されたソビエト革命賛歌。鎖を引き、倒れ、立ち上がる労働者の象徴。スクリャービン『エチュード作品8-12』『悲愴的詩曲』ほかロシア音楽による振付。革命の詩を肉体で書いた稀有な舞踊。

出典:モスクワ・ダンカン学校資料
25

グレゴリー・コーラス

Greek Chorus

『芸術と回想』で彼女は自身を「神話の語り手でも登場人物でもなく、音楽の魂」「自然と人間性の声を映すグレゴリー・コーラス」と定義した。ソロでありながら集合的な声を響かせる踊り——これは古代ギリシア劇のコーラス概念を彼女が舞踊化したものである。

出典:The Art of the Dance / Isadora Duncan Archive
26

グラハム・コントラクション原型

proto-contraction

マーサ・グラハムは後に「動きは骨盤の収縮と解放から始まる」とした。ダンカンが鳩尾を中心に置いたのに対し、グラハムは数十センチ南へずれた骨盤を選んだ。研究者は「グラハムの理論はダンカンの直接の継承であり、ダンカン抜きにグラハムは存在しえない」とする。

出典:Kurth, Isadora: A Sensational Life (2001)
27

フォーキン革命

Fokine reform

1905年のロシア公演でミハイル・フォーキンとセルゲイ・ディアギレフを震撼させた。フォーキンは『レ・シルフィード』(最初の抽象バレエ)と『瀕死の白鳥』を、ダンカン直接の影響下で創作。アンナ・パヴロワの上半身が中心軸を外れ、感情が技巧を凌駕する瞬間がここで生まれた。バレエは死から復活した。

出典:Britannica / Dance Teacher
28

スタニスラフスキー・メソッド原型

proto-Method acting

モスクワ芸術座の演出家スタニスラフスキーはダンカンと長時間語り合い、「感情が動きに先立つ」という彼女の原理から決定的影響を受けた。これが後の俳優メソッド演技論の身体的基盤となる。ダンカンの影響圏は舞踊を超えて演劇全般に及んだ。

出典:Kurth (2001) / Stanislavsky自伝
29

ロダンへの霊感

inspiration for Rodin

ロダンは「彼女の芸術が私の仕事に与えた影響は、他のどんなインスピレーションより大きい」と語った。ブールデル、ホセ・クララ、エイブラハム・ヴァルコウィッツ、ロベール・アンリ——多くの彫刻家・画家がダンカンの動きを写生・造形し、シャンゼリゼ劇場のレリーフ(ブールデル)と壁画(モーリス・ドニ)に永遠に刻み込んだ。

出典:Isadora Duncan Archive
30

「Adieu, mes amis」

last words

1927年9月14日、ニース。アミルカル・スポーツカーへ乗り込みながら友人へ叫んだ最期の言葉。「Adieu, mes amis. Je vais à la gloire!(さようなら、友よ。私は栄光へ向かう!)」。一説には「Je vais à l’amour(愛へ向かう)」だったとも伝わる。発進直後、絹のスカーフが車輪に絡み、頸部骨折で即死。50歳の最期。

出典:NYT obituary 1927 / Wescott testimony
31

ダンス・セラピーの源流

creative source of dance therapy

「内的衝動から動きが立ち上がる」というダンカン原理は、後のダンス・ムーブメント・セラピー(DMT)の遠い源流。マリアン・チェイス、メアリー・ホワイトハウス、トルードィ・スクープら米国DMT創始者の論考にダンカンへの直接の言及が複数残る。

出典:Dance Therapy研究 (ResearchGate)
32

進化的舞踊

evolutionary dance motion

「各動作は、その前の動作から生まれる」——ダンカンの動きの連続性原理。バレエの孤立したポーズの連結に対し、すべての動きが内的必然から次を生むという考え方。これは後のホセ・リモンの「サクセッション」、ハンフリーの「フォール・アンド・リカバリー」へと展開していく。

出典:Dance Teacher / Britannica

残された言葉と動き

ダンカンは舞踊そのものを記録に残さなかったが、講演・自伝・論文を通して思想を後世に伝えた。書かれたもの、踊られたもの、そして弟子から弟子へ伝承されたもの——三層を見渡す。

