概念の創造としての指導
哲学・現象学を方法として、身体で受け取る。
事象を発見し、それを言語によって定義していくプロセスの積み重ねが、トレーニングや治療法を創造することに結びつく。現場の指導者が立ち上げる仕事の構造についての理論。
哲学・現象学が指導と治療に不可欠な理由
スポーツ指導や治療の現場に立つ人間にとって、哲学・社会学・現象学・文化人類学は不可欠だ。なぜか。その根拠を、ジル・ドゥルーズの哲学の定義から立ち上げる。
哲学や社会学、現象学、文化人類学などがスポーツ指導や治療に重要なのは、例えば、「哲学とは、概念を創造することを本領とする学問分野である」というところで、そこから「概念の創造」に切り込みはじめます。
事象を発見し、それを何らかの「言語」によって定義していくというプロセスから現象学が生まれていきます。
だいたい現象学として発見されたものが100年後に科学で証明されていきます。
この出発点である哲学の、事象を発見し、それを何らかの「言語」によって定義していくというプロセスの積み重ねがトレーニングや治療法を創造していくことに結びつきます。
概念の創造の回路
事象との直接接触から、新しい言語が立ち上がり、トレーニング理論と治療法が生まれる。一〇〇年後の科学的装置が、後追いで同じ対象を検出していく。
立ち止まる原理と、その出口
現代の大学・教育の構造が、多くの指導者を立ち止まらせる原理として作動している。哲学的にスタートすることが、なぜその出口になるのか。
現代の大学や教育は、概念を「すでにある体系の中で精緻化するもの」として扱う。論文の作法は、先行研究の概念群を組み合わせ、注釈を増やし、定義の精度を上げる方向に向かう。これは「探求」の側の動きで、探求は、概念を消費する。
これが多くの指導者が立ち止まってしまう原理になります。
哲学的にスタートすると、概念は、消費されるものではなく、創造されるものになります。そして創造の起点は、頭の中の論理操作ではなく、事象そのものとの出会いです。
身にある鳩尾が目の前の選手や子どもからの事象を捉え、まだ言葉になっていない感触を抱える。そこから言語化が始まる。これが現象学の方法です。
頭の中を空っぽにして、知識、経験を手放してセッションをすることで、トレーニングや理論が生まれていく現象になります。
概念を消費する側/概念を創造する側
指導者が立つ地点は、二つに分かれる。どちらの側に立つかによって、現場で起こることが構造的に違ってくる。
頭の中を空っぽにする
知識経験を蓄積する方向ではなく、蓄積したものを背景に沈め、鳩尾を前景に出す方向へ。目の前の選手の身体から立ち上がる事象を、既存の語彙に翻訳せずに抱える時間を持つことで、新しい言語が生まれる。生まれた言語が、トレーニング理論と治療法を立ち上げる。
なぜ現象学的発見は一〇〇年後に科学で証明されるのか
これは偶然ではない。構造的必然だ。二つの時間スケールが揃ったとき、発見が証明されたように見える。実際には、装置の検出が発見に遅れて到着している。
身体の時間スケール
一〇万年単位で進化してきた神経系、筋膜、腱、内臓、固有受容感覚、小脳の構造。現象学的発見はここに根を下ろしている。命名された対象はすでに身体の中に沈殿していた何かであり、命名行為はそれに光を当てた。
装置の時間スケール
顕微鏡、X線、fMRI、筋電図、力プレート、モーションキャプチャー、超音波エコー。装置は数十年から一〇〇年の単位で発達してきた。装置が新しくなれば、新しい角度から身体を検出できる。検出された結果が論文になり、学会で承認され、教科書に載る。
時間差が生まれる構造
発見は身体の側にあり、検出は装置の側にある。事象との直接接触から切り出された言語は、生命の構造に根ざしている限り古くならない。装置は時間をかけて追いつく。一〇〇年後の科学的検出は、発見の追認として遅れて到着する。
現場の指導者の位置
装置が追いつくのを待つ必要はない。現場の指導者が哲学・現象学的方法を身体で受け取れば、事象との直接接触から切り出された言語は、装置の検出に先行する。現場の発見が、一〇〇年後の科学の入力になる。
