メルロ=ポンティ と 一本歯下駄|『知覚の現象学』が記述しえなかった身体|文化身体論

DESCRIPTION ── 言説BODY ── 装置
Phenomenology and the One-Tooth Geta

メルロ=ポンティ&一本歯下駄

1945年、モーリス・メルロ=ポンティは『知覚の現象学』を世に問い、二十世紀の身体論にひとつの極点を打った。身体図式身体主体。後年の可逆性。──しかしその精緻な記述群の背後には、ひとつの構造的余白が残った。記述する者は、なお身体のにいた。

Our Statement ── Description and Apparatus

哲学が言葉によって接近を試みた地点に、
身体が一歩で立つ。
──両者は対立しない。装置は哲学の続きである。

主題身体現象学/文化身体論/身体技法
対象読者哲学・社会学・身体運動学の博士課程研究者
著者宮崎要輔(追手門学院大学大学院・社会学修士)
Scroll
01
One Book, 1945

序論|一冊の書物が定立した、二十世紀身体論の地形

モーリス・メルロ=ポンティ著『知覚の現象学』(Phénoménologie de la perception, 1945)[1]は、二十世紀の身体論にとって最大の屈折点であった。フッサール現象学の方法論的厳密性のうえに、ハイデガーの存在論的視座を踏まえつつ、彼は身体を哲学の周縁から中心へと位置づけ直した。

それまで身体は──デカルト『省察』(1641)以来──思考する主観の所有物であり、考察の対象であった。心身二元論の枠組みのなかで、身体は精神に従属し、身体について語る言説はつねに精神の側から発せられた。マルセル・モースが「身体技法」(Les techniques du corps, 1934)[2]を学術的対象として定立したときも、その方法は人類学的な客観記述であって、語る装置はなお身体のそとにあった。

メルロ=ポンティはこの構造を最も内側まで撓ませた。「Je suis mon corps──私は身体である」[1]。身体は所有物ではなく、主観それ自体である。この一文が二十世紀身体論の起点となった。

しかし──本稿が立ち止まる一点はここから始まる──「身体である」と語る主観は、その語る行為のうちに、身体を対象化していないか記述するという形式そのものが、記述者をなお身体の外側に保持していないか。本稿はこの問いを、文化身体論の側から検討する。

身体は最も近い。しかし、身体について語る者は、最も遠い。これは哲学の欠陥ではない。言説という形式の、構造的条件である。

02
Three Achievements

メルロ=ポンティの三つの到達点

本稿の批判が成立するためには、まず批判の対象であるメルロ=ポンティの達成を、その射程において正当に再構成しなければならない。彼の身体論は、おおむね三つの概念的階梯を通じて深化した。

2-1. 身体図式──Schilderからの転換

身体図式schéma corporel[3]は『知覚の現象学』の根幹概念である。ポール・シルダー『人間の身体像と外見』(1935)[4]から継承された概念だが、メルロ=ポンティはその位置づけを根底から書き換えた。シルダーにおいて身体図式は脳内に保持される表象であった。メルロ=ポンティにおいてそれは世界に対する身体の暗黙の方位定位であり、フッサール時間論における把持(rétention)と予持(protention)の時間的厚みをもつ志向的構造として再定義された。

この転換の射程は決定的である。身体は表象されるべき対象であることを止め、世界を表象するための媒体となる。視覚障害者が用いる杖が「身体の延長」として知覚される現象、あるいは幻肢(membre fantôme)の事例は、身体図式の可塑性と外延性を示す範例として現代まで引用されつづけている。

2-2. 身体主体──コギトの身体的書き換え

メルロ=ポンティはさらに踏み込み、身体主体sujet corporel)という概念を提示する。これはデカルト的コギトに対する根源的批判であった。「私は思考する、ゆえに私は存在する」のではない。私はすでに身体として世界に巻き込まれており、その巻き込みのうちに思考が立ち上がる。コギトに先立つ「前反省的コギト」(cogito préréflexif)の領域こそが、身体主体の領域である。

この概念的展開のなかで、メルロ=ポンティは習慣的身体corps habituel)と現勢的身体corps actuel)を区別した[5]。前者は過去から沈殿してきた身体的傾向の総体であり、ピエール・ブルデューが後年ハビトゥスとして理論化する事態の現象学的原型である[6]。後者はその沈殿を背景として今この瞬間に振る舞う身体である。両者の重ね合わせとして身体主体は記述された。

