中動態とは|するでもされるでもない態
古代ギリシア語やサンスクリットには、能動態(する)でも受動態(される)でもない第三の態――中動態があった。言語学者バンヴェニストは、印欧語のもともとの対立が「能動/受動」ではなく「能動/中動」であったことを示し、哲学者・國分功一郎は『中動態の世界』でこの失われた態から〈意志〉と〈責任〉の起源を問い直した。中動態とは、主語が過程の外から動かすのではなく、過程の内側に置かれ、その座となる文法である。GETTAの『鍛えるな育てよ』――履けば、する・されるの手前で身体が変わっていく――の言語的な原型が、ここにある。
定義──する・されるの手前の態
私たちは動詞を、ふつう能動態(私が押す)と受動態(私が押される)の二つで考える。だが古代ギリシア語やサンスクリットには、その二つに収まらない第三の態――中動態があった。中動態では、主語は行為を外から対象へ及ぼすのではなく、過程そのものの内側に置かれている。「生まれる」「育つ」「ほれる」「驚く」のように、ことが身に起こるとき、その動詞は中動態的である。
能動と受動が「するか・されるか」という外向きの力の方向を問うのに対し、中動態が問うのは「過程がどこで起きているか」である。中動態において、主語は過程の座(フランス語 siège)となる。これは単なる古語の文法事項ではなく、私たちの意志や責任の感覚を根底から問い直す視座となる。
バンヴェニスト「能動と中動」──印欧語の本当の対立
この態を言語学の中心に据えたのが、エミール・バンヴェニスト(Émile Benveniste, 1902–1976)である。論文「動詞の能動態と中動態」(Actif et moyen dans le verbe, 1950年)で彼は、印欧語の根源的な対立が、後世に当然視される「能動/受動」ではなく、「能動/中動」であったことを示した。受動態は、もともと中動態の一用法から派生した、歴史的に後発の態にすぎない。
この論文は、論文集『一般言語学の諸問題』(Problèmes de linguistique générale, 1966年)に収められ、構造言語学の古典となった。バンヴェニストは、能動態を外態(diathèse externe)、中動態を内態(diathèse interne)と呼ぶ。能動では主語は過程の外にあって対象へ働きかけ、中動では主語は過程の内にあってその座となる。
主語は過程の「座」である
バンヴェニストの定義の核心は一文に凝縮される。中動態において「動詞は、主語がその座であるような過程を表す(le verbe indique un procès dont le sujet est le siège)」。つまり主語は、過程を外から引き起こす行為者ではなく、過程がそこで生起する場所なのである。
「眠る」「成長する」「思い出す」「恋に落ちる」――これらにおいて、私は何かを「する」のでも「される」のでもない。過程は私において起こる。中動態は、主体を世界の操作者ではなく、出来事が通り過ぎていく場として描く。これはGETTAの中動態と同期の身体観と深く響き合う。
古代ギリシア語の中動態
古代ギリシア語では、中動態は姿勢の変化(立つ・坐る)、身づくろい(衣を着る・髪を結う・身を洗う)、知覚や感情(見える・喜ぶ・恐れる)など、動作主が自らその過程の影響下にある状況に広く用いられた。多くの時制で中動態は受動態と同形であり、文脈によって読み分けられた(grammatical voice)。
さらにギリシア語・ラテン語には、形は中動・受動なのに意味は能動というデポネント動詞(異態動詞)が存在する。「従う」「生まれる」「使う」などがそれで、能動/受動の枠組みでは説明しきれない、中動態の痕跡である。
サンスクリットの為自言(ātmanepada)──パーニニの分類
同じ構造はサンスクリットにも見られる。文法家パーニニ(Pāṇini)は、動詞の態を為他言(parasmaipada、「他者のための語」)と為自言(ātmanepada、「自己のための語」)に分けた。為自言は、行為の結果が行為者自身に及ぶことを表し、ギリシア語の中動態にほぼ対応する。
「自分のために供える」「自ら学ぶ」のように、過程が行為者に折り返してくるとき、サンスクリットは為自言を選ぶ。古代の印欧語が、世界を「する/される」ではなく「自分の外で起きるか・自分において起きるか」で切り分けていたことが、ここからも確かめられる。
