「場所」と「〈身〉」と「立ち現れ」──日本哲学が描いた身体の三角形|西田・市川・大森を一つの星座として読む|GETTA Thinkers Encyclopedia

GETTA THINKERS ENCYCLOPEDIA · TRIANGLE ESSAY

「場所」と「〈身〉」と「立ち現れ」
──日本哲学が描いた身体の三角形

西田幾多郎・市川浩・大森荘蔵。世代も方法も異なる三人の哲学者が、それぞれ別の言葉で同じ核を探り当てていた。「もの」と「こと」の手前で、身体はどう立ち上がるのか。三つの概念を一つの星座図として読み直し、一本歯下駄GETTAという装置の足場を確認する論考。

NISHIDA場所の論理 ICHIKAWA〈身〉の構造 OMORI立ち現れ一元論

1. 三人の哲学者が同じ場所を指し示した

20世紀の日本哲学が成し遂げた最大の達成は、ヨーロッパ近代が前提とした「主観/客観」「心/身」「内/外」という分節の手前を、独自の語彙で開示したことである。その仕事を担った代表的な三人が、西田幾多郎(1870-1945)、大森荘蔵(1921-1997)、市川浩(1931-2002)だった。

彼らは互いに直接の弟子関係にはない。世代も離れている。方法も異なる。しかし三人の中核概念──西田の「場所の論理」、大森の「立ち現れ一元論」、市川の「〈身〉の構造」──を並べて読むと、驚くべき共鳴が立ち現れる。三つの概念は、三角形の三辺のように、一つの中心を別々の角度から囲んでいる。

その中心とは何か。本論考はそれを、「身体が、世界が、それとして立ち上がる手前の場所」と呼ぶ。

SENSORY · 西田

場所の論理

あらゆる存在は「場所」において存在する。物は他の物との関係(有の場所)の中にあり、その全体は「対立的無の場所」、さらにその根底には「絶対無の場所」がある。アリストテレス以来の主語的論理を超え、述語的・包摂的論理を提示した。

初出:1926年論文「場所」。後に『無の自覚的限定』『哲学の根本問題』へ展開。

COORDINATION · 市川

〈身〉の構造

西洋的「身体(body)」概念を超え、生・関係・歴史を含み込む包括的存在を「〈身〉」と表記。〈身〉は単なる物質的身体ではなく、自他の境界を越え、文化と歴史を内包しながら形成される動的存在である。

主著:『〈身〉の構造──身体論を超えて』(1984)。錯綜体・身分け/言分け・間身体性が中核。

INTEGRATION · 大森

立ち現れ一元論

世界は「もの」として独立に存在するのではなく、「立ち現れ(presentation)」として現象する。知覚・想起・想像・夢・思考はすべて等価な「立ち現れ」の様式であり、心と物の二元論はそこで解体される。

代表作:『時間と存在』(1994)『時は流れず』(1996)。重ね描き・「時は流れず」が中核。

三人は、互いに引用し合うことは少なかった。西田は他の二人より遥か前の世代であり、大森と市川は同時代を生きたが、それぞれ別の思想圏(分析哲学/現象学)から出発した。にもかかわらず、三人の概念を並べてみると、ほぼ同じ「不可分な一」を別の角度から記述していることが見えてくる。

2. 三つの概念が囲む一つの中心

三人の概念に共通しているのは、近代哲学が当然視した「分節されたもの同士の関係」という前提を退け、その手前の「分節される以前の場」を主題化していることである。

西田の「絶対無の場所」とは、すべての対立がそこにおいて成立しつつ、それ自身はどんな対立にも数えられない場所のことだった。市川の「〈身〉」とは、心と身、自と他、能動と受動が分かれる以前の動的全体だった。大森の「立ち現れ」とは、見ることと見られるものが分かれる以前の現象そのものだった。

この三つを重ねると、それぞれの概念は次のように響き合う:

西田の「場所」=あらゆる立ち現れが立ち現れる場、〈身〉が〈身〉として組織される条件。
市川の「〈身〉」=場所が場所として自己を限定したときの具体的な働き、立ち現れの担い手。
大森の「立ち現れ」=場所が〈身〉を通して開示される、その様態そのもの。 ──三概念の循環図式