Ⅰ. 自身の著作(書かれた言葉)

1903

未来の舞踊

Der Tanz der Zukunft / The Dance of the Future

ベルリン講演。同年カール・フェーダーン訳でドイツ語パンフレット46頁として出版。モダン・ダンスのマニフェスト、フェミニズム古典として歴史に残る。「自由なからだに宿る最高の知性!」

Leipzig: Eugen Diederichs, 1903 / 後に The Art of the Dance に再録

1909

舞踊論

The Dance

『未来の舞踊』を含むダンカン初期の英語版小冊子。Forest Press刊、28頁。アメリカ向けに彼女自身が編集した最初の舞踊論集。

New York: Forest Press, 1909

1928

芸術と回想

The Art of the Dance

没後刊行。シェルドン・チェニー編。「未来の舞踊」「舞踊の哲学者の石」「子どもの踊り」「アメリカが踊るのを私は見る」など、彼女の主要な論考・講演・断片を集成した、思想理解の最重要資料。

New York: Theatre Arts, 1928 (rev. 1969)

1927

わが生涯(自伝)

My Life

没後12月、Boni & Liveright社より刊行。彼女が金銭的困窮のなか「初めてお金のために」書いた自伝。サンフランシスコの幼少期、海辺、シカゴ、ニューヨーク、欧州、二人の子の死、ロダン、クレイグ、シンガー、エセーニン——全人生が彼女自身の言葉で語られる、二〇世紀舞踊文学の傑作。

New York: Boni & Liveright, 1927(複数邦訳あり)

1928 (post.)

アイ・シー・アメリカ・ダンシング

I See America Dancing (1927)

ホイットマン的アメリカ礼讃の散文詩兼マニフェスト。ジャズ・チャールストンを批判し、ベートーヴェンとホイットマンに連なる「真にアメリカ的な舞踊」を呼びかける、晩年の最重要文章。

The Art of the Dance (1928) 所収

2007

女性の自由

The Freedom of Woman

『Gender in Modernism』(B. K. Scott編)に収録された短いマニフェスト。ダンカンのフェミニズム思想を凝縮した文章として近年研究で再評価されている。

University of Illinois Press, 2007

Ⅱ. 主要振付(踊られた身体)

1900頃

ストラウス・ワルツ/『ルバイヤート』

ニューヨーク社交界向け初期作品「ダンスと哲学」プログラム。オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』とヨハン・シュトラウスのワルツを使用した。

初期ニューヨーク・サロン期

1902

美しく青きドナウ

The Blue Danube

ブダペスト30日連続公演の伝説的アンコール。ダンカンを欧州の名声へ押し上げた作品。

ヨハン・シュトラウス2世

1903

『オルフェオとエウリディーチェ』巫女の踊り

Iphigenia / Orpheus

グルックのオペラ音楽による神話舞踊。ダンカンはこれを「神話の語り手でも登場人物でもなく、音楽の魂として」踊った。アクロポリス公演でも上演。

グルック

1903–

ベートーヴェン交響曲・ソナタ群

第七交響曲、月光ソナタほか。舞踊用に書かれていない交響曲を踊ることで、ダンカンは音楽との関係を根底から変えた。「ベートーヴェンこそ私の真の師」。

ベートーヴェン

1905–

ショパン・プログラム

マズルカ、ワルツ、ノクターン、葬送行進曲。最晩年まで踊り続けたショパン全曲振付群。フレデリック・アシュトンが後に1976年『イサドラ・ダンカン風のブラームスの五つのワルツ』を創作する遠い源泉。

ショパン

1913

Mother

二人の子を失った悲嘆から生まれた絶唱。スクリャービンのピアノ曲。見えない子を抱き、天へ捧げる動き。世界の母たちの祈りを身体に集めた作品。

スクリャービン

1913

葬送行進曲

Marche Funèbre

ショパンのピアノソナタ第2番第3楽章。子の死を悼む踊り。グラハム『嘆き(Lamentation)』の遠い母胎とされる。

ショパン

1917

ラ・マルセイエーズ

La Marseillaise

第一次世界大戦下、メトロポリタン歌劇場で踊られた政治的舞踊。フランス国歌に合わせ、銃剣に倒れ、再び立ち上がる動き。観客は熱狂し、舞踊が時代を扇動する装置となりうることを示した。