中動態はなぜ消えたか──〈意志〉の誕生
中動態は、なぜ多くの言語から姿を消したのか。バンヴェニストの記述を承けて、國分功一郎は能動/受動という新しい対立の確立が、中動態を歴史の外へ押し出したと論じる。する者か・される者か――この二分法は、行為を誰の意志に帰すかを鋭く問う枠組みである。
能動/受動の言語は、あらゆる出来事に責任の主体を要求する。「した」のは誰か、ゆえに「責任」は誰にあるのか。中動態が後景に退くのと入れ替わりに、〈意志〉という概念が前景化する。文法の変化は、人間が自己と行為を理解する仕方そのものの変化だった。
國分功一郎『中動態の世界』──意志と責任の考古学
この洞察を一冊の哲学書へ結晶させたのが、國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院、2017年。シリーズ〈ケアをひらく〉)である。本書は第16回小林秀雄賞を受賞し(新潮社)、紀伊國屋じんぶん大賞2018でも第1位に選ばれた。
國分は、失われた文法カテゴリーである中動態を考古学的に発掘し、「意志」や「責任」が自明の人間本性ではなく、能動/受動という言語の編成とともに歴史的に立ち上がったものであることを示す(CiNii書誌/学術書評)。私たちは「自由に意志して行為する主体」という像を疑い、もう一度、過程の座としての自己を考え直すよう促される。
スピノザとドゥルーズ──考えるのではなく、考えが生まれる
國分が中動態の哲学的水源として読み解くのが、スピノザとドゥルーズである。スピノザにおいて「考える」とは、「私が考える」という能動ではない。精神のうちで観念が次々につながっていく過程であり、私はその過程の座にすぎない。これはまさに中動態的な像である。
ドゥルーズの出来事の哲学もまた、「する」主体に先立つ生成を描く。デリダ、ハイデガー、アレントらの読解を経て、國分は、能動/受動の手前でものごとが生起する次元を回復しようとする。中動態は、近代的な意志する主体の像にひびを入れる思考の道具なのである。
依存症・責任・ケア──中動態が照らすもの
『中動態の世界』が医学書院の〈ケアをひらく〉から刊行されたのは偶然ではない。本書は依存症をめぐる臨床の問いから出発している(医学界新聞)。やめられない人に「あなたの意志が弱い」と責めるとき、私たちは能動/受動の枠組みで人を裁いている。
だが依存とは、する・されるの手前で人が過程に巻き込まれていく、きわめて中動態的な事態である。中動態の視座は、責任を問う前に過程を見るまなざしを開く。これはケア、教育、そして身体の指導にも通じる、実践的な射程をもつ。
日本語と中動態──「ゆ・らる」「おのずから」
日本語にも中動態的な層は色濃い。古語の助動詞「ゆ・らゆ」「る・らる」は、受身・自発・可能・尊敬を一つの形で担う。「思ほゆ」(おのずと思われる)、「聞こゆ」(おのずと聞こえる)は、誰かがするのでもされるのでもなく、ことがおのずから起こる相を表す。
「おのずから(自ら)」と「みずから(自ら)」が同じ漢字で書かれることは、日本語の身体感覚の核心を示す。する主体(みずから)と、起こる場(おのずから)は、地続きである。中動態は、日本語話者にとって決して遠い異国の文法ではない。
誤解と正しい理解
誤解「中動態=受動態の古い言い方」――正しくない。受動態はむしろ中動態から派生した後発の態であり、中動態のほうが古く広い。中動態は「される」ことではなく、主語が過程の座であることを表す。
誤解「中動態=再帰(自分を〜する)」――再帰は中動態の一部にすぎない。「身を洗う」は再帰だが、「生まれる」「恋に落ちる」は自分を対象にしているわけではない。中動態の本質は、過程の内部に主語が置かれていることにある。
GETTA思想体系との接続──鍛えるな育てよ・中動態の身体
中動態は、GETTAの思想体系の言語的な背骨である。スローガン『鍛えるな育てよ』は、能動(鍛える=力で身体を作る)でも受動(誰かに作られる)でもない、第三の道を指している。一本歯下駄を履いて立つとき、身体は「する」のでも「される」のでもなく、足裏とバランスの過程の座となり、おのずと組み変わっていく。
この中動態的な変化は、確率共鳴(ノイズが感覚を増幅する)やカオス共鳴(複数の身体が一つの場になる)といったGETTAの中核概念と一つの体系をなす。さらに、他者の身体と知覚以前に響き合う間身体性も、中動態の場で立ち上がる現象である。
