市川 浩
──〈身〉と錯綜体と身分けの哲学者
日本の哲学者・身体論者。明治大学名誉教授。仏教学者市川白弦の長男として京都に生まれ、毎日新聞記者を経て、1958年の南海丸沈没事故取材を契機に哲学の道へ。山崎正一に師事し、ヴァレリーの「錯綜体」概念とメルロ=ポンティの現象学を融合させて、デカルト以来の心身二元論を超克する独自の身体哲学を構築した。〈身〉、身分け、言分け、間身体性、中間者──日本独自の身体論の地平を切り開いた哲学的達成。
〈身〉によって世界が分節されるとき、〈身〉も世界によって分節化される。 When the lived body articulates the world,
the lived body itself is articulated by the world.
三相で読み解く生涯
Three Phases of Ichikawa Hiroshi市川浩の生涯は、「仏教学者の家系・京大・新聞記者期(前期)」「南海丸沈没事故と哲学への転向・『精神としての身体』山崎賞受賞期(中期)」「〈身〉の構造を確立し中間者の哲学へ展開した晩年の集大成期(後期)」という三つの時相に大別できる。各相の境界には、言語と身体・生と死・客観と実存の引き裂かれた現場を哲学に転換した一つの決定的経験がある。
仏教学者の家系と新聞記者期
1931年5月2日、京都府に生まれる。父は仏教学者市川白弦──臨済宗の禅僧で東洋思想の素養を継承。京都府立洛北高校(旧制北山中学・京都洛北高校)を経て、1950年京都大学文学部入学。1954年同卒業。同年、毎日新聞社入社、大阪本社勤務。記者として4年間、警察取材・社会部取材に従事。京都・大阪を拠点に、戦後復興期の日本社会を現場で見つめた時期。
南海丸沈没事故と哲学への転向
1958年1月、26歳の市川は徳島県小松島を出航直後、淡路島沖の大荒れの海で沈没した連絡船・南海丸の事故を記者として取材。167名死亡という惨状を現場で目撃。「一言では言い尽くせないその惨状」が哲学者を志す決定的契機となる。同年新聞社退社。1959年、東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻入学、山崎正一に師事。1968年論文「精神としての身体と身体としての精神」(岩波講座『哲学』第3巻)。1972年明治大学教授就任。1975年『精神としての身体』を勁草書房より刊行、第3回哲学奨励山崎賞受賞。
〈身〉の構造から中間者の哲学へ
1983年『ベルクソン』(人類の知的遺産59、講談社)。1984年『〈身〉の構造』(青土社)で〈身〉概念を本格的に展開。1985年『現代芸術の地平』(岩波書店)。1988年から雑誌『へるめす』編集委員(中村雄二郎・大江健三郎・武満徹・磯崎新らと共に)。1989年『〈私さがし〉と〈世界さがし〉』。1990年『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』(岩波書店)で総決算。同年(平成2年)に倒れ、13年にわたる闘病生活へ。1999年明治大学退職、2000年名誉教授。2001年中村雄二郎編『身体論集成』(岩波現代文庫)。2002年8月17日永眠(71歳)。