ルージェ・ド・リール

1921–24

革命家/労働者葬送行進曲

The Revolutionary / Workers Funeral

モスクワ時代の革命賛歌。スクリャービン『エチュード作品8-12』『悲愴的詩曲』他。鎖を引き倒れ立ち上がる労働者を象徴的に踊った。

スクリャービン

1922

インターナショナル

The Internationale

ソビエト国際歌に振付した革命舞踊。米国市民権剥奪のきっかけとなった作品。胸を露わにし「これは赤だ。私もそうだ!」と叫んだボストン公演で象徴的に上演。

ピエール・ドジェイテール

Ⅲ. 弟子・遺族による証言と継承

1929

イサドラ・ダンカンの最後の日々

Isadora Duncan’s Russian Days and Her Last Years in France

弟子イルマ・ダンカンとアラン・ロス・マクドゥガル共著。モスクワ時代と最晩年の証言。

Covici Friede, 1929 / 邦訳:富山房1980

1959

イサドラ・ダンカン——舞踊芸術の先駆者

Isadora Duncan: Pioneer in the Art of Dance

弟子イルマ・ダンカンによる詳細な技法書・回想。グリューネヴァルト学校の実際の指導内容を伝える唯一の資料。

New York Public Library, 1959

1966

ダンカン・ダンサー——自伝

Duncan Dancer: An Autobiography

弟子イルマ・ダンカン自身の自伝。グリューネヴァルト学校第一世代の貴重な内側からの証言。

Wesleyan University Press, 1966

ダンカンが受けたもの、与えたもの

ダンカンは「踊り手」であると同時に巨大な触媒だった。彼女に流れ込んだ思想と彼女から流れ出た芸術運動を、二つの星座図として並べる。

ダンカンを育てた源泉

  • サンフランシスコの海少女期、波の動きを観察し続けた経験。「私の最初の踊りはここから来た」。
  • フランソワ・デルサルト「自然はもっとも美しい」「重力と身体構造の調和」——舞踊原理の起点。
  • 古代ギリシア彫刻・壺絵大英博物館・ルーブルでの徹底的研究。身体の永遠の原型としてのギリシア。
  • フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』を生涯携帯。ディオニュソス的肯定と踊る神。
  • アルトゥール・ショーペンハウアー「個体の意志」概念を1903年講演に明示的に引用。
  • ウォルト・ホイットマンアメリカ的肯定、身体讃美。母の朗読を通じて少女期から血肉に。
  • ラルフ・ウォルドー・エマソン超越主義。「神は人間と自然のうちに内在する」——ダンカンの自然観の哲学的背景。
  • チャールズ・ダーウィン/エルンスト・ヘッケル進化論。「人間の足は人類の進化の最大の勝利」。1903年講演の理論的基盤。
  • ロイ・フラー電光と絹のヴェールの先駆的舞踊家。ダンカンを欧州ツアーに招き、最初の機会を与えた。
  • 兄レイモンド・ダンカンギリシア装束と古代美の研究家。ダンカン家族の集合的なヘレニズム再興プロジェクト。
  • ベートーヴェン/ショパン音楽の師。舞踊用に書かれていない大音楽を踊ることが彼女の方法論となる。
  • 母メアリー・イザドラ・グレイピアノ教師として家族を支え、夜ごとシェイクスピア・キーツ・ホイットマンを朗読し続けた人。