態の体系(詳説)
能動と中動の対立
バンヴェニストによれば、印欧語の動詞はまず能動(外態)と中動(内態)に分かれた。区別の基準は「過程の座が主語の外にあるか・内にあるか」である。能動と受動という今日の常識的対立は、この古い体系の上に後から重ねられたものである。
受動の後発性
受動態は、中動態の一用法(過程を被る主語)が独立して文法化したものである。受動は中動の子であり、「する/される」という二分法は、歴史的にはむしろ新しい人間の発明だった。
文法カテゴリーとしての中動態(詳説)
デポネント動詞
形は中動・受動でも意味は能動というデポネント動詞は、態の体系が能動/受動の二分法に還元できないことの生きた証拠である。ラテン語の「sequor(従う)」「nascor(生まれる)」などが知られる。
再帰との違い
再帰(自分を〜する)は中動態と重なるが同じではない。中動態の核は、主語が過程の座であること――自己対象化ではなく、過程の内在である。「驚く」「恋に落ちる」は再帰ではないが、紛れもなく中動態的である。
意志・責任・自由(詳説)
アレントと意志
國分はアレントの意志論を参照し、〈意志〉が行為の起源として要請される歴史的経緯を追う。意志は自然な人間本性ではなく、能動/受動の言語が要求する装置である。
自由と中動態
中動態の回復は、自由の否定ではない。むしろ「意志の有無で人を裁く」貧しい自由観を超え、過程に内在しつつ変化する、より深い自由を考えるための鍵となる。
中動態と身体・運動(詳説)
確率共鳴と引き込み
微弱な信号がノイズによって増幅される確率共鳴や、リズムへ引き込まれる同期は、する・されるの手前で身体に起こる中動態的現象である。身体は信号を「処理する」主体ではなく、共鳴が生起する座となる。
五歳の身体性
神経ループが開いていた子どもの身体は、努力して動くより先に、世界に応じておのずと動く。GETTAはその中動態的な身体を、もう一度ひらこうとする。
稽古・ケア・場へ──中動態を生きる
中動態は、稽古・ケア・指導の現場で具体的な力をもつ。「もっと頑張れ」と意志を急かす能動の指導でも、「言うとおりにやれ」と従わせる受動の指導でもなく、学習者が過程の座となり、おのずと組み変わっていく場をつくること――それが中動態の指導である(GETTAのトレーニング体系)。
する・されるの二分法に疲れたとき、中動態は別の生き方を指し示す。世界を操作する主体であろうとするのをやめ、出来事が起こる場として在ること。GETTAの思想全体像と、姉妹サイトpipotore.comの実践は、この中動態的な身体へ通じている。
一次文献・学術ソース
本ページの記述は以下の一次文献・権威データベースで裏取りしている。
- 中動態(ウィキペディア日本語版)概念の全体像・用例・各言語の中動態。
- バンヴェニスト「動詞の能動態と中動態」(Actif et moyen dans le verbe, 1950)中動態論の古典的原典(OpenEdition)。
- 『一般言語学の諸問題』(Problèmes de linguistique générale, 1966)上記論文を収めた論文集の書誌。
- 國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院, 2017)中動態を主題とする哲学書。第16回小林秀雄賞。
- 「中動態の世界」と医療(医学界新聞, 2017)依存症・ケアと中動態をめぐる論考。
- 國分功一郎『中動態の世界』(UTokyo BiblioPlaza)著者所属大学による書誌解説。
- 書評『中動態の世界』(東北学院大学・学術リポジトリ, PDF)査読誌掲載の学術的書評。
- 中動態の世界(CiNii Research 書誌)全国書誌・所蔵データ。
よくある質問
する でも される でもない。身に起こるのだ。
鍛えようと力めば(能動)、身体は固まる。されるがままに任せれば(受動)、何も起こらない。中動態は、その手前にある。履いて立つと、足裏とバランスの過程の座として、身体がおのずと組み変わっていく。
する・されるの二分法は、〈意志〉と〈責任〉を前提に世界を切り分けた。だが身体が本当に変わるのは、いつも中動態の相においてである。『鍛えるな育てよ』とは、中動態を生きよ、という宣言にほかならない。
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