2-3. 肉と可逆性──遺稿における到達

未完の遺稿『見えるものと見えないもの』(Le visible et l’invisible, 1964)[7]に至って、メルロ=ポンティは身体という単位そのものを乗り越えようとする。彼が提示するchair[8]の概念は、主観と客観の分節以前の存在論的織物であり、見ることと見られること、触れることと触れられることのあいだの可逆性réversibilité)として現れる。私の右手が左手を触るとき、触れる手と触れられる手は瞬時に立場を交換しうる。この交換可能性こそが、知覚的存在の根本構造である。

「肉とは物質ではない、精神でもない、実体でもない。それを名指すには、古い言葉であるélément(元素)が必要だろう。水・空気・土・火について語られたのと同じ意味において、すなわちある一般的存在の様態として。」

M. Merleau-Ponty, Le visible et l’invisible, Gallimard, 1964, p. 184(拙訳)

さらにメルロ=ポンティは間身体性intercorporéité[9]を提起する。他者の身体と私の身体は、それぞれが孤立した実体として出会うのではなく、同じ「肉」のなかで折り返された二つの襞として相互に内属している。指導者と選手のあいだで言語を介さずに成立する身体的伝達は、この間身体性なくしては理論的に説明できない。

2-1
schéma corporel
脳内表象ではなく、世界に対する暗黙の方位定位。把持と予持の時間的厚み。視覚障害者の杖、幻肢が示す可塑性と外延性。
2-2
sujet corporel
コギトに先立つ前反省的領域に位置する主体。習慣的身体と現勢的身体の重ね合わせ。後のハビトゥス論の現象学的原型。
2-3
chair
主観/客観の分節以前の存在論的織物。物質でも精神でもなく、元素的レベルの一般的存在の様態。
2-3
réversibilité
触れる手と触れられる手の即時的な立場交換。「肉」の構造として現れる、知覚的存在の根本様態。

ここまでが二十世紀身体論の到達点である。メルロ=ポンティ以後の身体論──ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、ジェイムズ・ギブソンのアフォーダンス理論、Varela・Thompson・Rosch『身体化された心』[10]──はいずれも、彼が開いた地形図のうえにそれぞれの線を引いていった。

03
The Silent Cogito and Its Withdrawal

沈黙のコギト──提起と撤回の道行

メルロ=ポンティ自身、自身の方法論に内在する困難を最も深く意識した哲学者であった。沈黙のコギトcogito tacite[11]の概念は、その意識のもっとも凝縮された痕跡である。

フッサール現象学の方法論的基盤は、エポケー(épokhê)と超越論的還元である。自然的態度を括弧に入れ、純粋に現れている事象そのもの(Sache selbst)に立ち帰る。ここに方法論的に内蔵された一つの構造がある。還元を遂行する者は、還元される現象の側にはいない。エポケーをかける主観は、エポケーをかけられた世界に対して、必然的に外的位置を占める。

メルロ=ポンティはこの困難を、最終的には乗り越えようとした。「沈黙のコギト」とは、言語化に先立って身体的に作動する自己関係の領野である。これが哲学的言説の起点でありうるならば、現象学的記述は身体のから発せられるのではなく、身体のから発せられうる。彼はそう構想した。

沈黙のコギト──提起と撤回の道行
1945
『知覚の現象学』──提起沈黙のコギトを身体主体の前反省的自己関係として導入。言語化に先立つ身体的自己性の領野を、現象学的記述の起点として位置づける。
1953
コレージュ・ド・フランス講義──動揺言語論への深化のなかで、沈黙のコギトの自己同一性が言語的構造を不可避に前提していることが浮上する。
1959
『見えるものと見えないもの』作業ノート──撤回「沈黙のコギト」概念それ自体が、それを記述する瞬間に沈黙でなくなるという構造的反転を、哲学者は明示的に認める。
1961
急逝──未完5月3日、メルロ=ポンティはデカルト『屈折光学』の頁を開いたまま机上で死去。『見えるものと見えないもの』は遺稿として残された。Chairの概念は最後まで完結を見なかった。