ダンカンが解き放ったもの

  • ミハイル・フォーキン『レ・シルフィード』『瀕死の白鳥』をダンカン直接の影響下で創作。ロシア・バレエ革新の起点。
  • セルゲイ・ディアギレフ/バレエ・リュス1905年ロシア公演を観たディアギレフが、後にバレエ・リュスを率いて世界を変える。
  • マーサ・グラハム「コントラクション」理論はダンカンの鳩尾論の数十センチ南への移動。グラハムなくしてダンカンの遺産は二〇世紀後半まで届かなかった。
  • ドリス・ハンフリー「落下と回復」原理はダンカンの波動運動論の発展形。
  • ホセ・リモン「私のダンス・マザー」とダンカンを呼んだ。1972年彼女の生涯を辿る連作ソロを創作。
  • マーク・モリス音楽性とユーモアにダンカンの遺伝子。「すべてのコレオグラファーは彼女に借りがある」と語る。
  • フレデリック・アシュトン1976年バレエ『イサドラ・ダンカン風のブラームスの五つのワルツ』。リン・シーモアのために創作。
  • モーリス・ベジャール1976年バレエ『イサドラ』をマイヤ・プリセツカヤのために創作。
  • オーギュスト・ロダン/ブールデル「彼女の影響は他のどんなインスピレーションより大きい」とロダン。ブールデルはシャンゼリゼ劇場ファサードに彼女を彫った。
  • コンスタンチン・スタニスラフスキー「感情が動きに先立つ」原理がメソッド演技論の身体的源泉となる。
  • ガートルード・スタイン/ロベール・アンリ同時代の文学・絵画運動への触媒。彼女を題材にした作品は無数に存在。
  • 伊藤道郎・石井漠1911年ベルリンでダンカン公演を観た伊藤道郎。これが彼を舞踊家への道へ導いた。日本モダン・ダンスの最初期の出発点。

栄光と悲劇——彼女の生涯そのものが伝説となった

三人の子と、セーヌ川

ダンカンは「結婚しない」を信条とした。三人の子はすべて未婚で出産。第一子ディアドラ(1906–1913)の父は舞台美術家エドワード・ゴードン・クレイグ。第二子パトリック(1910–1913)の父はミシン王アイザック・シンガーの息子パリス・シンガー。1913年4月19日、ディアドラ(6歳)とパトリックを乗せた自動車が乳母とともにセーヌ川に転落、三人とも溺死した。彼女はこの絶望から創作した『母』『葬送行進曲』を、世界の母たちの祈りとして踊り続けた。第三子(1914年、父は不明のイタリア人)も生後数時間で死亡。

セルゲイ・エセーニン

1921年、革命後のモスクワで18歳年下のロシア叙情詩人セルゲイ・エセーニンと出会う。彼は26歳の金髪の農民詩人で粗暴者、彼女は44歳の世界的スター。共通の言語はゼロ。「彼は英語の罵り言葉を二、三、彼女はロシア語の『金の頭』と『愛』を知っているだけだった」。1922年5月2日結婚、米国ツアーに同行させるための便宜結婚。米国は彼らをエリス島で「ボリシェヴィキの工作員」として拘留。エセーニンのアルコール依存と精神的不安定で結婚は破綻、彼は1925年12月レニングラードのホテルで自死。

ニースのスカーフ

1927年9月14日夜、ニースのプロムナード・デ・ザングレ。フランス系イタリア人整備士ベノワ・ファルケットの開放型アミルカル・スポーツカー(一説にブガッティ)に乗り込む。友人メアリー・デスティから贈られたロシア人画家ロマン・チャトフ手描きの長い絹のスカーフを首に巻いていた。デスティは寒いからケープを羽織るよう促したが、彼女はスカーフだけにこだわった。「Adieu, mes amis. Je vais à la gloire!(さようなら、友よ、栄光へ向かいます!)」と叫んで車は発進。瞬間、スカーフが後輪のスポークと車軸に絡み、頸部骨折で即死。50歳。ガートルード・スタインは「気取りは危険であることがある」と評した。当時ソビエト市民であった彼女の遺言は、米国で検認された最初のソビエト市民の遺言となった。遺骨は二人の子の隣、パリ・ペール・ラシェーズ墓地のコロンバリウムに納められている。

ダンカンの生涯は、同時代の小説家ジョン・ドス・パソス『U.S.A. ザ・ビッグ・マネー』、映画『裸足のイサドラ』(1968、ヴァネッサ・レッドグレイヴ主演、カンヌ・パルム・ドール候補)、ケン・ラッセルBBC『世界一の踊り手イサドラ・ダンカン』(1966)、ドキュメンタリー『Movement from the Soul』(1989、サンダンス映画祭)等、無数の作品に再生され続けている。