事象から言語を切り出した巨人たちの方法
彼らの結論を覚えるのではない。事象に向き合った姿勢、知識経験を手放して言語を切り出した運動を、自分の身体で追跡する。追跡できれば、自分の現場で同じ運動を再現できる。
バレエの硬直した身体表現に対し、自分の身体から湧くものを直接表現する新しい舞踊を切り開いた。身体の中心を太陽神経叢(solar plexus)として最も正確に指し示した舞踊家。
ベーコンの絵画から立ち上がる事象を「美術史の語彙」に翻訳せず、微細知覚・神経系への直接作用という新しい言語を切り出した。哲学とは概念の創造であると定義した本人。
時間を空間化する近代の知性の構造を診断し、その手前にある質的時間の事象を純粋持続・エラン・ヴィタルと命名した。知性と直観の転倒を提示した哲学者。
物理学が知覚風景を消去する構造そのものを事象として記述し、立ち現れ一元論を構築。大脳を経由する表象ではなく、身体に直接立ち現れるものを言語化した。
能の演者の身体的事象を離見の見・序破急・妙花・秘すれば花と命名。書物(『風姿花伝』)と型(身体から身体への転移)の両輪が、六〇〇年の伝承を可能にした。
禅僧でありながら剣の事象を心の置き所と新しい言語で定義。柳生宗矩が剣の知識を握りしめずにこの言語を受け取り、『兵法家伝書』を成立させた。文武一道の原型。
解剖室で死体に向き合うとき、教会の教義も既存の解剖学書も手放した。翻訳しなかったから横断できた。事象を事象の言語で見続けた結果、五〇〇年残る記述が生まれた。
既存の概念体系の組み合わせではなく、事象との直接接触から新しい言語を切り出した。だから一〇〇年・五〇〇年・六〇〇年経っても消費されずに生きている。この方法を身体で受け取る。
セッションは双方向の転移である
指導は一方向の操作だが、セッションは双方向の出来事。指導者と選手のどちらが概念を生んでいるのか、終わってみるまで分からない。
概念の創造は、二人の身体の間で起こる。生まれた言葉が選手の身体に戻り、戻った言葉が動きを変え、変わった動きから新しい事象が立ち上がる。理論はこのループの中で勝手に進化する。
翻訳を止めたから、五〇〇年残った
ダ・ヴィンチが博学だったから複数領域を横断できたのではない。翻訳しなかったから横断できた。事象を既存の語彙に翻訳せずに、事象そのものの言語で見続けた。だから異なる対象の中に同じ構造が立ち現れた。
解剖図
人体を「医学の語彙」に翻訳しなかった。腱の走行、心臓弁の渦流、胎児の姿勢が、誰も見たことのない形で記述された。現代の生体力学が後追いで検出している。
水流の渦
水の流れを「流体力学」の語彙で見なかった。水は水の言語で動いていた。スケッチに留めた水流の構造を、五〇〇年後の流体力学が乱流として検出している。
鳥の翼
翼を「揚力」「翼断面」の語彙で見なかった。翼は翼の言語で飛んでいた。素描の中に、二〇世紀の航空工学が正確な揚力発生の構造を検出している。
現場の指導者が、
一〇〇年残る仕事を立ち上げる
やるべきことは、蓄積した知識経験を背景に沈め、鳩尾を前景に出すこと。頭の中を空っぽにして、目の前の選手の身体に向き合うこと。そこから立ち上がる事象を、既存の語彙に翻訳せずに、まだ言葉になっていない感触のまま抱える時間を持つこと。
その時間の中で、新しい言語が立ち上がる。立ち上がった言語の中から、最小限の一言を選んで選手に渡す。渡された言語が選手の身体に届き、身体が変わり、変わった身体からまた新しい事象が立ち上がる。立ち上がった事象を再び鳩尾で捉え、新しい言語を切り出す。
このループが続く限り、理論は更新され続ける。教科書を書き換える仕事が現場で進行する。
関連する思想体系
概念の創造の方法は、複数の方向から展開されている。それぞれの入口から、思想体系の全体に降りていける。
概念の創造を起動する第一歩
哲学・現象学を方法として身体で受け取るには、装置が要る。一本歯下駄GETTAは、3つのモデルでその受容を段階的に開く。