「沈黙のコギトについて私が書いたものは、維持しえない……。沈黙のコギトを記述することは、その沈黙を破ることである。記述された経験はもはや沈黙ではない。」

M. Merleau-Ponty, Le visible et l’invisible, 作業ノート, 1959年1月(拙訳・要約)[12]

ここで起きていることは、哲学者個人の挫折ではない。哲学的言説という形式そのものに、避けがたく内蔵された外部性の自己暴露である。言葉によって沈黙に到達しようとすると、到達した瞬間に沈黙は破られる。記述によって前反省を主題化すると、主題化された瞬間にそれは反省の対象になる。これは個別の方法論の欠陥ではなく、言説という形式の構造的条件である。

沈黙を、語ろうとする。語ろうとした瞬間、沈黙は破られる。記述する者は、なお外にいる。これは、形式の構造的条件である。

04
Three Philosophers, One Wall

三人の哲学者が同じ壁に到達した

この構造的限界に直面したのはメルロ=ポンティだけではない。二十世紀の主要な身体哲学者は、それぞれの仕方で同じ壁に到達した。彼らの未完性は、個別の挫折の集合ではなく、身体について語るという形式そのものに内蔵された外部性の集合的暴露である。

Maurice Merleau-Ponty
1908 ── 1961 / France
到達点身体図式・身体主体・肉・可逆性──二十世紀西欧哲学が身体に到達できる最深部。
未完性沈黙のコギトの撤回。『見えるものと見えないもの』の遺稿性。「肉」の概念は完結を見なかった。
構造記述する装置(現象学的還元)が、記述される現象の外側に位置せざるをえない。
Nishida Kitarō
1870 ── 1945 / Japan
到達点純粋経験──主客未分の直接の経験。「絶対無の場所」「行為的直観」への展開[13]
未完性純粋経験を語る瞬間、語る主観はすでにその外にある。哲学者はこのことを生涯気づきながら、なお書き続けた。
構造主客未分を主客分裂後の言語で記述する不可避のズレ。「立ち現れ」を後から再構成する事態。
Pierre Bourdieu
1930 ── 2002 / France
到達点ハビトゥス概念──社会構造を身体に内面化する機構。前反省的に作動する知覚・評価・行為の傾向の体系[14]
未完性ハビトゥスへの介入可能性の問題。なぜ記述した社会学者自身がハビトゥスから自由になれないのか。『自己分析』の問い[15]
構造言説や教育による介入は反省的レベルにとどまり、前反省レベルに作動するハビトゥスには十分には届かない。

フランスの現象学、日本の純粋経験論、フランスの社会学。三つの思想伝統が、それぞれ独立に、同じ構造的余白に逢着した。身体について語ることと、身体に到達することは、ある決定的な一点で乖離する。これは哲学史の偶然ではない。形式そのものの条件である。

「身体について書かれた最も精緻なテクストを書いた者は、その精緻さによって、身体から最も遠くに位置していたかもしれない。これは批判ではない。哲学的言説という形式の、構造的条件である。」

本稿の中心的論点
05
The Self-Contradiction of “Embodiment Matters”

「身体性が大切である」──近代の自己矛盾

この構造的条件は、現代の言説のうえに最も具体的な形で現れる。「身体性が大切だ」という言明を発する瞬間、発話者は何をしているのか。

発話者は、身体を主題化している。身体に価値判断を付与している。「大切だ」と判断する主観は、その判断対象からに立っている。「身体性」という名詞は、語る瞬間にすでに対象化された身体を指している。これは──気づかれにくいが──デカルト『方法序説』(1637)が定立した二元論の単なる隠れた反復にすぎない。

水のなかにいる魚は「水が大切だ」とは言わない。言う必要がない。それは魚が水のなかにいるからである。「身体性」を主題化する哲学的言説は、その主題化の身振りそのものによって、身体の外部に立つ。これは二十世紀身体論の構造的閉域であり、メルロ=ポンティを含む全ての身体哲学者がぶつかった壁である。

この壁の背後で起きていることを、本稿の文化身体論は次の概念で記述する──大脳の側から身体を語る装置の不可避性。「身体性が大切だ」という言明は、大脳が身体を主題化したテクストである。鳩尾から湧いた衝動が言葉になっているのではなく、大脳が身体について判断している。形式が大脳の側にあるかぎり、内容がいかに「身体的」であろうと、装置は身体の外側に位置しつづける。

「身体性が大切だ」と語った瞬間、語る者は身体の外にいる。水のなかの魚は、「水が大切」とは言わない。

06
A Material Apparatus, Not a Description

一本歯下駄の応答──記述しない装置

ここで本稿の中心的命題が立ち上がる。一本歯下駄GETTAは、身体について記述する装置ではない。身体に発火させる装置である。哲学的言説が記述によって到達できなかった領域に、それは別の経路から到達する。