日本のイサドラ・ダンカン受容史

日本のダンカン受容は、伊藤道郎・石井漠ら戦前の最初期から始まり、小倉重夫の翻訳業、メアリー佐野によるダンカン舞踊の直接的継承、そして近年の学術研究へと連続している。世界的にも稀な、舞踊伝承と思想紹介が並走する独自の受容史を持つ。

1910s — 戦前

伊藤道郎・石井漠とダンカン

日本人舞踊家・伊藤道郎は1911年ベルリンでダンカン公演(パヴロワ、ニジンスキーらと並んで)を観たことが、彼を舞踊家の道へ導いたと記している。続く石井漠(1886–1962)の創作舞踊は、ダンカン直接の影響を受けた初期日本モダン・ダンスの源流である。

1958

小倉重夫訳『わが生涯』初訳

冨山房より、小倉重夫訳でダンカン自伝『My Life』が『わが生涯——イサドラ・ダンカン』として日本初訳。397ページ。これが戦後日本のダンカン受容の最大の起点となった。

1975

『芸術と回想』初訳

小倉重夫・阿部千津子訳によりシェルドン・チェニー編『The Art of the Dance』が冨山房から邦訳。日本でダンカンの舞踊思想にアクセスする最重要文献。「未来の舞踊」をはじめ全ての主要論考が読めるようになった。

1980

イルマ・ダンカン伝記の翻訳

小倉重夫・阿部千津子訳。イルマ・ダンカン/A.R.マクドゥガル共著によるダンカンのロシア時代と最晩年を描いた伝記。冨山房刊。同年、F.スティグミューラー著/阿部千津子訳によるクレイグ=ダンカン関係の研究書も刊行。

1988

『イサドラとセルゲイ』日本語化

クルツィア・フェラーリ著/小瀬村幸子訳『イサドラとセルゲイ』音楽之友社。ダンカンとセルゲイ・エセーニンの結婚生活を描いた研究の翻訳。日本でロシア時代研究の重要資料となる。

1990

『踊るヴィーナス』フレドリカ・ブレア

フレドリカ・ブレア著/メアリー佐野監修・鈴木万理子訳『踊るヴィーナス——イサドラ・ダンカンの生涯』PARCO出版。英語圏で評価の高い包括的伝記の邦訳。日本のダンカン研究のバックボーンとなる。

1997 —

メアリー佐野とダンカン舞踊継承

メアリー佐野(Mary Sano)はサンフランシスコにスタジオを構える日系ダンカン舞踊家。グリューネヴァルト学校から続くダンカン舞踊の正統な継承者の一人として活動。日本にも招聘公演・指導を重ね、ダンカン舞踊の身体伝承を直接日本へ移植した最重要人物。

2004

山川亜希子・紘矢『魂の燃ゆるままに』新訳

山川亜希子・山川紘矢訳『魂の燃ゆるままに——イサドラ・ダンカン自伝』冨山房インターナショナル。1975年訳から30年を経た新訳で、現代日本語でダンカンの肉声が蘇った決定版。

2009

IDHSJ設立、イルマ伝邦訳

Isadora Duncan Heritage Society Japan(IDHSJ)よりイルマ・ダンカン著(メアリー佐野監修、松代尚子・西光寺直子訳)の重要伝記が刊行。日本における学術的・身体的継承の体制が整う。

2015

森田玲子博士論文

森田玲子「創作舞踊における身体の動きに関する研究」大阪芸術大学大学院博士論文。日本における近年のダンカン関連学術研究の代表例。国会図書館オンラインで閲覧可能(NDLJP:9373616)。

2024

国書刊行会『イザドラ・ダンカン』

最新の包括的日本語研究書。早稲田大学招聘研究員によるダンカン舞踊芸術の総合論。生い立ちから晩年まで、全活動を時系列で精密に追跡した、現在日本で読める最も詳細なダンカン研究の決定版。