つまり「場所」が条件、「〈身〉」が働き、「立ち現れ」が現象。これは三段論法ではなく、循環であり、同じ事態を三つの語彙で記述している。あえて図式化すれば次のようになる。

立ち上がる 手前の場 NISHIDA 場所 ICHIKAWA 〈身〉 OMORI 立ち現れ CONDITION(条件) WORK(働き) PHENOMENON(現象)

図の中心にある「立ち上がる手前の場」こそ、三人がそれぞれの語で囲おうとした核心である。だがそれは概念ではなく、概念が生まれる手前の事態である。だから三つの語が必要だった。一つの語ではこぼれ落ちる。

3. 各概念の深掘り

三角形の各頂点を、もう一段深く掘り下げる。それぞれの概念が、いかにして他の二つと結びつくのかを示す。

① 西田「場所」── 述語的論理が開く深さ

西田が1926年論文「場所」で展開した論理は、アリストテレス以来「主語=何かが、何かである」という主語的構造で組織されてきた西洋論理学を、述語側からひっくり返すものだった。「Aである」と言えるその「ある」の側、その包摂の側を「場所」と呼ぶ。

具体的には三層構造で示される。有の場所=物と物の関係の中にある場、対立的無の場所=意識の場、そして絶対無の場所=あらゆる対立をそこにおいて成立させる究極の場。

絶対無の場所は、何かが「ない」という意味の無ではなく、すべての有と無を包む場所そのものである。これが西田が後に「行為的直観」「絶対矛盾的自己同一」「歴史的身体」へと展開していく地盤になった。

この「場所」は、市川の〈身〉が〈身〉として組織される条件であり、大森の立ち現れが立ち現れとして現象する条件でもある。三人の中で最も抽象度が高い概念が西田の「場所」だが、同時に最も深く、他の二人の概念をも包摂している。

② 市川「〈身〉」── 錯綜体としての具体的働き

市川は1984年『〈身〉の構造』で、西洋哲学が body / Leib と区別した二項を、日本語の「身(み)」が実は両義的に超えていると指摘した。「身を入れる」「身につける」「身を投じる」──これらの「身」は、物質的肉体でも、純粋な意識でもなく、生・関係・歴史を含み込んだ動的全体を指している。

市川はそれを「錯綜体」と呼んだ。身体は単一の統合体ではなく、無数の異質な働きが錯綜する複合体だ。意識・無意識・自律神経・運動・感覚・記憶・予期が織り成す多層的網目。これがメルロ=ポンティの「身体図式」を、日本語の身体感覚に即して書き換えたものになっている。

さらに市川は「身分け/言分け」という二元を提示した。世界を身体で分節する(前言語的・感覚運動的)のと、言語で分節するのとは別の働きである。両者の往還の中で、人間の経験世界が組織される。

〈身〉は、西田の場所を「具体的な働き」として担う。立ち現れが立ち現れるのは、〈身〉という働きを通してである。市川は西田を直接的には継承していないが、構造としては西田の「場所」を「動的な具体」へと翻訳していると読める。

③ 大森「立ち現れ」── 知覚と想起と夢の等位

大森は分析哲学の出身ながら、英米哲学が前提とする「物的世界」と「心的表象」の二元論を解体しようとした。彼が用いたのが「立ち現れ」という日常語だった。「リンゴが立ち現れる」と言うとき、リンゴは「内的表象」でも「外的物体」でもない。ただリンゴが、立ち現れている。

さらに大森は「重ね描き」という概念を提示する。同じ机が、知覚されながら想起され、想像されながら言語化される。これらは別々の現象ではなく、複数の立ち現れが「重ね描き」されている一つの机である。

晩年の「時は流れず」論はこれの徹底だった。時間は「流れる」ものではなく、過去・現在・未来は同じ「現在」に「重ね描き」されている。記憶は過去の保管庫ではなく、いま立ち現れている過去なのだ。

この「立ち現れ」は、西田の「場所」が現象として開示される様態であり、市川の〈身〉という働きを通して具体化する内容である。三角形の最後の頂点として、立ち現れは現象学的位相を担っている。