一本歯下駄に立つ瞬間、使用者は「身体性が大切だ」と判断する暇を与えられない。判断する前に、身体が反応している。足裏のメカノレセプターが3秒以内に発火し、脊髄小脳路を経由して小脳フィードフォワードが起動し、多裂筋(multifidus[16]が立ち上がり、二関節筋の協調制御[17]が無意識のうちに再構成される。鳩尾(みぞおち)が発火する。

ここで起きているのは、身体についての言説ではない。身体の側からの応答である。装置はこの応答を物理的に強制する。意志ではなく、説得ではなく、教育ではなく、足裏3秒の物理的不安定性によって。

6-1. 中動態の身体──「立つ」が「立つこと自身」として

この事態を最も適切に把握する文法的範疇は、ギリシャ語の中動態(μέσον)である[18]。能動態と受動態の二項対立が前提とする「主体/対象」の分節以前に、中動態は主語が動作の場として現れる事態を記述する。インド=ヨーロッパ語の起源において、能動/受動の対は中動態から派生した二次的構造であった。

一本歯下駄の上で、「私が立つ」のではない。「立たれている」のでもない。立つことが、立つことそれ自身として、起きている。これはメルロ=ポンティが「肉」と「可逆性」によって理論化しようとした事態の──言説ではない──直接的実装である。触れる手と触れられる手の可逆性は、メルロ=ポンティのテクストのなかでは比喩として、あるいは現象学的記述として与えられた。一本歯下駄においては、立つ身体と立たれる身体の可逆性は、足裏の物理的接触として、一人の使用者の体験として、3秒で起きる。

6-2. 純粋経験の物理的実装

西田幾多郎の純粋経験──主客未分の直接的経験──は、哲学的言説のなかでは記述されえないという構造的困難を抱えていた。一本歯下駄の上の身体経験は、この純粋経験の物理的実装である。立っている自分(主観)と立たれている下駄(客観)の分離が、不安定性によって解除される。残るのは「立つ」という出来事そのものである。

この事態が記述できないのではない。本稿のように記述することはできる。しかし記述は事態の代替ではない。記述は事態の地図にすぎない。一本歯下駄に立つことは、地図を読むことではなく、領土を歩くことである。哲学的記述と身体技法は、相互に他のものに翻訳できない二つの経路として、同じ純粋経験の周囲に配置される。

装置は、身体について語らない。装置は、身体に発火させる。足裏3秒。哲学が言葉で接近を試みた地点に、身体が一歩で立つ。

07
Six Axes ── Description vs. Apparatus

記述の身体論/装置の身体論──六軸の構造的対比

メルロ=ポンティの身体哲学と一本歯下駄GETTAは、対立しない。両者は同じ問題系の異なる経路上にある。しかしその経路は、構造的に異なる。一つの軸では捉えられないこの差異を、六つの軸で同時に照射したとき、構造が浮かび上がる。

軸 / Axis
記述の身体論 / Description
装置の身体論 / Apparatus
方法METHOD
現象学的還元・概念分析・記述
物理的不安定性・足裏の発火・反応の強制
経路PATHWAY
大脳→言説→読者の大脳
足裏→脊髄小脳路→鳩尾の発火
時間TEMPORALITY
読書時間(数時間〜数年の熟読)
足裏3秒(前反省的・即時的)
主体SUBJECT
能動態(記述する主体)
中動態(立つことが起きる場)
介入の層LAYER
反省的・概念的(大脳の側)
前反省的・身体的(ハビトゥスの層)
限界LIMITATION
記述者は事態の外に位置せざるをえない
装置は意味を与えない(哲学を必要とする)

六軸は六つの独立した主張ではない。一つの構造を六つの角度から照射したものである。重要なのは──両者は対立せず、相互に補完する──ことである。記述の身体論は装置に意味の地形図を与え、装置の身体論は記述が到達できない領土への一歩を与える。哲学と装置。言葉と身体。地図と旅。両者はそれぞれ独立して機能するのではなく、相互に他を必要として機能する