継続中

身体伝承の現在

ダンカン没後100年に向け、メアリー佐野スタジオ、IDHSJを中心とした日本でのダンカン舞踊実践は継続中。1904年グリューネヴァルト→イサドラブルズ→次世代→メアリー佐野→現代日本という、120年の身体から身体への直接伝承が、なお絶えていない。

イサドラ・ダンカンの言葉

自伝・講演・論考・手紙——彼女が残した言葉のなかから、舞踊と人生を貫く閃光を選ぶ。

ついに私は発見した——あらゆる運動の中心的な泉、運動力の火口、あらゆる動きの多様性が生まれる統一を。

— My Life(1927)

踊り手の身体は、魂が放つ光の顕現にすぎない。

— The Art of the Dance(1928)

波の動き、風の動き、大地の動きは、永遠に同じ調和のうちにある。

— Der Tanz der Zukunft(1903)

彼女が来る、未来のダンサーが——限りなく自由なからだに宿る、最高の知性!

— The Dance of the Future(1903)

私の学校では、生徒たちに私の動きを真似するようには教えません。一人ひとりが自分自身の動きを発展させるように教えるのです。

— グリューネヴァルト学校設立宣言(1904)

私は人間の足の美の宗教を信じる。人間の足の表情と知性は、人類の進化の最大の勝利のひとつだ。

— The Dance of the Future

宗教的でない芸術は芸術ではない、単なる商品にすぎない。

— The Dance of the Future

私はバレエを敵だと考えている。バレエは美しい女性の身体を歪める。

— ベルリン講演(1903)

これは赤だ。私もそうだ!

— ボストン公演(1922)

Adieu, mes amis. Je vais à la gloire!(さようなら、友よ、栄光へ向かいます!)

— ニースでの最後の言葉(1927.9.14)

どこから読み始めるか

ダンカン研究は、本人の自伝から始まり、弟子の証言を経て、世界的伝記研究、振付分析、フェミニズム再評価へと広がる。日本語で辿る最良の五段階。

01

自伝『わが生涯/魂の燃ゆるままに』から

山川亜希子・紘矢訳『魂の燃ゆるままに——イサドラ・ダンカン自伝』(冨山房インターナショナル、2004)か、小倉重夫訳『わが生涯』(冨山房、1958/1975)。ダンカン自身の声で人生のすべてを聞く。サンフランシスコの幼少期、海辺、ロンドンの大英博物館、ベルリンの講演、二人の子の死、エセーニン——なまなましい一次資料。

02

『芸術と回想』で思想を読む

小倉重夫・阿部千津子訳『芸術と回想』(冨山房、1975)。シェルドン・チェニー編『The Art of the Dance』の邦訳。ここに「未来の舞踊」をはじめ、彼女の主要な舞踊論・教育論・手紙・断片がすべて入っている。彼女が「魂」「自然」「鳩尾」を実際にどう書いたかを、原典で確認できる。

03

世界的伝記で人生を立体化する

フレドリカ・ブレア『踊るヴィーナス——イサドラ・ダンカンの生涯』(メアリー佐野監修・鈴木万理子訳、PARCO出版、1990)、もしくはピーター・カート『Isadora: A Sensational Life』(2001、英語)。前者は日本語で読める最良の包括伝記、後者は英語圏の決定版で650頁・脚注62頁の徹底研究。

04

弟子と継承者の証言

イルマ・ダンカン『Duncan Dancer』(Wesleyan, 1966)、『Isadora Duncan: Pioneer in the Art of Dance』(NYPL, 1959)。グリューネヴァルト第一世代弟子による技法書・回想。「ダンカン舞踊が実際にどう教えられたか」を内側から知る唯一の資料。日本ではIDHSJからイルマ・ダンカン伝記の邦訳(2009)も。

05

学術研究で文脈を深める

Ann Daly『Done into Dance: Isadora Duncan in America』(Wesleyan, 2002)はアメリカ受容研究の決定版。Doreé Duncan, Carol Pratl & Cynthia Splatt『Life into Art』(Norton, 1993)は写真と文献の総合資料集。最新研究はMeindert E. Peters「Revaluations through Dance: Friedrich Nietzsche’s Thought in Isadora Duncan’s Speech」(Dance Research, 2019)など。日本語では国書刊行会『イザドラ・ダンカン』(2024)が最新の包括研究。