④ 三人を結ぶ補助線 ── メルロ=ポンティと禅仏教

三人を直接的に結びつけるのは難しい。しかし背景には共通の参照源が二つある。

一つはメルロ=ポンティの身体現象学。市川は『知覚の現象学』を翻訳し、メルロ=ポンティから出発しながら、それを日本語の身体感覚に翻訳して〈身〉を打ち出した。メルロ=ポンティの身体図式こそ、市川と大森の現象学的下敷きである。

もう一つは禅仏教。西田は鈴木大拙との生涯の対話を通じ、禅の「即」「無心」「即非の論理」を哲学化した。「絶対矛盾的自己同一」は、禅の「一即多・多即一」の論理化である。大森は明示的に禅を語らないが、「時は流れず」の徹底は禅の「現成公案」と響き合う。

つまり三人の三角形は、メルロ=ポンティと禅という二つの参照源が、日本語という言語を媒介に交差した産物として読める。

⑤ なぜ三角形なのか ── 二項では足りない

西田の「場所」だけでは抽象的すぎて、現実の身体に届かない。市川の〈身〉だけでは、なぜそれが可能なのかという条件が見えない。大森の「立ち現れ」だけでは、現象が誰の現象なのかが宙に浮く。

三角形が必要なのは、それぞれが他の二つを補完し合う役割を持つからだ。場所(条件)→〈身〉(働き)→立ち現れ(現象)→場所…という循環で初めて、身体・世界・経験は記述される。

これは「進化思考3色」(シアン=感覚入力/オレンジ=協調制御/パープル=統合・進化)と完全に対応する。三色の文法そのものが、三角形の哲学を視覚化したものになっている。

4. 三角形と一本歯下駄 ── 装置による実装

三人の哲学は、抽象的な記述である。だが要輔の文化身体論は、それを装置によって実装しようとする。

一本歯下駄GETTAは何を装置化しているのか。それは「場所」と「〈身〉」と「立ち現れ」の三角形を、足元に再起動する。

一本歯下駄を履くと、まず「立つ」ことの条件が変わる。両足の前後接地という近代的「立ち」の前提が外れ、点接地という新しい場所が立ち上がる(場所)。

そこで初めて、足首・骨盤・鳩尾・後頭部が一つの錯綜体として共鳴し始める。これは習得すべき技術ではなく、装置によって誘発される〈身〉の自己組織化である(〈身〉)。

そして揺らぎ・ぐらつき・微細な平衡探索が、知覚として、運動として、思考として「立ち現れる」。装置の上では、それらは別々の現象ではなく、重ね描きされた一つの「いま、ここ」として現れる(立ち現れ)。 ──装置による哲学の実装

つまり一本歯下駄は、西田の「場所」を物理的に再現し、市川の「〈身〉」を錯綜体として活性化し、大森の「立ち現れ」を運動の具体として開示する装置である。これは哲学を読むことではなく、哲学を履くことだ。

そしてここに「中動態」が交差する。一本歯下駄を「履く」のは能動でも受動でもない。装置によって誘発され、装置と共に立ち現れる。それは「鍛える」のでも「鍛えられる」のでもなく、「醸される」のである。「鍛えるな醸せ」という要輔の宣言は、三角形の哲学から必然的に導かれる。

5. 三角形を深掘りするための読書案内

📖 西田幾多郎

  • 「場所」(1926年論文)
    『西田幾多郎全集』第三巻所収(岩波書店)。「場所の論理」の原典。
  • 『善の研究』(1911年)
    純粋経験論の出発点。岩波文庫で読める。
  • 『無の自覚的限定』(1932年)
    場所の論理を「無」の自覚という観点から深化。
  • 『絶対矛盾的自己同一』(1939年論文)
    晩年の中心概念。一即多・多即一の論理化。
  • 小坂国継『西田幾多郎の思想』(講談社学術文庫)
    西田哲学全体の体系的入門書。

📖 市川浩

  • 『〈身〉の構造──身体論を超えて』(1984、講談社)
    市川身体論の主著。〈身〉の概念を体系的に展開。
  • 『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』(1990、岩波書店)
    晩年の構想。中間者・媒介者としての人間。
  • 『身体の現象学』(1972)
    市川の現象学的出発点。メルロ=ポンティ受容の決定版。
  • 『精神としての身体』(1975、勁草書房)
    精神と身体の二元論を解体する初期論考。