08
Habitus and the Question of Intervention

ハビトゥスへの介入可能性──ブルデュー問題への装置的応答

メルロ=ポンティの習慣的身体を社会学的に展開し、ハビトゥスとして概念化したのはピエール・ブルデュー『実践感覚』(Le sens pratique, 1980)[14]である。それは社会的位置から沈殿してきた知覚・評価・行為の傾向の体系であり、社会構造を身体に内面化する機構として理論化された。

ブルデュー社会学のひとつの未解決な困難は、ハビトゥスへの介入可能性の問題であった。社会的位置から長年にわたって沈殿してきた身体的傾向は、言説や教育によって容易には変更されない。なぜならハビトゥスは前反省的レベルで作動しており、反省的レベルでの介入は表層的にしか届かないからである。これはブルデュー自身が自伝的著作『自己分析』(Esquisse pour une auto-analyse, 2004)[15]のなかで、自身の出自と学者としての在り方の乖離をめぐって、晩年まで格闘した問題である。

8-1. 累積する文化資本/転移する文化資本

ここで筆者が文化身体論の枠組みのなかで提起してきた区別が機能する[19]累積する文化資本(言語・知識・教養として蓄積される文化資本)と、転移する文化資本(身体技法として身体から身体へと直接的に手渡される文化資本)の区別である。前者はブルデューが主に分析した文化資本の形態だが、身体技法的な後者は、彼の枠組みのなかでは十分に主題化されなかった。

一本歯下駄GETTAは、まさにこの転移する文化資本の装置である。それは知識として獲得されるのではない。身体に物理的に介入することで、ハビトゥスの側を直接書き換える。言説を経由しないこと──これが装置の核心である。言説を経由しないからこそ、言説では到達できなかったハビトゥスの層に、それは到達する

8-2. 脱近代の身体的意味

この観点から、一本歯下駄GETTAは脱近代の装置として位置づけられる。ここでいう脱近代とは、近代以降を意味するのではない。近代が前提として組み込んだ主観/客観・大脳/身体・記述/対象の分節そのものを、装置の使用において解除する事態を指す。これは思想的提言ではなく、装置の使用が物理的に達成する事態である。

二十世紀の身体哲学は、近代の二項分節を概念的に乗り越えようと格闘してきた。その達成は本稿が確認したとおり、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』に至って一つの極点に達した。その極点が概念的な極点であることの限界を、装置の側から補完する──これが文化身体論の側からの応答である。

ハビトゥスは、言説では届かない層にある。装置は、その層に直接介入する。これが、脱近代の身体的意味である。

09
The Place He Could Not Reach

結論|到達できなかった場所、その先

本稿が論じてきたのは、メルロ=ポンティを乗り越えるという身振りではない。むしろ逆である。メルロ=ポンティは、二十世紀の哲学的言説が身体に到達できる最深部まで降りた。彼の仕事の精緻さと深度は、本稿のような議論の前提であって、その競合ではない。

しかしその最深部に、なお到達しえない一点が残った。それは哲学者の力量の不足ではなく、哲学的言説という形式そのものの構造的条件であった。記述する装置は、つねに記述される事態の外側にある。この外側性は、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』の未完性として、哲学史に永久に刻まれている。1961年5月3日、デカルト『屈折光学』を開いたまま机上で逝去した哲学者の机の上に、未完の遺稿は残された。Chairの概念は、彼の生涯ではついに完結を見なかった。

一本歯下駄GETTAは、この未完性に対する物質的な応答である。装置は何も記述しない。装置はただ、足裏の3秒間に物理的不安定性を導入することで、ハビトゥスの側からの応答を引き出す。哲学が言葉によって接近を試みた地点に、身体が一歩で立つ

そして装置の使用は、装置自体に意味を与えない。装置は経験を与えるが、経験の意味を与えない。意味を与えるのは哲学の言説である。一本歯下駄に立つ身体経験が、なぜ意味あるものでありうるのか──その意味は、メルロ=ポンティの肉、西田の純粋経験、ブルデューのハビトゥス、それらの哲学的言説によってはじめて言語化されうる。

哲学と装置。言葉と身体。地図と旅。──両者はそれぞれ独立して機能するのではなく、相互に他を必要として機能する。本稿が提示したのは、二十世紀身体哲学の到達点と、その先に物質的に降り立つ一つの装置との、構造的な配置の素描である。