さらに読むための資源

日本語・英語・ドイツ語・フランス語の主要資料を精選。学術論文・百科事典・公式アーカイブ・身体継承組織への信頼できる入口を一覧する。

百科事典・基礎情報(日英)

原典テキスト(英・独・仏)

日本語訳・主要研究書

英語圏の主要研究書

  • Daly, Ann. Done into Dance: Isadora Duncan in America. Wesleyan University Press, 2002
  • Duncan, Doreé; Pratl, Carol; Splatt, Cynthia. Life into Art: Isadora Duncan and Her World. W.W. Norton, 1993
  • Kurth, Peter. Isadora: A Sensational Life. Little, Brown, 2001
  • Duncan, Irma. Duncan Dancer: An Autobiography. Wesleyan University Press, 1966
  • Duncan, Irma. Isadora Duncan: Pioneer in the Art of Dance. New York Public Library, 1959
  • Kendall, Elizabeth. Where She Danced: The Birth of American Art-Dance. UC Berkeley Press, 1979
  • Stokes, Sewell. Isadora Duncan: An Intimate Portrait
  • Loewenthal, Lillian. The Search for Isadora
  • Schneider, Ilya Ilyich. Isadora Duncan: The Russian Years

学術論文・PDF(オープンアクセス)

映像・関連作品

  • 『裸足のイサドラ』(Isadora, 1968)——カレル・ライス監督、ヴァネッサ・レッドグレイヴ主演。カンヌ・パルム・ドール候補、レッドグレイヴはアカデミー主演女優賞ノミネート
  • 『Isadora Duncan, the Biggest Dancer in the World』(1966)——ケン・ラッセル監督BBC伝記映画
  • 『Isadora Duncan: Movement from the Soul』(1989)——ドキュメンタリー、サンダンス映画祭グランプリ候補
  • モーリス・ベジャール振付『イサドラ』(1976)——マイヤ・プリセツカヤ主演バレエ作品
  • フレデリック・アシュトン振付『イサドラ・ダンカン風のブラームスの五つのワルツ』(1976)——リン・シーモアのため
  • ケネス・マクミラン振付『Isadora』全幕バレエ(1981)——ロイヤル・バレエ団
  • BnF『Isadora』(1968)作品データ——フランス国立図書館による作品典拠情報

イサドラ・ダンカンについて、もっと知るために

イサドラ・ダンカンとは誰ですか?

1877年カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ、1927年フランス・ニースで没した舞踊家・振付家。「モダン・ダンスの母(Mother of Modern Dance)」と呼ばれ、コルセットやトウシューズを脱ぎ捨て、裸足で古代ギリシア風のチュニックをまとって踊った。バレエの硬直した型を否定し、波・風・大地の自然な動きを源泉とする「自由な舞踊」を提唱。ベルリン、パリ、モスクワに無料の舞踊学校を設立し、20世紀のあらゆるダンスの礎を築いた。

ダンカンの「鳩尾(solar plexus)」理論とは何ですか?

自伝『My Life』でダンカンは、長時間スタジオに静かに立ち、両手を胸の間で重ねて沈思した結果、「あらゆる運動の中心的な泉、運動力の火口、あらゆる動きの多様性が生まれる統一」を発見したと記している。バレエが脊柱下部から動くのに対し、ダンカンは身体の中心である鳩尾(みぞおち、太陽神経叢)こそ動きの起源だとした。これはアンリ・ベルクソンの『創造的進化』(1907年・élan vital概念)より4年早い1903年の到達である。

代表作・著作には何がありますか?

自伝『わが生涯(My Life)』(1927年、没年刊)、講演録・論集『芸術と回想(The Art of the Dance)』(1928年、シェルドン・チェニー編)、1903年ベルリン講演『未来の舞踊(Der Tanz der Zukunft / The Dance of the Future)』が三大著作。日本では小倉重夫訳『わが生涯』(冨山房、1958/1975)、山川亜希子・紘矢訳『魂の燃ゆるままに』(冨山房インターナショナル、2004)、メアリー佐野監修の継承活動が中心。

ダンカンは具体的にどんな踊りを踊ったのですか?