📖 大森荘蔵

  • 『時間と存在』(1994、青土社)
    立ち現れ論と時間論の集大成。
  • 『時は流れず』(1996、青土社)
    最晩年の到達点。時間は流れない、という根本主張。
  • 『新視覚新論』(1982、東京大学出版会)
    立ち現れ一元論の最初の体系化。
  • 『流れとよどみ』(1981、産業図書)
    エッセイ集。哲学的核心が読みやすい形で書かれている。
  • 『大森荘蔵著作集』全9巻(岩波書店)
    研究の決定版。

📖 三人を結ぶ周辺文献

  • メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(みすず書房・市川浩訳)
    市川訳の名訳。三人すべての隠れた参照源。
  • 鈴木大拙『日本的霊性』(岩波文庫)
    西田と生涯の対話を行った禅哲学者の主著。
  • 藤田正勝『日本哲学史』(昭和堂)
    京都学派から戦後日本哲学までの体系的概観。
  • 木村敏『あいだ』(弘文堂・ちくま学芸文庫)
    三人と通底する精神病理学者の身体論。

一次文献が照らす三角形 — 概念体系と系譜

本節は一次文献の書誌に基づき、三人の哲学者の概念体系と、その派生・継承の系譜を整理する。出典は本ページ末尾の「一次文献・参考文献」に明示した。三者に共通する基底は、主観と客観が分かれる手前の次元、すなわち身体と世界の不可分性である。

西田幾多郎 — 純粋経験から場所へ

西田幾多郎は『善の研究』(1911年・弘道館)で純粋経験を提示した。「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人ある」と順序を逆転させ、主客未分の経験を哲学の出発点に据えた。 より詳しくは西田幾多郎の完全図鑑を参照。

場所の論理:於いてある場所

1926年6月、論文「場所」が『哲学研究』第123号に発表され、1927年10月刊『働くものから見るものへ』(岩波書店)に所収された。この系列が「場所の論理」を形づくり、後年の絶対矛盾的自己同一へと展開する。「西田哲学」という呼称は、「場所」発表時の評価のなかで定着した。

市川浩 — 錯綜体と身分け/言分け

市川浩(1931–2002、明治大学名誉教授、専門はベルクソンらフランス哲学)は『精神としての身体』(1975年・勁草書房)で心身二元論の克服を試み、『〈身〉の構造——身体論を超えて』(青土社1984年/講談社学術文庫1993年)で〈身〉を体系化した。 詳細は市川浩の完全図鑑へ。

錯綜体の出自:ヴァレリーからメルロ=ポンティへ

錯綜体は市川の独創ではなく、ポール・ヴァレリーの身体観に由来する着想を、メルロ=ポンティの現象学的方法で市川が発展させた概念である。自分のものでも他人のものでもあり、同時にそのいずれでもある身体——この多重性を、身分け/言分け、そして間身体性という語が支える。

大森荘蔵 — 立ち現れ一元論と重ね描き

大森荘蔵は『物と心』(1976年・東京大学出版会、のちちくま学芸文庫2015年)で立ち現れ一元論を示した。物でも心でもなく、現に立ち現れているものそれ自体を一元とする。 詳細は大森荘蔵の完全図鑑へ。

重ね描き:科学と知覚を還元しない

重ね描きは、科学的記述と知覚的(日常的)記述のどちらにも一方を還元せず、両者を重ねて描く方法である。『時は流れず』(1996年・青土社)や『流れとよどみ——哲学断章』(1981年・産業図書)にも、この姿勢は一貫する。