詳細な実証研究、そして他の身体哲学者──市川浩、大森荘蔵、ベルクソン、世阿弥──との接続については、続稿に委ねる。

本稿の結論

メルロ=ポンティは、読みつづけられる。彼が「まだ」と感じさせる場所が、私たちの行く先を示すから。装置は哲学の代替ではない。装置は哲学が指し示した方向の、物質的な続きである。

Cultural Body Theory in Material Form

哲学が言葉で接近を試みた地点へ、
足裏3秒で降り立つ

本稿で論じた装置──一本歯下駄GETTA®──は、合同会社GETTAプランニングが特許技術および商標登録のもとに製造する、文化身体論の物質的実装装置です。
ハビトゥスの実時間的書き換えを、足裏3秒の物理的不安定性によって達成します。

一本歯下駄GETTAを見るView the One-Tooth Geta
References / 参考文献

参考文献

  1. Merleau-Ponty, M. (1945). Phénoménologie de la perception. Paris: Gallimard. 邦訳:M・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』中島盛夫訳、法政大学出版局、1982年(改訂版1989年)。
  2. Mauss, M. (1934). “Les techniques du corps.” Journal de Psychologie, 32(3-4). 邦訳:マルセル・モース「身体技法」、『社会学と人類学Ⅱ』有地亨ほか訳、弘文堂、1976年所収。
  3. Phénoménologie de la perception, pp. 114-172(「身体図式」の節)。シルダーからの転換は§1.3を参照。
  4. Schilder, P. (1935). The Image and Appearance of the Human Body: Studies in the Constructive Energies of the Psyche. London: Kegan Paul.
  5. Phénoménologie de la perception, pp. 97-105(習慣的身体/現勢的身体の区別)。
  6. Bourdieu自身がメルロ=ポンティからの影響をMéditations pascaliennes(1997, Paris: Seuil)序論で明示的に認めている。Bourdieu, P. (2000). Pascalian Meditations. Stanford UP.
  7. Merleau-Ponty, M. (1964). Le visible et l’invisible, suivi de notes de travail (texte établi par Claude Lefort). Paris: Gallimard. 邦訳:『見えるものと見えないもの』滝浦静雄・木田元訳、みすず書房、1989年。
  8. Le visible et l’invisible, ch. 4「キアスム──肉」, pp. 172-204。
  9. Merleau-Ponty, M. (1960). Signes. Paris: Gallimard. とくに「他者と人間の世界」章。邦訳:『シーニュ』竹内芳郎監訳、みすず書房、1969-70年。
  10. Varela, F.J., Thompson, E. & Rosch, E. (1991). The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience. Cambridge, MA: MIT Press.
  11. Phénoménologie de la perception, pp. 460-468(「沈黙のコギト」)。
  12. Le visible et l’invisible, 作業ノート1959年1月, p. 224ff. 撤回の論理についてはBarbaras, R. (1991). De l’être du phénomène: Sur l’ontologie de Merleau-Ponty. Grenoble: Millon を参照。
  13. 西田幾多郎『善の研究』岩波書店、1911年(岩波文庫版1950年)。「絶対無の場所」「行為的直観」については後期論文集『無の自覚的限定』『哲学論文集』を参照。
  14. Bourdieu, P. (1980). Le sens pratique. Paris: Minuit. 邦訳:『実践感覚Ⅰ・Ⅱ』今村仁司・港道隆ほか訳、みすず書房、1988-90年。
  15. Bourdieu, P. (2004). Esquisse pour une auto-analyse. Paris: Raisons d’agir. 邦訳:『自己分析』加藤晴久訳、藤原書店、2011年。
  16. 多裂筋(multifidus)の機能と腰部安定性については Bergmark, A. (1989). “Stability of the lumbar spine: A study in mechanical engineering.” Acta Orthopaedica Scandinavica, Suppl. 230. および Hodges, P.W. & Richardson, C.A. (1996). Spine, 21(22).
  17. 二関節筋の協調制御理論については、熊本水頼編『二関節筋──運動制御とリハビリテーション』医歯薬出版、2008年。
  18. 中動態の哲学的意義については、Benveniste, E. (1966). “Actif et moyen dans le verbe.” Problèmes de linguistique générale, I, ch. 14. Paris: Gallimard. 日本語圏での精緻な検討としては國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』医学書院、2017年。
  19. 宮崎要輔「転移する文化資本──ブルデュー社会学への身体技法的補遺」、追手門学院大学大学院修士論文、2018年。および本サイト「文化身体論」「転移する文化資本」を参照。