舞踊用に書かれていない大音楽——ベートーヴェン交響曲、ショパン全曲、シューベルト第九、チャイコフスキー第六、グルックのオペラ音楽、スクリャービン、ブラームス——を踊った最初の舞踊家。代表作は『美しく青きドナウ』『母』『葬送行進曲』『ラ・マルセイエーズ』『革命家』『インターナショナル』。常に裸足、ギリシア風チュニックをまとって。

「イサドラブルズ」とは誰ですか?

1904年グリューネヴァルト舞踊学校から育った六人の弟子——アンナ、リサ、マリア=テレサ、テレーゼ、エリカ、イルマ・ダンカン。プレスがこの六人を「Isadorables(小さなイサドラたち)」と呼んだ。ダンカン自身が舞踊をフィルムに残さなかったため、彼女らによる身体から身体への直接伝承が、ダンカン舞踊が現代まで生き延びた唯一の経路である。

ダンカンはどのように亡くなったのですか?

1927年9月14日、フランス・ニースで開放型スポーツカー「アミルカル」(一説にブガッティ)の助手席に乗った際、首に巻いていたロシア人画家ロマン・チャトフ手描きの絹のスカーフが車輪のスポークと後車軸に巻き込まれ、頸部骨折で即死。50歳。最後の言葉は「Adieu, mes amis. Je vais à la gloire!(さようなら、私の友よ。栄光へ向かいます!)」と伝えられる。ガートルード・スタインは「気取りは危険であることがある」と評した。

誰に影響を与えましたか?

ロシアでは振付家ミハイル・フォーキン(『レ・シルフィード』『瀕死の白鳥』)、興行師セルゲイ・ディアギレフに決定的影響を与え、ロシア・バレエ団の革新を促した。アメリカではマーサ・グラハム、ドリス・ハンフリー、ホセ・リモン、マーク・モリスの源流となり、彫刻家ロダン、ブールデル、画家ロベール・アンリ、演出家スタニスラフスキー、詩人エセーニンら多領域の芸術家に強い触発を与えた。日本では伊藤道郎が彼女の公演を観たことで舞踊家への道を選んだ。

なぜダンカンの踊りはフィルムに残っていないのですか?

ダンカン自身が生前、自身の舞踊をフィルムに残すことを拒否したため。譜面化も拒否した。彼女は「私の真髄を保つ唯一の方法は、踊り手から踊り手へ、身体から身体へ直接伝えることだ」と確信していた。これは記録・蓄積・所有を中心とする近代の論理に対する根源的な異議申し立てであり、その姿勢自体がダンカン思想の核心の一つである。彼女の踊る姿は、写真、彫刻、絵画、詩、そして弟子たちの肉体にのみ残っている。

日本ではどう受容されてきましたか?

戦前、伊藤道郎・石井漠ら最初期の舞踊家がダンカンに直接的影響を受け、戦後は小倉重夫の翻訳業(『わが生涯』1958、『芸術と回想』1975)が思想紹介の起点となった。1990年代以降はメアリー佐野(Mary Sano)によるダンカン舞踊の身体的継承が日本にも及び、IDHSJ(Isadora Duncan Heritage Society Japan)など組織化が進む。2024年には国書刊行会から最新の包括的日本語研究書が刊行され、研究と実践が並行して継続している。

SHARED EDITORIAL PHILOSOPHY

本シリーズが共有する一つの問い

〈身体〉が、文化が、学びが、遊びが、近代の枠組みのなかでどのように分節され、どこで歪められ、いかに再び動詞化されうるのか。
GETTA Thinkers Encyclopedia は、この一つの問いを16の星座から照らす編集方針で構成されています。

EDITOR / AUTHOR
宮﨑 要輔(みやざき ようすけ)
合同会社GETTAプランニング 代表
文化身体論研究者
PUBLISHER
合同会社GETTAプランニング
和歌山県和歌山市本町
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© 2026 合同会社GETTAプランニング ─ GETTA Thinkers Encyclopedia / 編集責任:宮﨑 要輔