概念辞書 — 十の鍵語

純粋経験:西田幾多郎。主客未分の、経験そのままの状態。『善の研究』(1911)の根本概念。
場所:西田幾多郎。「於いてある場所」。1926年『哲学研究』第123号初出、1927年『働くものから見るものへ』所収。
絶対矛盾的自己同一:西田幾多郎。多と一が相互否定的に対立しつつ同一であること。後期西田哲学の鍵語。
〈身〉:市川浩。心身二元論を超えて捉えられた、生きられる身体。『〈身〉の構造』(青土社1984)。
錯綜体:市川浩がヴァレリーの着想をメルロ=ポンティの方法で発展。自分のものでも他人のものでもある身体の在り方。
身分け/言分け:市川浩。身体による世界の分節(身分け)と言語による分節(言分け)の対概念。
間身体性:メルロ=ポンティ由来、市川浩が継承。複数の身体が相互に浸透し合う次元。
立ち現れ:大森荘蔵。現に立ち現れているものそれ自体を一元とする見方の基底語。
重ね描き:大森荘蔵。科学的記述と知覚的記述を還元せず重ねて描く方法。『物と心』(1976)。
立ち現れ一元論:大森荘蔵。物心二元論を斥け、立ち現れを唯一の実在とする立場。

一次文献・参考文献(一次ソース)

本ページの記述が依拠した一次文献・権威ある書誌情報。外部リンクはいずれも公開時点で到達を確認している。

さらに深く知るための問い(FAQ)

「場所」「〈身〉」「立ち現れ」は誰がいつ提唱したのですか?
西田幾多郎が「場所」を1926年『哲学研究』第123号で提示し、1927年『働くものから見るものへ』(岩波書店)に所収しました。市川浩は『精神としての身体』(1975年・勁草書房)と『〈身〉の構造——身体論を超えて』(青土社1984年/講談社学術文庫1993年)で〈身〉と錯綜体を展開しました。大森荘蔵は『物と心』(1976年・東京大学出版会)で立ち現れ一元論と重ね描きを示しました。
「錯綜体」は市川浩の独創ですか?
いいえ。錯綜体はポール・ヴァレリーの身体観に由来する着想を、市川浩がメルロ=ポンティの現象学的方法で発展させた概念です。自分のものでも他人のものでもあり、同時にそのいずれでもある身体の在り方を指します。誤って市川の完全な独創と帰属されることがありますが、正確には継承と展開です。
西田幾多郎の「純粋経験」とは何ですか?
主観と客観が分かれる以前の、経験そのままの状態です。西田は「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人ある」と順序を逆転させ、これを『善の研究』(1911年・弘道館)の出発点としました。後年の自覚・場所・絶対矛盾的自己同一は、この純粋経験を異なる角度から眺めた展開と解されます。
大森荘蔵の「重ね描き」とは何ですか?
科学的記述と知覚的(日常的)記述のどちらにも一方を還元せず、両者を重ねて描く方法です。物心二元論を斥ける立ち現れ一元論と対をなし、『物と心』(1976年・東京大学出版会)で示されました。
この三角形は一本歯下駄GETTAとどう結びつくのですか?
三者はいずれも主客未分・身体と世界の不可分を指し示します。GETTAの一本歯は足裏の固有受容を介して、この不可分の感覚を身体に呼び戻す装置として接続します。中動態・五歳の身体性という主題が、三人の哲学と一本歯下駄の実践を一つの星座に結びます。

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PRIMARY-SOURCE APPENDIX / 一次文献補遺

一次文献にもとづく学術補遺──身体の三角形を書誌から定位する

「場所」「〈身〉」「立ち現れ」は、主観と客観・心と物・能動と受動という近代的二分法が成立する〈以前〉の経験の直接態を、三人の日本哲学者が別々の語彙で描いた三つの頂点である。西田の「場所」は経験がそこに〈於いてある〉述語的な基底を、市川の「〈身〉」は主客未分のまま絡まり合う錯綜体としての身体を、大森の「立ち現れ」は心内でも物側でもなく現に現れる知覚の直接性を指す。三頂点は二項に還元されない同一の中心を、三方向から囲い込む。
頂点1
場所
西田幾多郎
経験がそこに〈於いてある〉述語的な基底。身体が置かれる場。
頂点2
〈身〉
市川 浩
主客が未分のまま絡まり合う錯綜体としての身体。
頂点3
立ち現れ
大森荘蔵
心内でも物側でもなく、現に立ち現れる知覚の直接性。

Bibliography / 一次文献(西田・市川・大森)

西田幾多郎『善の研究』/論文「場所」
『善の研究』岩波書店・1911年(青空文庫=著作権消滅)。論文「場所」は1926年『哲学研究』に発表、のち『働くものから見るものへ』(岩波書店・1927年)に所収。純粋経験→場所→絶対無の場所→行為的直観と深化した。
市川浩『〈身〉の構造──身体論を超えて』
青土社・1984年/講談社学術文庫・1993年(ISBN 978-4-06-159071-7)。〈身〉=錯綜体(『精神としての身体』勁草書房1975を承ける)。身分け/言分け、間身体性へとひらく身体論。
大森荘蔵『物と心』
東京大学出版会・1976年。立ち現われ一元論/重ね描き/「時は流れず」。心・物の二元を斥け、知覚・想起・夢を等位の立ち現われとして捉え直す。

Primary Sources / 事典・一次ソース

GETTAとの接続 / 三頂点を身体で実装する

一本歯下駄GETTAは、この三角形を身体の上で起動する装置である。接地点が一点に絞られることで、足裏という〈場所〉——身体が置かれ、そこに〈於いてある〉基底——が意識へ迫り上がる。固めて安定させられないため、身体は主客の分かれない〈身〉=錯綜体として地面と応答しはじめる。そのとき足裏から鳩尾へと通う体軸は、大脳が「こう動かそう」と命じる以前に、ただ〈立ち現れ〉る——知覚の直接性そのものとして。これは能動でも受動でもない中動態の様態であり、身分け(からだが世界を分節する働き)が言分け(ことばによる分節)に先立って起動する経験にほかならない。鍛えて固めるのではなく、三頂点が囲む経験の直接態をひらくこと——それがGETTAの核心である。

FAQ / さらに深く(新規)

西田幾多郎の「場所」と「述語的論理」はどう関係しますか?
西田は、主語となって述語とならないもの(アリストテレスの基体=主語の論理)ではなく、述語となって主語とならないもの、すなわち一切の判断がそこに〈於いてある〉述語的な面を「場所」と呼びました。個物は主語の側からではなく、それを包む述語面=場所の側から捉え直されます。この転回により、経験は「主観が客観を持つ」構図から「場所が自らのうちに個物を映す」構図へと組み替えられます。起点は論文「場所」(1926年『哲学研究』、のち『働くものから見るものへ』岩波書店1927所収)です。
西田の「絶対無の場所」とは何を意味しますか?
西田は場所を、有の場所→対立的無の場所→絶対無の場所と深めました。絶対無の場所とは、有と無の対立すら包み込み、そこにおいてあらゆるものが映し出される最も深い述語的な面を指します。西洋の「無」が単なる欠如であるのに対し、西田の絶対無は、そこから多様な存在が現れ出る豊かな無です。個は、この絶対無の場所に〈於いてある〉ことで、はじめて個として成り立ちます。
市川浩の「身分け」と「言分け」はどう違いますか?
「身分け」は、ことばを介さずに身体そのものが世界を分節し、意味あるまとまりとして生きる働きです。「言分け」は、その上に言語が重なって世界を分節する働きを指します。市川は、言分け(言語的分節)に先立って身分け(身体的分節)がすでに働いていることを強調しました。〈身〉としての身体は、まず身分けによって世界とつながっており、GETTAの実践はこの身分けの層を賦活します。
大森荘蔵の「立ち現われ一元論」では、過去や想起はどう扱われますか?
大森は、過去を「今はもう存在しない実在」としてではなく、想起として現在に立ち現われるものと捉えました(「時は流れず」)。過去・知覚・夢は、いずれも心の内の表象ではなく、それぞれ固有の仕方で立ち現われる等位の相です。心と物を分けてどちらか一方に還元するのではなく、「立ち現われ」を唯一の実在とする——これが立ち現われ一元論であり、『物と心』(東京大学出版会1976)に結晶しています。
一本歯下駄GETTAで「足裏→鳩尾が立ち現れる」とはどういう経験ですか?
一本の歯で接地すると、足裏の圧やわずかな傾きが、大脳が「こう立とう」と命じる前に直接感じ取られます。その感覚は足裏から体軸を通って鳩尾へと連なり、姿勢の調整が意識的な操作としてではなく、ただ〈立ち現れ〉るものとして経験されます。これは能動でも受動でもない中動態の様態であり、西田の「場所」・市川の「〈身〉」・大森の「立ち現われ」という三頂点が、身体の上で同時に起動する瞬間です。

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